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逆落としを待つ者――鵯越、泥中の赤鬼

三月。


羽柴秀吉は、ついに荷駄を切り離した。


ただし、全軍で鵯越へ入ったわけではない。


先に行くのは――森可成。


しかも選んだのは歩兵ではなかった。


騎馬の精鋭。


秀吉が欲しかったのは、戦線を押し上げるための先鋒ではない。


山を一気に越え、少弐方が対応するより早く兵庫津近くへ飛び出す刃だった。


森可成は、その役にはあまりにも似合っていた。


「行くぞ!」


馬が山へ入った。



---


義経の逆落とし。


軍記に語られる、あまりにも有名な一ノ谷の物語。


森可成たちは、それを自分たちの身体でなぞった。


道を選ばない。


いや――馬に選ばせる。


人間が足元を見れば躊躇するような斜面でも、馬は四肢を踏ん張り、自ら落ちぬ場所を探す。


「手綱を引くな!」


森の声が飛ぶ。


「馬に任せよ!」


一頭が降りる。


続いて二頭。


三頭。


やがて精鋭騎馬が、六甲の斜面を雪崩のように落ち始めた。


石が飛ぶ。


土が崩れる。


枝が折れる。


騎手は馬首に身体を伏せる。


森可成自身も、その先頭近くにいた。


速い。


恐ろしく速い。


ここまで秀吉軍を苦しめてきた巨木も。


壊された荷車も。


夜ごと米を奪う鷹衆も。


狭い道から撃ちかける虎衆も。


今は関係ない。


荷駄を捨てた。


街道も捨てた。


ならば――


誰にも止められない。


そう思った。



---


そして森勢は山を抜けた。


鵯越から兵庫津側へ下った先――夢野。


現在の兵庫区北部にあたる、山地から兵庫津方面へ開けていく土地だった。


森可成は馬上から前を見た。


開けている。


兵庫津は近い。


「出たぞ!」


声が上がった。


森可成は笑った。


成功した。


義経と同じだ。


山を越えた。


敵の意表を突いた。


あとは――


駆けるだけ。


その時だった。


馬の蹄が、


ずぶり、


と沈んだ。



---


森が下を見る。


泥。


前日の雨で湿っただけではない。


妙に深い。


だが止まるほどではない。


「進め!」


森勢が前へ出る。


ずぶ。


ずぶ。


馬脚が取られる。


速度が落ちる。


それでも騎馬なら突破できる。


森がそう判断した――


その刹那。


泥が動いた。


正確には。


泥の中に伏せていた人間たちが、一斉に立ち上がった。


「――かかれぇッ!」


声。


森可成が振り向く。


赤い。


泥まみれの兵の中から、一人の武将が立ち上がっていた。


赤井直正。


丹波の赤鬼。



---


「森可成ェ!」


直正は笑っていた。


心底楽しそうだった。


「待っておったぞ!」


森の顔色が変わった。


「赤井――!」


槍。


馬。


泥。


人。


すべてが一瞬でぶつかった。


森勢が山から落ちてくる、その瞬間だった。


騎馬が最も勢いを持っているはずの瞬間。


その速度を――泥が殺した。


そこへ赤井勢。


馬の横。


前。


斜め。


槍が入る。


馬が嘶く。


騎手が落ちる。


森可成は怒鳴った。


「止まるな! 抜けよ!」


精鋭だった。


普通なら、ここで崩れていた。


だが森の騎馬は崩れない。


馬首を返す者。


槍を振るう者。


下馬して戦う者。


森可成本人も前へ出る。


赤井直正も引かない。



---


乱戦。


そう報告された。


だが――


あとで官兵衛は首を振った。


「乱戦ではありませぬ」


俺は聞いた。


「じゃあ何?」


官兵衛は淡々と答えた。


「狩りに時間がかかっているだけです」


ひどい言い方だった。


だが実際、それに近かった。


森勢は本来、


山から突然現れた騎馬精鋭で、大軍を泡を吹かせる側だった。


それが逆になった。


山を降りた瞬間。


足を取られ。


待ち構えられ。


自分たちが泡を吹かされた。


ただし――


森可成が強かった。


森の兵も強かった。


だから狩り切れない。


直正が噛みつく。


森が受ける。


また直正が押す。


森が兵をまとめ直す。


一刻。


さらに一刻。


想定以上に森可成は持ちこたえた。



---


そして。


遅れて――


羽柴秀吉が来た。


「森殿を助けよ!」


秀吉は状況を見るなり叫んだ。


予想していた光景ではない。


森可成が兵庫津を蹂躙しているはずだった。


少弐が慌てて兵を集めているはずだった。


違う。


森勢が――


捕まっている。


秀吉はすぐに理解した。


「合流する!」


森を孤立させれば終わる。


ならば本隊をぶつける。


兵数ならこちらが上。


森勢と繋がれば、赤井直正一軍を逆に包める。


秀吉は兵を進めた。


その時だった。


「前方!」


街道に――


人影が並んだ。



---


シレトク。


エカシロ。


ハウキ。


そして北から来た者たち。


少弐虎衆。


秀吉軍の進む街道を、横一文字に塞いでいた。


秀吉が顔をしかめる。


「こやつら……!」


山で荷駄を襲っていた者たち。


だが今回は逃げない。


森可成と合流するためには、ここを通るしかない。


秀吉が兵を前へ出す。


すると――


今度は前方から鬨の声。


「何じゃ!」


別の一隊が現れた。


率いていたのは――


赤井甚兵衛。


同じ赤井でも、赤鬼ではない。


俺が播磨へ来て最初に仲間になった男。


俺が皆の前で、


「お前には悪さを借りる」


と言った男だった。


