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山が牙を剥く

奇妙な撤退にも、やがて羽柴勢は慣れ始めた。


最初のうちは、一本の矢が飛んでくるだけで隊列が止まった。


石が転がれば槍を構えた。


藪が揺れれば鉄砲を向けた。


鹿が飛び出せば、


「伏兵だ!」


と叫ぶ者までいた。


だが、それが半日、一日と続けば、人は慣れる。


「またじゃ」


矢が一本飛んでくる。


「放っておけ」


石が落ちる。


「どうせ数人じゃ」


鳥が飛ぶ。


誰も止まらなくなった。


羽柴勢は学習した。


敵は大軍ではない。


山の中に少人数が潜み、嫌がらせを続けているだけだ。


こちらを本気で攻める力はない。


少弐本隊も疲弊している。


後ろの宇喜多も一定以上には近づいてこない。


ならば恐れる必要はない。


秀吉自身も、そう考え始めていた。


「慣れたのう」


馬上で後ろを見ながら秀吉が言った。


また一本、矢が落ちた。


今度は誰も振り返らない。


竹中半兵衛も頷く。


「兵がいちいち足を止めなくなりました」


「それでええ」


秀吉は前を向いた。


「相手もそれが分かれば諦めるじゃろ」


実際、そのころから攻撃はさらに減った。


矢が来ない。


石も来ない。


鹿も出ない。


静かな時間が長くなる。


羽柴兵たちは、ようやく山のもののけから解放されつつあるように感じ始めた。


その時だった。


後方から、


「敵襲――!」


絶叫が響いた。


秀吉が振り返る。


これまでとは違った。


一本の矢ではない。


石でもない。


人がいた。


森から飛び出した男たちが、羽柴の最後尾へ一気に襲いかかっていた。


少弐虎衆だった。


「虎衆じゃ!」


羽柴兵が槍を構えるより早い。


虎衆は、これまで散発的に嫌がらせをしていた者たちとはまるで違う動きを見せた。


まとまっている。


速い。


そして深く入ってこない。


後列へ噛みつき、数人を倒す。


荷を切る。


馬を驚かせる。


反撃の兵が集まり始めると、すぐ森へ戻る。


「追うな!」


秀吉が叫んだ。


その判断は早かった。


だが虎衆は消えなかった。


少し離れた場所から、また現れた。


「後ろじゃ!」


再び襲う。


羽柴が兵を回す。


消える。


別の場所から出る。


一度だけではなかった。


だん。


羽柴が止まる。


虎衆が消える。


進む。


だん。


また後ろを叩かれる。


「進め!」


秀吉が怒鳴る。


進む。


だん。


また襲われる。


羽柴軍の歩みが速くなった。


後ろを守ろうとすれば撤退が遅れる。


止まれば宇喜多が近づいてくる。


虎衆を追って森へ入ることだけはできない。


だから前へ行く。


だん。


また来る。


「急げ!」


だん。


「前へ!」


だん。


だん。


だん。


いつの間にか、羽柴勢は追われていた。


先ほどまでの矢や石とは違う。


今度は本当に牙がある。


それまで散々、


何かがいる。


と思わせ続けた山が、


羽柴兵がそれに慣れたところで初めて、本物の兵を吐き出したのである。


秀吉は舌打ちした。


「ここで来るか!」


だが、止まらなかった。


丹波へ戻る。


その方針だけは変えない。


「前の道は!」


秀吉が叫ぶ。


斥候が戻ってきた。


「こちらです!」


羽柴方の装備を身につけた男だった。


「この先、本道は塞がれております!」


「何?」


「崩れた木が道を塞いでおります! ですが脇道があります!」


後ろでまた声が上がる。


虎衆が来た。


宇喜多もいる。


秀吉にはゆっくり確認している時間がなかった。


「小一郎が調べた道か!」


「途中より分かれますが、先で本道へ戻れます!」


男は即答した。


秀吉は一瞬だけ迷った。


本来なら、もう一隊を出して確認させるところだった。


だが――。


どん。


後方で鉄砲が鳴った。


虎衆との戦闘が始まっている。


「殿!」


「分かった!」


秀吉は決めた。


「その道を行け!」


羽柴勢が方向を変えた。


斥候が先導する。


最初は普通の道だった。


人が通った跡もある。


馬も進める。


「急げ!」


羽柴勢が入っていく。


後ろから虎衆が迫る。


だから止まれない。


やがて道が細くなった。


木々が増える。


「……おい」


秀吉が周囲を見る。


先ほどまで開けていた空が、枝に覆われ始めている。


さらに進む。


森が深くなる。


「半兵衛」


「はい」


「この道……」


半兵衛も気づいていた。


本道へ戻る道にしては、妙に山へ入っている。


「斥候!」


秀吉が前を見た。


先ほどまでいた男の姿がない。


「斥候はどこじゃ!」


返事がない。


「先ほどの者を探せ!」


兵が走る。


いない。


秀吉の背筋に、冷たいものが走った。


「……またじゃ」


奪われた旗。


剥がされた装備。


偽の兵糧。


敵影なしという報告。


そして、


羽柴の格好をした斥候。


「止まれ!」


秀吉が叫んだ。


軍が止まる。


だが遅かった。


前を見る。


森。


右を見る。


森。


左を見る。


森。


振り返る。


自分たちが入ってきた細い道の向こうでは、虎衆の襲撃を受けた後続が次々とこちらへ流れ込んできている。


戻ろうにも、軍勢が詰まっている。


竹中半兵衛が静かに言った。


「殿」


秀吉は答えなかった。


半兵衛も、それ以上言わなかった。


言われなくても分かった。


虎衆は羽柴を倒すために後ろから襲ったのではない。


急がせたのだ。


矢。


石。


獣。


静寂。


それを何度も繰り返し、羽柴を慣れさせる。


そして突然、本物の虎衆を出す。


後ろから噛みつく。


急がせる。


判断する時間を奪う。


その瞬間に、


安全な道を教える味方を一人置いておく。


秀吉は暗い森を見上げた。


風が吹いた。


枝が揺れた。


ざわざわと葉が鳴る。


それまで何度も聞いた音だった。


だが今度は、意味が違った。


「……もののけめ」


秀吉が呟いた。


山に追われていたのではない。


最初から。


矢が一本飛んできた時から。


石が転がった時から。


鹿が走った時から。


すべてがここへ続いていたのだとしたら。


羽柴勢はようやく気づいた。


自分たちは山から逃げていたのではない。


山の奥へ、追い込まれていた。

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