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義経の影――秀吉、鵯越を選ぶ

三月。


羽柴秀吉は、ついに軍議を開いた。


西へ向かってからというもの、思ったほど軍が進まない。


戦に負けたわけではない。


大きな城に阻まれたわけでもない。


そもそも敵の主力と、まともに戦ってすらいなかった。


それなのに――遅い。


「またか」


秀吉の前に、一俵の米俵が置かれた。


正確には、破られた俵の残骸だった。


「昨夜、荷駄より二十七俵が失われました」


秀吉は何も言わなかった。


「馬が三頭。荷車一台も見当たりませぬ」


森可成が腕を組む。


「追ったか」


「山へ入りましたが、途中で足跡が散っております」


「虎衆か」


「おそらく」


秀吉が首を振った。


「違う」


森が見る。


「鷹じゃ」


昼に襲う者。


夜に盗む者。


役割が違う。


それを秀吉はすでに理解していた。


問題は――理解したところで捕まらないことだった。



---


秀吉は地図を広げた。


山。


谷。


狭い道。


その先には兵庫津。


近い。


本当に近い。


だが近づけば近づくほど、嫌な感じが強くなっていた。


「森殿」


「何じゃ」


「このまま進むのは、まずい」


森可成も否定しなかった。


道が狭い。


前方には少弐の勢力圏。


後方では鷹衆と虎衆が動いている。


秀吉軍は大軍である。


大軍だから強い。


だが細い街道に伸び切った大軍は違う。


「前を塞がれれば?」


森が言った。


「後ろから来る」


秀吉が答えた。


「後ろを固めれば?」


「前から来る」


「山へ兵を入れれば?」


「逃げる」


二人とも黙った。


最悪なのは――


狭い街道で前後を挟まれることだった。


鷹衆や虎衆だけなら怖くない。


だが少弐本隊が前に現れ、その瞬間に鷹衆と虎衆が後方を塞いだら。


大量の荷駄を抱えた秀吉軍は身動きが取れなくなる。


「筑前」


森可成が地図を指した。


「荷駄を捨てるか」


秀吉が顔を上げた。


正確には捨てるのではない。


ここへ置く。


守備兵を残す。


必要最低限の兵糧だけ各兵に持たせる。


荷車も減らす。


そして――


一気に走る。



---


「鵯越じゃ」


森可成が言った。


その言葉が出ると、軍議にいた者たちの顔が変わった。


誰もが知っている。


源義経。


一ノ谷。


鵯越。


平家が思いもしなかった山側から現れ、一気に敵陣へ襲いかかった英雄。


秀吉自身も、ここまで何度もその故事を口にしていた。


自分たちは義経と同じ道を進んでいる。


義経もまた、常道ではなく山を選んだ。


そして勝った。


秀吉は地図を見た。


「……一気に抜けるか」


「それがよい」


森が答えた。


「このまま少弐の小勢に付き合っていては、いつまで経っても兵庫へ着かぬ」


秀吉も同じことを考えていた。


荷駄があるから遅い。


米を守るから止まる。


道を塞がれれば、荷車を通すために巨木を退かさなければならない。


ならば――


荷駄を置けばいい。


軽装の兵だけで山へ入る。


森可成を先頭に一気に鵯越を敢行する。


山を越えたら休まない。


そのまま兵庫津へ殺到する。


清盛館を強襲する。


少弐冬明に軍を整える暇を与えない。


兵庫津を取る。


そこで戦を終わらせる。


秀吉は立ち上がった。


「よし」


軍議の視線が集まった。


「米に付き合うのは終わりじゃ」



---


その判断には、筋が通っていた。


だからこそ危険だった。


秀吉も森可成も、自分たちがここまで進んできた道の意味を知っている。


義経。


一ノ谷。


鵯越。


そして実際に、自分たちも山道を進んできた。


道を見た。


谷を見た。


険しさを体で感じた。


だからこそ、


義経はなぜ鵯越を選んだのか。


それを自分たちなりに理解した気になっていた。


正面を避ける。


敵の予想しないところを通る。


身軽になる。


山を抜ける。


そして一気に敵の背後へ。


理にかなっている。


少なくとも――


そう見えた。



---


だが、そこに一つだけ間違いがあった。


義経の鵯越が成功したからといって、


鵯越を選べば正解になるわけではない。


英雄の成功を追体験しているうちに、秀吉と森可成の中で、いつしか順序が逆になっていた。


義経が状況を見て道を選んだのではなく、


義経が選んだ道だから、この状況でも正しい。


そう思い始めていた。


しかも鷹衆と虎衆の嫌がらせが、その思い込みを強くした。


荷駄が邪魔だ。


だから荷駄を置く。


街道が危険だ。


だから山へ。


時間をかければ米を奪われる。


だから一気に抜ける。


一つ一つの判断は正しい。


そして最後に出てくる答えが――


鵯越。


「まるで義経じゃな」


森可成が笑った。


秀吉も笑った。


「ならば森殿が義経じゃ」


「筑前は何になる」


「弁慶でもやるか」


陣中に笑いが起きた。


それが――


