二つ目の罠
土とごみの詰まった兵糧俵を見つけてから、羽柴秀吉の戦い方は変わった。
表向きは変えない。
夢野ではこれまで通り小競り合いを続ける。
鉄砲を撃たせ、物見を出し、旗を並べる。少弐勢から見れば、羽柴軍はいまだ数の優位を頼みに長期戦を構えているように見えた。
だが、その裏で秀吉は弟を呼んだ。
「小一郎」
羽柴秀長が進み出る。
「丹波へ帰る道を探せ」
秀長は一瞬だけ兄を見た。
「帰るのか」
「まだじゃ」
秀吉は地図から目を離さなかった。
「帰ると決めてから道を探したんじゃ遅い。先に道を作っとくんじゃ」
秀長には信頼できる兵を与えた。
目的は敵を探すことではない。
丹波まで通じる道を調べる。
どの道が生きているか。
どこに敵が潜めるか。
橋は落とされていないか。
途中で兵を休ませられる場所はあるか。
そして何より、羽柴の旗を掲げた者を見ても無条件には信用しない。
秀長自身の目で確かめる。
それだけを命じた。
同時に秀吉は、夢野に広げた軍を少しずつ縮め始めた。
昨日まで百人を置いていた場所を七十人にする。
七十人を置いた場所を五十人にする。
だが旗は減らさない。
篝火も焚く。
昼には兵を歩かせる。
少弐勢から見える羽柴軍の大きさを変えずに、中身だけを少しずつ後ろへ寄せていった。
そんな中、一つの報せが入った。
奪われた兵糧らしき荷が、有馬方面へ運び込まれているという。
それを聞いた秀吉は、
「はっ」
と笑った。
「わしの米、そんなところにおったか」
周囲にも笑いが起こりかけた。
取り返せばいい。
そう考えた将もいた。
だが秀吉は地図を引き寄せた。
有馬。
山に囲まれている。
そこへ至る道も限られる。
秀吉の表情から、すぐに笑みが消えた。
「……いや」
指で道をなぞる。
「これは行ったらあかん」
半兵衛が地図を覗き込んだ。
「奥まっておりますな」
「そうじゃ」
秀吉は有馬の位置を指で叩いた。
少人数なら山道を抜けられる。
虎衆や鷹衆のような兵なら、なおさらだ。
だが正規の軍勢は違う。
何千という兵。
荷駄。
馬。
鉄砲。
負傷者。
それらを抱えて有馬へ入れば、動ける道は限られる。
そして一度奥へ入れば――。
「出口を塞がれたら終わりじゃ」
秀吉が言った。
兵糧を見せる。
奪われた米を追わせる。
取り返そうとして軍勢が山へ入ったところで、道を塞ぐ。
「二つ目じゃな」
半兵衛が秀吉を見る。
秀吉は笑った。
「一つ目で米を取る。二つ目で、その米を餌にしてわしを山へ引っ張る」
本当にそこまで少弐が考えているのかは分からない。
だが、今の羽柴軍には確かめる余裕がない。
罠でなかったとしても、有馬へ向かうこと自体が危険なのだ。
秀吉はあっさり決めた。
「米はくれてやれ」
将たちがざわめいた。
「取り返しませぬか」
「いらん」
秀吉は即答した。
「米を惜しんで兵を失う阿呆がおるか」
それに――。
秀吉は現状を一つずつ数えた。
森可成を失った。
兵糧を奪われた。
補給線には敵が入り込んでいる。
丹波・若狭から集めた兵の中には、羽柴へ非協力的な者がいる可能性がある。
どの報告が本物なのか分からない。
そして目の前には、まだ少弐冬明の軍勢が健在だった。
勝てないわけではない。
兵数なら羽柴が上だ。
正面から戦えば、まだ十分に戦える。
だからこそ秀吉は考えた。
ここでその兵を使い潰す必要があるのか。
「半兵衛」
「はい」
「わしらは負けたか?」
半兵衛は少し考えた。
「森殿を失い、兵糧を奪われました」
「うむ」
「されど羽柴勢そのものは、まだおります」
秀吉が笑った。
「それじゃ」
兵がいる。
ならば持って帰ればいい。
ここで少弐と意地を張り、兵糧が尽きるまで戦う必要はない。
丹波へ戻る。
そして明智光秀と合流する。
秀吉は地図の丹波を指した。
「明智殿と攻め手を替える」
半兵衛が顔を上げた。
「光秀殿をこちらへ?」
「そうじゃ」
秀吉は夢野を見た。
自分はすでに少弐と戦った。
森を抜けた。
兵糧を奪われた。
物見まで乱された。
ならば次は、自分とは違うやり方をする男に任せればいい。
調略。
懐柔。
離間。
戦場そのものへ出る前から相手を崩していく明智光秀なら、少弐に対して別の攻め方をするだろう。
逆に秀吉は丹波へ戻る。
明智が相手にしていた土地と敵を引き受ける。
「わしは兵を残す」
秀吉は言った。
「ここで少弐に全部食わせてやる必要はない」
撤退ではある。
だが敗走にはしない。
前線を一度に捨てれば追われる。
だから段階的に下がる。
外側の陣から兵を抜く。
次に前衛を下げる。
夜には空になった陣へ篝火だけを残す。
朝になれば別の場所で小競り合いを起こし、まだ羽柴がそこにいると思わせる。
秀長が丹波への道を確保するまで、それを繰り返す。
秀吉は最後に有馬を見た。
奪われた自分の兵糧が、あの山の向こうにある。
「惜しいのう」
そう言って笑った。
「じゃが、米はまた作れる」
そして自分の周囲に並ぶ兵たちを見た。
「こいつらは畑から生えてこん」
森可成を失った。
それだけでも十分だった。
これ以上、少弐の用意した戦場で将兵を失う必要はない。
勝ちを捨てたのではない。
戦う場所を捨てるのだ。
秀吉は決めた。
夢野から兵を一枚ずつ剥がす。
少弐に気づかれぬよう丹波へ戻り、明智光秀と合流する。
そして攻め手を交換する。
少弐冬明との戦は、明智に渡す。
自分は羽柴の兵を温存する。
「小一郎が道を作ったら帰るぞ」
秀吉は夢野を眺めながら言った。
「今度は、わしらが戦場を選ぶ番じゃ」




