策士、策を外す
羽柴秀吉は、徐々に兵を退き始めた。
一度に退かない。
夢野に広げた陣を一つずつ畳み、外側の兵から後方へ送る。空いた陣には旗を残し、篝火を焚き、時には少人数を往来させた。
少弐冬明も、それには気づいていた。
だが追わなかった。
いや。
追えなかった。
「……ようやく退くか」
少弐は遠ざかり始めた羽柴の旗を見ながら呟いた。
虎衆も鷹衆もよく働いた。
森可成を討ち、荷駄を奪い、後方を乱した。
だが、それだけの戦をしたのである。
こちらも無傷ではない。
数では最初から羽柴に劣る。
負傷者も増えている。
眠れていない兵も多い。
羽柴が一気に崩れて逃げるならともかく、秀吉は隊伍を保ったまま下がっている。
ここへ無理に食いつけば、今度はこちらが反撃を受ける。
だから少弐は急がなかった。
羽柴が一里退けば、こちらも半里進む。
羽柴が止まれば、こちらも止まる。
これから始まるのは、そんな緩やかな追撃戦になるはずだった。
そこへ――。
思いもよらぬ客が現れた。
「備前、宇喜多勢!」
陣中がざわめいた。
宇喜多直家だった。
遅い。
あまりにも遅い。
羽柴と少弐が森を巡って死闘を繰り広げ、森可成が討たれ、羽柴の兵糧が奪われ、秀吉がついに撤退へ転じた。
その戦況を十分に見届けてから、宇喜多はやってきた。
だが本人は、実に申し訳なさそうな顔をしていた。
「少弐殿!」
直家は少弐の前へ進み出ると、深々と頭を下げた。
「いやはや、遅参いたした。まことに申し訳ござらぬ」
少弐は黙って見ている。
直家は顔を上げた。
「備前をも攻めるとの噂を耳にいたしましてな。これは捨て置けぬと兵を率いて参ったところ――」
そこで夢野の方角を指した。
「なんと、少弐殿が羽柴と戦っておられるではないか」
大げさに驚いてみせる。
「それがしも秀吉を討つつもりで参った。されど、事情も知らず兵を動かしては、少弐殿の兵と同士討ちになってもいかん」
直家はもっともらしく続けた。
「機を見てお声がけしようとは思っておったのですが……いや、それがし、こういうことはどうにも不得手でしてな」
その言葉を聞いた何人かが、微妙な顔をした。
宇喜多直家が。
機を見て話しかけることが不得手。
誰が信じるのか。
しかし直家は平然としていた。
「それに――」
少弐を見て笑った。
「少弐殿の戦ぶり、まこと見事であった。ついつい見惚れてしまいましてな。それで遅参いたした次第」
もう一度、頭を下げる。
「申し訳ない」
そして顔を上げた。
今度は力強く言った。
「されど、これからは違いますぞ」
直家は羽柴勢が退いていく方向を示した。
「さあ少弐殿。共に織田を討ちましょうぞ」
白々しい。
だが宇喜多直家には計算があった。
彼はずっと戦況を見ていた。
だから知っている。
羽柴は傷ついた。
少弐も傷ついた。
そして少弐勢には、今すぐ激しい追撃を行う余力がない。
兵庫津にも、すぐに動かせる大軍は残っていない。
ならば、ここで少弐に恩を売ればいい。
勝った側へ立つ。
羽柴が退けば少弐の勝利を祝い、少弐が崩れれば別の顔をする。
どちらが勝っても宇喜多は損をしない。
そして少弐も疲弊している以上、
「では宇喜多殿、しばらく共にここを守りましょう」
そう答えるだろう。
直家はそう読んでいた。
策士である。
人の欲を読むことには慣れている。
恐怖も読む。
損得も読む。
だからこそ――。
少弐冬明という男の思考を、読み違えた。
「それはありがたい」
少弐は素直に答えた。
直家が一瞬だけ目を細める。
少弐は続けた。
「我らは見ての通りじゃ」
周囲には負傷兵がいる。
疲れ切って座り込んでいる虎衆もいる。
「戦いにより傷つき、疲弊しておる」
「いやいや、あれほどの戦をなされたのです。当然でござろう」
直家は笑顔で頷いた。
「されど――」
少弐が笑った。
「そこまで申してくださるならば、ぜひお願いしたい」
「ほう?」
「これより羽柴を追う」
直家の笑顔が、ほんのわずかに止まった。
「……追われる?」
「うむ」
少弐は当然のように頷いた。
「羽柴は退き始めておる。されど我らだけでは足が鈍い」
そして直家を見る。
「ゆえに宇喜多殿」
嫌な予感がした。
「追撃戦の先鋒をお頼みしたい」
直家は黙った。
周囲も静かになった。
少弐には悪意がない。
皮肉でもない。
宇喜多を罠に嵌めようとしているわけでもない。
ただ、直家が言った言葉を、そのまま受け取っただけだった。
――共に織田を討とう。
だから、
では一緒に討ちに行こう。
それだけである。
「もちろん」
少弐はさらに言った。
「宇喜多殿だけを戦わせるつもりはない」
直家が少しだけ安堵しかける。
「我らとて、ここに留まるつもりはない」
その安堵が消えた。
「傷ついた者をまとめ次第、我らも続く」
少弐は立ち上がった。
「宇喜多殿が先鋒。我らがその後ろにつく」
そして心底ありがたそうに頭を下げた。
「先ほどのお言葉、まこと感じ入った」
直家は何も言えない。
「さあ」
少弐は羽柴が退いていった方角を見た。
「羽柴を討ちに行こう」
宇喜多直家は、ここへ来るまでいくつもの筋書きを考えていた。
羽柴が勝てば羽柴につく。
少弐が勝てば少弐につく。
双方が疲弊すれば、その間で最も得をする位置を取る。
場合によっては弱った方を叩いてもいい。
少なくとも、自分から一番危険な場所へ飛び込むつもりだけはなかった。
だから戦がほぼ決してから現れた。
だから戦勝を祝った。
だから、
「共に織田を討とう」
と言った。
その言葉は、同盟の挨拶でしかなかった。
少なくとも直家にとっては。
ところが少弐冬明は違った。
言葉をそのまま受け取った。
共に討つと言ったのだから、共に討つ。
しかも宇喜多勢は到着したばかり。
兵は疲れていない。
羽柴を追うには、これ以上ない軍勢だった。
直家はようやく気づいた。
少弐は自分の策を見破ったのではない。
こちらの腹を読んで、逆手に取ったのでもない。
もっと始末が悪い。
何も疑わず、宇喜多直家の言葉を信じたのである。
だから断る理由がない。
ここで、
「いや、追撃はちょっと」
などと言えば、先ほどまでの言葉が全部嘘だったと自分から認めることになる。
少弐が笑う。
「頼りにしておりますぞ、宇喜多殿」
直家も笑った。
「……無論にござる」
笑うしかなかった。
こうして、本来ならば疲弊した羽柴と少弐のどちらかへ最後に乗るつもりだった宇喜多直家は――
なぜか自分が、
撤退する羽柴秀吉を追う先鋒になっていた。