秀吉の三度目の苦戦が生んだ、最初の大きな誤認だった。



---


そのころ。


俺のところにも報告が届いていた。


「羽柴勢、止まりました」


「また?」


「はい。ただし今回は様子が違います」


俺は官兵衛を見る。


「何してる?」


「荷駄を集めております」


俺は黙った。


官兵衛も黙った。


甚兵衛が先に口を開いた。


「……置いてくる気じゃねえか?」


俺は地図を見る。


秀吉の位置。


兵庫津。


六甲。


鵯越。


その瞬間――


背中がぞくっとした。


「来る」


官兵衛が俺を見る。


「どちらへ?」


俺は指を置いた。


「ここ」


鵯越。


「荷駄を置いて、兵だけで来る」


官兵衛はしばらく地図を見つめた。


「根拠は?」


「義経」


甚兵衛が笑った。


「またか」


「今度はもっと確信ある」


秀吉はここまで義経の故事を意識して進んできた。


その道中で苦しんだ。


そして荷駄を置こうとしている。


ならば次は――


英雄譚の一番おいしいところだ。


鵯越。


「森殿もいる」


俺は言った。


「止めないと思う」


むしろ乗る。


官兵衛がゆっくり頷いた。


「では予定どおり」


「うん」


俺たちはすでに待っていた。



---


清盛館は空に近い。


ライラ。


松浦。


必要最低限の者だけ。


そもそも城ではない。


攻め落とされれば終わるような軍事拠点として使っていない。


俺たちの本隊は――


とっくに館を出ている。


秀吉が、


少弐は兵庫津で待っている


と思っている間に。


俺たちは秀吉が山を降りてくる先へ、正規兵を先回りさせていた。


柵。


浅い堀。


逆茂木。


鉄砲。


伏兵。


赤井直正殿は森可成を待っている。


官兵衛は地形を見ている。


甚兵衛は、相変わらず何か悪いことをしている。


そして俺は――


珍しく相手より先に来ていた。



---


だが。


この戦場を見ていたのは、俺たちと秀吉だけではなかった。


さらに西。


宇喜多。


秀吉が丹波から西へ回った。


その報せは、佐野からでも織田からでもなく――


宇喜多自身の斥候によってもたらされた。


「羽柴勢、西進」


宇喜多の陣で報告が読み上げられる。


「森可成が先鋒」


「ほう」


「少弐方は正面決戦を避け、山中で荷駄を襲っております」


宇喜多は黙って聞いた。


「そして羽柴勢、ここ数日進軍を停止」


そこで少し笑った。


「筑前殿、困っておるな」


だが――


宇喜多はまだ動かなかった。


表向きは。



---


宇喜多の立場は中立だった。


少なくとも、そう見せる必要がある。


佐野へ付いたわけではない。


織田へ付いたわけでもない。


秀吉を助けるために兵を出したわけでもない。


だから宇喜多は、堂々と軍勢を秀吉へ送ることはしなかった。


その代わり――


見た。


ひたすら見た。


斥候を増やす。


播磨の道を見る。


兵庫方面を見る。


秀吉軍を見る。


少弐軍を見る。


「我らは?」


家臣が尋ねる。


宇喜多は答えた。


「何もせぬ」


「何も?」


「そうじゃ」


そして笑った。


「中立じゃからな」


家臣たちは黙った。


その言葉を、そのまま信じた者が何人いたかは分からない。



---


宇喜多は地図を見た。


秀吉は西へ来た。


少弐はそれを迎える。


佐野は東。


織田は大和にも兵を入れた。


畿内全体が大きく動いている。


ここで勝者が決まれば――


西国の形も変わる。


ならば今は、旗を上げる時ではない。


だが。


姿を見せる時ではある。


「兵を少し動かせ」


宇喜多が言った。


「どちらへ?」


「どちらにも見えるところへ」


家臣が顔を上げた。


宇喜多は笑う。


「羽柴殿には、我らが来たように見せる」


「少弐には?」


「我らが羽柴へ付いたとは思わせぬ」


「では何のために?」


宇喜多は少し考えた。


「見物じゃ」


もちろん――


そんなはずはなかった。



---


三月。


羽柴秀吉は決断した。


荷駄隊を残す。


守備兵も残す。


必要な米だけを兵に持たせる。


そして森可成を先頭に――


鵯越を一気に越える。


山を降りたら、そのまま兵庫津を強襲。


少弐冬明との戦を終わらせる。


秀吉にとっては、長く苦しめられた末に見つけた突破口だった。


森可成にとっては、かつての義経を自らの足で追体験する戦だった。


そして宇喜多にとっては――


まだどちらにも転べる戦だった。


ただ一人。


山の向こうで待っている俺だけが。


秀吉が義経になることを――


最初から待っていた。


鵯越を越えれば兵庫津。


その考えは正しい。


ただし秀吉は、一つだけ知らない。


義経が一ノ谷へ降りた時。


平家は、そこから敵が来るとは思っていなかった。


今度は違う。


俺たちはもう――


山の下で、義経を待っている。

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