甚兵衛が率いていたのは、温存していた虎衆の予備。


森可成と秀吉。


二つの軍勢の間へ――


楔のように入った。



---


秀吉はそこで理解した。


森可成を待ち伏せしたこと。


秀吉本隊の到着も予想していたこと。


そして何より――


森と秀吉を合流させないこと。


全部、最初から決まっていた。


「押し通せ!」


秀吉が叫ぶ。


虎衆が受ける。


後ろからも圧力。


前には甚兵衛。


横は山。


狭い。


まただ。


秀吉は思った。


また――


狭い。


荷駄を置いてきた。


米も置いた。


身軽になった。


それなのに最後にはまた、


狭い道へ押し込められている。



---


俺にも戦場の音は聞こえていた。


森可成が直正殿に捕まった。


秀吉が来た。


虎衆が道を塞いだ。


甚兵衛も出た。


「俺も行く」


俺は立ち上がった。


「殿」


官兵衛が言った。


「行くよ」


「なりませぬ」


「直正殿たちが戦ってる」


「だからです」


俺は官兵衛を見る。


「森勢を押し切れば勝てるかもしれない」


「殿」


官兵衛の声が強くなった。


珍しかった。


「我々の戦場は、そこではありません」


「でも――」


官兵衛が地図を叩いた。


清盛館。


戦場。


その間。


俺たちがいる場所。


「ここです」



---


「羽柴殿が何のために鵯越をしたと思われます」


「兵庫津を取るため」


「違います」


官兵衛は俺を見た。


「少弐冬明を動かすためです」


俺は黙った。


「森殿が危ない」


「はい」


「羽柴殿も止められている」


「はい」


「ならば殿は助けに行きたくなる」


図星だった。


官兵衛は続けた。


「だから動いてはなりません」


「……ここで何をする?」


官兵衛が答えた。


「通さない」


そして珍しく、俺に命令するように言った。


「清盛館と戦場の間――ここを、一兵たりとも通してはなりません」


俺は官兵衛を見る。


「殿は動かずに!」


強い声だった。


俺は止まった。



---


戦場では赤井直正と森可成がまだ戦っている。


秀吉は虎衆を押す。


甚兵衛が合流を阻む。


それでも秀吉軍は大きい。


森可成も簡単には崩れない。


どこか一つでも破れれば、形勢が変わる。


だからこそ――


俺は動いてはいけない。


官兵衛が欲しいのは、最後の予備だった。


何かが抜けた時。


どこかが破れた時。


兵庫津へ走る織田兵を止める最後の壁。


それが――


俺。


「分かった」


俺は座り直した。


「ここにいる」


官兵衛が頷いた。


「それでよろしい」


「でも直正殿が危なくなったら」


「その時は私が申します」


「甚兵衛は?」


「同じです」


「虎衆は?」


「同じ」


俺はため息をついた。


「大将って暇だな」


官兵衛が笑った。


「暇でいてください」



---


そして。


そんな俺たちを――


少し離れた場所から眺めている旗があった。


宇喜多。


隠していない。


むしろ逆だった。


見せている。


「あれ」


俺も気づいた。


「宇喜多?」


官兵衛が目を細める。


「そのようです」


「何してるの?」


「見ております」


「それだけ?」


「今のところは」


宇喜多の兵は動かない。


秀吉を助けない。


俺たちも攻めない。


だが、わざわざ戦場の端まで来ている。


しかも――


こちらにも秀吉にも見える場所に。


「中立?」


俺が聞いた。


官兵衛が答える。


「中立であることを、見せに来たのでしょう」


俺には意味がよく分からなかった。


「見せる必要ある?」


「宇喜多にはあるのでしょう」



---


宇喜多は馬上から戦場を見ていた。


森可成。


赤井直正。


秀吉。


虎衆。


甚兵衛。


そして――


少弐本隊。


どちらにも使者を出さない。


どちらにも旗を振らない。


ただそこにいる。


秀吉から見れば、


宇喜多が来た。


少弐から見ても、


宇喜多が来た。


だが、どちらの味方でもない。


それこそが宇喜多の望んだ姿だった。


今、勝敗を決める必要はない。


ただし。


どちらが勝ちそうなのか。


誰が強いのか。


誰が崩れるのか。


それだけは――


自分の目で見ておく。



---


夕刻が近づいても。


森可成はまだ倒れなかった。


赤井直正も退かなかった。


秀吉は森へ届かない。


虎衆は道を塞ぐ。


甚兵衛は前から噛みつく。


俺は動かない。


官兵衛が動かしてくれない。


そして宇喜多は――


見ている。


奇妙な戦場だった。


誰もが誰かを待っていた。


森は秀吉を。


秀吉は森との合流を。


直正殿は森が折れる瞬間を。


虎衆は秀吉が疲れる瞬間を。


官兵衛は敵が最後の手を出す瞬間を。


宇喜多は――


勝者が決まる瞬間を。


俺は泥だらけの戦場を見ながら、ようやく分かってきた。


秀吉は義経になろうとした。


森可成は、義経の逆落としを再現した。


そして実際――


山を越えることには成功した。


だからこそ皮肉だった。


鵯越そのものには成功した。


失敗したのは、その後だ。


義経の時には、山の下に待っている者はいなかった。


今回は違う。


泥の中に――


丹波の赤鬼が伏せていた。


そして、そのさらに後ろでは。


黒田官兵衛が俺を座らせたまま、まだ一枚も最後の札を切らずに戦場を見ていた。

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