鵯越を見下ろして
羽柴勢の後ろが、急に厚くなった。
少弐冬明にも、それは見て取れた。
先ほどまで山道を下ってくる兵は、前へ前へと進もうとしていた。
ところが今は違う。
後から鵯越を越えてきた兵が、そのまま夢野へ下りてこない。
山腹で止まり、羽柴秀吉の後方へ集まり始めている。
「……変えたな」
少弐が呟いた。
黒田孝高も山を見上げた。
「どうやら、そのようですな」
少弐には山の向こうで何が起きたのかまでは見えない。
だが、動きを見れば分かる。
当初、羽柴の後続は先発に続いて鵯越を抜け、そのままこちらの側背へ回るつもりだったのだろう。
それが途中で止まった。
山上から夢野を見下ろせば、理由も分かる。
少弐たちは待っていた。
急造の陣ではない。
逆茂木がある。
柵がある。
杭がある。
荷馬車が道を塞いでいる。
その後ろには鉄砲を持った兵が並び、さらに槍兵が控えている。
山から駆け下りて奇襲するには、あまりにも相手がこちらを向いていた。
「奇襲にならんな」
少弐が言った。
「ええ」
黒田が答える。
「上から見れば、一目で分かりましょう」
少弐もそう思った。
鵯越を越えること自体は成功した。
だが、越えた先で少弐が無防備に背を向けているわけではない。
夢野へ下りる道そのものが塞がれている。
ここへ後続まで次々と流し込めば、狭い山道で兵が詰まるだけだ。
そして何より――先に進んだ森可成の先発隊から、まともな知らせが戻ってこない。
後続の将が異常を感じないはずがなかった。
「だから下りるのをやめたか」
少弐は山腹を指した。
兵が横へ動いている。
夢野へ突っ込むのではない。
すでに戦っている羽柴勢の後ろへ回っている。
「羽柴の後続になるつもりだな」
奇襲を捨てたのだ。
鵯越から一気に少弐の側背へ襲いかかるという役目を諦め、すでに夢野で戦っている秀吉の軍勢へ合流する。
その判断自体は正しい。
少弐もそう思った。
「俺でもそうする」
黒田が少弐を見る。
「ほう」
「奇襲にならんのに山から兵を落としてどうする。先に羽柴がいるなら、あそこを支えた方がましだ」
「そのおかげで羽柴殿の後ろが安定します」
「そうだな」
実際、変化はすぐに現れた。
羽柴勢の動きから焦りが薄れていく。
後ろに味方がいる。
退路もある。
兵を入れ替えられる。
負傷者を下げられる。
弾薬も回せる。
それまで柵へ取りついては押し返されていた羽柴勢が、少しずつまとまり始めた。
「面倒になったな」
少弐は素直に言った。
そして、もう一つ気づく。
「……鷹衆がいない」
虎衆の精鋭も見えない。
先ほどまで山中を動いていた者たちが、不思議なほど綺麗に姿を消している。
そのため羽柴側から見れば、なおさら後方が安全になったように感じるだろう。
少弐はしばらく山を見た。
だが、何も言わなかった。
やがて伝令が駆け込んできた。
「申し上げます!」
少弐が振り返る。
「森勢先発――壊滅!」
少弐の表情が止まった。
「……そうか」
それだけ答えた。
そして、改めて羽柴勢を見る。
皮肉なものだった。
鵯越の後続は、山上から戦場を見た。
奇襲は無理だと判断した。
森勢の異変も感じ取った。
だから無理をせず、羽柴秀吉の後ろを固めることにした。
正しい判断だった。
おかげで秀吉は余裕を取り戻した。
兵をまとめ直し、少弐の阻止線へ集中できるようになった。
羽柴勢の勢いが、目に見えて増していく。
だが――。
「遅かったな」
少弐は呟いた。
奇襲を諦める判断も正しい。
秀吉へ合流する判断も正しい。
後方を固める判断も正しい。
ただ、その判断をした時には、
森可成率いる先発隊は、すでに壊滅していた。
少弐は杖を握り直した。
「官兵衛」
「はい」
「ここから羽柴は強くなるぞ」
「でしょうな」
「なら、甚兵衛に伝えろ。勝とうとするな。前へ出るな。柵一枚ごとに時間を食わせろ」
「承知」
少弐は眼前へ向き直った。
羽柴勢が再び動き始めていた。
今度は後ろがある。
兵も増えた。
勢いもある。
鵯越からの奇襲部隊だった者たちまで加わった羽柴勢が、一つの軍勢として少弐へ向かってくる。
だが少弐たちも、ここで待ち続けていた。
逆茂木。
柵。
杭。
荷馬車。
鉄砲。
槍。
時間をかけて積み上げたものが、まだ何重にも残っている。
少弐は白煙の向こうに秀吉を探した。
「さあ来い」
鵯越の奇襲は、もうない。
ここからは真正面だった。




