消えた旗、偽りの兵糧
夢野へ広く兵を展開してからも、羽柴秀吉は決戦を急がなかった。
数では勝っている。
森を切り開いたことで諸隊の連絡も戻り、後続の兵も次々と合流している。少弐勢がいかに精強でも、こちらには交代させられるだけの人数がある。
ならば、小競り合いを繰り返せばよい。
一日で勝つ必要はない。
二日、三日、さらにその先まで戦いを引き延ばせば、先に疲れるのは少数の少弐勢だ。
秀吉はそう読んでいた。
ところが、その計算を始めたころから、妙なことが重なった。
「敵影、ありませぬ」
後方から戻ってきた物見が言った。
「街道にも異状なし。荷駄も順次こちらへ向かっております」
最初は秀吉も聞き流した。
だが翌日も、
「敵影なし」
その次も、
「異状ございませぬ」
だった。
あまりにも何もない。
「……おかしいのう」
秀吉は呟いた。
目の前では少弐勢がこれほど執拗に食らいついている。
その少弐が、こちらの後方だけは綺麗に放置しているというのか。
しかも長い戦になり、羽柴本隊が持ってきた兵糧は目に見えて減ってきていた。
だからこそ、丹波やさらに後方から届いたという荷はありがたかった。
「新しい荷を開けい」
秀吉は何気なく命じた。
兵が縄を切る。
俵が開かれた。
「……ん?」
上には米が入っていた。
だが妙だった。
手を突っ込んだ兵が、途中で動きを止めた。
「殿」
「なんじゃ」
兵が手を引き抜いた。
掌に載っていたのは米ではない。
黒い土だった。
秀吉の顔から笑みが消えた。
「全部開けろ」
次の俵を裂く。
上だけ米。
下は土。
別の荷を開ける。
今度は藁屑だった。
さらに別の包みには、使い物にならない木片やぼろ布まで詰め込まれている。
兵糧に見えるよう形だけ整えられた、ただのごみだった。
竹中半兵衛も黙って荷を覗き込んだ。
秀吉は一つの俵を蹴った。
「これが、丹波から届いたじゃと?」
誰も答えられない。
「小一郎」
秀吉はすぐに弟を呼んだ。
秀長がやってくる。
「兵を選べ。わしらが残してきた荷駄隊を探せ」
「今来た荷ではなく?」
「元の荷じゃ」
秀吉は土の入った俵を指した。
「誰が運んできたかも調べろ。途中の物見もじゃ。何かがおかしい」
秀長は少数の兵を率いて後方へ向かった。
羽柴勢が通ってきた道を逆に辿る。
しばらくは何もない。
だが、やがて道から外れた場所で死体が見つかった。
「こちらです!」
秀長が近づく。
羽柴の兵だった。
一人ではない。
さらに奥にも倒れている。
そして奇妙だった。
身ぐるみを剥がされたというだけではない。
刀がない。
槍がない。
具足もない。
だが、それ以上に念入りに消えているものがあった。
旗だった。
羽柴方であることを示す旗。
荷駄隊の所属を示す目印。
指物。
羽柴勢の一員であることを遠くから見分けるための物が、ことごとく持ち去られている。
秀長はそれを見て、しばらく動かなかった。
「……金目の物だけを奪ったんじゃない」
敵は必要な物を選んでいる。
武器。
具足。
そして旗。
荷駄隊になりすますために必要な物を。
秀長はさらに周囲を探させた。
本来なら残っているはずの荷車もない。
馬もいない。
兵糧もない。
兄が後方へ残した本物の荷駄隊は、すでに潰されていた。
夢野へ戻った秀長は、土の入った俵を前に兄へ報告した。
「兄者。本物の荷駄は、やられとる」
秀吉は黙って聞いた。
「旗まで持っていかれとった。指物もじゃ。荷駄の印になるものを、念入りに」
半兵衛が顔を上げた。
「旗まで?」
「うむ」
その一言で意味が変わった。
兵糧を奪いたいだけなら、旗などいらない。
だが羽柴の兵になりすますなら必要になる。
秀吉は、これまで届いた報告を思い返した。
――敵影なし。
――異状なし。
――荷駄は後から来る。
そして実際に届いた荷。
中身は土とごみ。
「……やられた」
秀吉が低く言った。
二つの可能性があった。
本物の物見が殺され、その装備を奪った者が羽柴の斥候として紛れ込んでいる。
あるいは。
丹波や若狭から徴発した者たちの中に羽柴へ非協力的な者がおり、敵と通じて偽りの情報を流している。
もしかすると、その両方かもしれない。
半兵衛が静かに言った。
「殿。これまでの後方からの報せ、一度すべて疑った方がよろしいかと」
秀吉は答えなかった。
それが一番恐ろしい。
どこからが嘘なのか分からないのだ。
昨日の報告か。
三日前か。
もっと前からか。
秀吉は夢野の向こうにいる少弐勢を見た。
目の前の敵は見える。
旗も見える。
兵の数も、おおよそ分かる。
だが自分たちの背後には、見えない戦場ができていた。
そして羽柴秀吉は、ようやく理解した。
少弐冬明たちは、自分たちを前から押し返そうとしているだけではない。
羽柴軍が何を見て、何を信じるかまで戦場にしている。
秀吉は振り返った。
「小一郎」
「うむ」
「今日から後ろの報せは、お前か半兵衛が確かめたもの以外、鵜呑みにするな」
秀長が頷く。
秀吉はもう一度、裂かれた俵を見た。
米の間から、黒い土がこぼれていた。
兵糧が奪われたことよりも恐ろしい。
羽柴軍はつい先ほどまで、
この土を、自分たちを支える米だと信じていたのである。




