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奇妙な撤退戦

羽柴秀吉は丹波へ向けて、軍を少しずつ動かしていた。


急がない。


崩れない。


先頭には秀長が確かめた道を使わせ、その後ろを美濃衆、若狭衆が続く。


秀吉がもっとも警戒していたのは、前だった。


荷駄を奪われた。


物見を殺され、旗や装備まで奪われた。


偽の兵糧まで送り込まれた。


ならば当然、退路にも何かある。


「先をよく見ろ。道の脇もじゃ」


秀吉は何度も命じた。


「何もない時ほど疑え」


斥候を先へ出す。


戻ってくる。


「異状ございませぬ」


今度は別の者を出す。


同じ道を調べさせる。


「敵影なし」


以前なら、その言葉を聞いて安心しただろう。


今は違った。


敵影なし。


その言葉そのものが気味悪い。


だが実際、前には何も現れなかった。


伏兵もいない。


道も塞がれていない。


橋も残っている。


少弐勢が先回りしている気配すらなかった。


「……来んのう」


秀吉は馬上から前方を睨んだ。


前は静かだった。


ところが後ろには、はっきりと敵がいる。


宇喜多勢だった。


備前の旗が一定の距離を保ちながら、羽柴軍を追ってくる。


「宇喜多か」


秀吉は振り返った。


近すぎない。


遠すぎない。


こちらが反転すれば、すぐに下がれる。


こちらが進めば、その分だけ前へ出る。


実にいやらしい距離だった。


「直家め」


秀吉は苦笑した。


「あいつらしい追い方しよるわ」


宇喜多直家なら分かる。


無理には来ない。


羽柴が崩れるまで待つ。


こちらが疲れ、隊列が乱れた瞬間だけ食いつくつもりなのだろう。


だから秀吉も宇喜多との距離だけは絶えず確認させた。


奇妙なことが起き始めたのは、それからだった。


ひゅっ。


一本の矢が飛んできた。


羽柴兵の足元へ突き刺さる。


「敵襲!」


兵が振り返る。


だが宇喜多勢は遠い。


弓が届く距離ではない。


「なんじゃ?」


秀吉も振り返った。


宇喜多勢に動きはない。


しばらくすると、


ひゅっ。


また一本。


今度は荷を背負った兵の近くへ落ちた。


さらに――。


ごつっ。


「痛っ!」


石だった。


後列の兵の陣笠に当たった。


「どこからじゃ!」


兵たちが道の左右を見る。


誰もいない。


林。


岩陰。


斜面。


探しても姿が見えない。


だが軍が再び動き始めると、


ひゅっ。


矢が来る。


石が落ちる。


一人が傷つく。


二人が立ち止まる。


そのたびに隊列が乱れる。


「宇喜多が射っとるのでは?」


若狭衆の一人が言った。


秀吉はすぐに首を振った。


「届くか、阿呆」


宇喜多は遠い。


絶妙に遠い。


弓では届かない。


投石ならなおさらだ。


ならば――。


「……またか」


秀吉の顔から表情が消えた。


土とごみの入った兵糧俵。


消えた荷駄隊。


奪われた旗。


戻ってきた正体の分からない物見。


敵影なしという報告。


そして今度は、


敵のいない場所から飛んでくる矢。


秀吉は前を見る。


何もいない。


後ろを見る。


宇喜多がいる。


だが遠い。


その間から、矢だけが飛んでくる。


「止まるな!」


秀吉が叫んだ。


「矢一本で隊を止めるな!」


兵たちは再び歩き始める。


すると矢は止んだ。


しばらく進む。


何もない。


また安心しかけたころ、


ごろごろっ。


斜面から石が落ちてきた。


大きな岩ではない。


人を押し潰すほどでもない。


だが隊列を乱すには十分だった。


兵が避ける。


荷駄が止まる。


後ろが詰まる。


「進め!」


秀吉が怒鳴る。


ようやく動き出す。


すると、また何も起こらなくなる。


半兵衛がしばらく周囲を見ていた。


「殿」


「なんじゃ」


「討つ気がないのでは」


秀吉が半兵衛を見る。


「……何?」


「これだけ撃てるなら、もう少しまとめて射てるはずです」


確かにそうだった。


矢は一本。


二本。


多くても数本。


石も同じ。


殺すための攻撃ではない。


「足を止めたい?」


「いえ」


半兵衛は首を振った。


「止めたり、進ませたりしたいのでしょう」


秀吉は黙った。


妙だった。


前には敵が出ない。


後ろの宇喜多は一定の距離を保つ。


その間で、姿の見えない何者かが羽柴軍へちょっかいを出している。


前へ進めば静かになる。


止まれば矢が飛ぶ。


後ろを警戒して兵を集めれば、別の場所から石が来る。


まるで――。


「牛でも追っとるつもりか」


秀吉が呟いた。


半兵衛が答えなかった。


その比喩があまりにも近かったからである。


羽柴軍は敗走しているわけではない。


隊伍も残っている。


兵数でもまだ十分な力がある。


それなのに、進む方向だけが少しずつ決められていく。


前には敵がいない。


だから前へ進む。


後ろには宇喜多がいる。


だから戻れない。


立ち止まれば、どこからともなく矢や石が飛んでくる。


だからまた進む。


「小一郎!」


秀吉が秀長を呼んだ。


「道は本当に丹波へ出るんじゃな?」


「わし自身で確かめた。今のところ間違いない」


「今のところ、か」


秀吉はその言葉を噛んだ。


以前なら笑っただろう。


今は笑えない。


秀吉は周囲の山を見上げた。


姿はない。


旗もない。


大軍が潜んでいる気配もない。


それなのに、自分たちの動きだけが見られている。


「……気色悪い戦じゃ」


正面から襲ってくれれば戦える。


宇喜多が突っ込んでくれば反転して叩ける。


少弐が追いついてくれば、こちらも陣を敷ける。


だが誰も来ない。


ただ羽柴軍だけが歩かされる。


そして後ろでは宇喜多直家もまた、妙な思いを抱き始めていた。


「……わしら、何を追っとる?」


羽柴は目の前にいる。


だが近づけない。


少弐から先鋒を任された以上、止まるわけにもいかない。


だから距離を保って追う。


すると羽柴の後列へ、時折矢や石が飛ぶ。


「うちではないぞ」


直家は言った。


当然である。


届かない。


なのに羽柴から見れば、後ろにいる軍勢は宇喜多しかいない。


直家は山を見た。


何も見えない。


その時、初めて気づいた。


自分は少弐の策を利用しているつもりだった。


羽柴を追うふりをして、弱ったところを見極める。


だが今、この道の上では――


羽柴の前にも少弐はいない。


宇喜多の後ろにも少弐の本隊は見えない。


それなのに二つの軍勢だけが、同じ方向へ進んでいる。


羽柴は前へ。


宇喜多はその後ろへ。


そして見えない何者かが、矢と石でその間隔を調整している。


秀吉も直家も、まだ知らなかった。


これは追撃戦なのか。


撤退戦なのか。


それとも、まだ少弐冬明の戦の中なのか。


ただ一つ確かなことがあった。


奇妙な撤退が、始まっていた。

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