夢野に広がる秀吉の陣
森を斬った。
その決断が、ようやく羽柴勢を一つの軍へと戻しつつあった。
木々を倒し、藪を払い、狭い道を押し広げる。これまで森と谷に分断されていた諸隊が互いの姿を確認できるようになると、兵たちの動きにも秩序が戻った。
そして何より大きかったのは、後続の到着だった。
森の方面で戦っていた部隊が前へ出てくる。
赤井直正。
阿波辺岩蔵。
そして、その配下にある正規の精鋭たち。
彼らが姿を現したことで、羽柴勢の前線は一気に厚くなった。
「……これなら、押せる」
そう口にする者もいた。
だが、秀吉は首を振った。
「押さん」
意外な言葉だった。
兵の数では羽柴方が勝っている。
森を切り開いたことで部隊間の連絡も容易になった。後続まで合流した今なら、少弐冬明らを一気に押し潰そうと思えば、少なくともその試みはできる。
しかし秀吉は、それをしなかった。
「向こうは強い。じゃが、疲れとる」
少弐虎衆をはじめ、少弐の周囲に集まる兵はよく戦った。
山にも強い。
少人数で動くことにも慣れている。
だからこそ、狭い場所へ大軍を押し込めば、かえって羽柴方の損害が増える。
ならば広げればいい。
「夢野まで使え。横へ広がれ」
秀吉は命じた。
「追い立てるんじゃない。逃がさんように広がるんじゃ」
羽柴勢は夢野方面へ次々と展開を始めた。
一つの大きな塊となって少弐勢へぶつかるのではない。
部隊を分け、互いに連絡できる距離を保ちながら、少しずつ前へ出る。
少弐勢が一隊へ襲いかかれば、隣が動く。
隣へ向かえば、そのまた隣が前へ出る。
それでも深追いはしない。
矢が飛ぶ。
鉄砲が鳴る。
数十人ほどが斬り結ぶこともある。
だが、どちらかが大きく動こうとすれば、羽柴方はすぐに引いた。
しばらくすると、また別の場所から兵が出てくる。
小競り合い。
また小競り合い。
戦は終わらない。
だが、決戦にもならない。
少弐たちにとって、それこそが厄介だった。
その羽柴勢の変化を、後方から黒田官兵衛はじっと見ていた。
森を斬ったことで道ができた。
後続が追いついた。
ばらばらだった隊がまとまり、秀吉自身もようやく戦場全体を見る余裕を取り戻している。
官兵衛はそこで初めて息を吐いた。
「……もうよかろう」
自分たちが前に居続ける必要はなくなった。
むしろ、ここから先は前へ兵を詰め込みすぎる方が危険だった。
「後ろへ下がるぞ」
黒田勢が動き始める。
敗走ではない。
前線を秀吉へ返し、自らはさらに後方へ用意していた、より強固な陣地へ構えを移すのである。
柵を巡らせる。
土を盛る。
射線を取り、道を絞る。
兵糧や弾薬を置き、負傷兵を収容できる場所も整える。
官兵衛は、そこで初めて腰を据えた。
もし秀吉が崩れれば、ここで受け止める。
もし少弐が退けば、ここを起点に追撃を支える。
そして秀吉が戦線を維持できるなら、自分は無理に前へ出ない。
前線では羽柴勢が夢野へ広がり続けていた。
そのため、少弐勢との間には以前よりわずかな空白が生まれた。
互いの陣が離れたのである。
だが、戦が静まったわけではなかった。
その空白へ、双方の小隊が入り込む。
偵察。
牽制。
鉄砲。
弓。
時には十人、二十人ほどが突然ぶつかり、すぐに離れる。
朝にも戦い。
昼にも戦い。
夕暮れにも、どこかで鉄砲の音がした。
それでも秀吉は動かなかった。
「勝とうと思うな」
諸将を集め、秀吉は繰り返した。
「今日は負けんかった。それでええ。明日も負けん。それでええ」
少弐たちは強い。
ならば、その強さそのものと戦う必要はない。
食わねばならない。
眠らねばならない。
傷を負えば治さねばならない。
人間である以上、いつまでも同じ強さでは戦えない。
羽柴方には数がある。
交代できる。
休ませられる。
前へ出す兵を替えることができる。
ならば時間を味方につければよい。
夢野の野に、羽柴の旗が一本、また一本と増えていった。
少弐勢から見れば、それは押し寄せてくる大軍というより、地面そのものを覆っていくような不気味な広がり方だった。
攻めてこない。
だが、退きもしない。
こちらが動けば必ず反応する。
秀吉は、ようやく自分の数を正しく使い始めていた。
森で潰されかけた羽柴勢は、もはや森の中で少弐と戦おうとはしていない。
夢野という広い場所へ戦場そのものを移し、自らの兵数が最大の武器になる形へ変えようとしていた。
そして後方には、黒田官兵衛が築いた新たな陣がある。
少弐が羽柴を破ったとしても、その先にもう一つ壁がある。
羽柴が少弐を破れなくとも、兵を替えながら戦い続けられる。
決着を急がない。
ただ疲れさせる。
少弐冬明と羽柴秀吉の戦いは、ここにきて初めて、激突ではなく消耗を競う戦へと姿を変え始めていた。




