三つの道、三つの泥濘
二月下旬。
戦は一斉に動き始めた。
けれど――動いたからといって、思い通りに進むとは限らない。
東では佐野殿。
南では北畠殿。
そして西では俺たち。
織田方は三方向から押し始めたはずだった。
ところが数日もしないうちに、どの道でも奇妙なことが起き始めた。
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最初に知らせが来たのは東だった。
篠原長房殿は、丹羽長秀、前田、堀の圧力を受けながら後退した。
敗走ではない。
篠原殿らしい退き方だった。
陣を畳む。
兵をまとめる。
敵との距離を測る。
そして次の場所へ下がる。
その救援に佐野昌綱殿本人が出た。
俺はてっきり、佐野殿が篠原殿の陣へそのまま入ると思っていた。
違った。
佐野殿は――
篠原殿が下がったことそのものを利用した。
「誘ってる?」
報告を聞いて俺が尋ねると、官兵衛が頷いた。
「そのように見えます」
逢坂峠近く。
山と山に挟まれた盆地。
佐野殿はそこへ篠原勢を収容した。
しかし、ただ守るためではない。
丹羽たちから見れば、
あと少し押せる。
篠原は退いている。
佐野本人が救援に来たとはいえ、敵はまだ陣を整えきっていない。
そう見えるように動いた。
「わざと?」
「おそらく」
俺は少し驚いた。
佐野殿は、篠原長房という優れた守将が後退してきたことを失敗として扱わなかった。
敵を望んだ場所まで連れてきてくれた。
そう考えた。
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丹羽勢が盆地へ近づいた。
そこで初めて、様子がおかしいことに気づいた。
道が狭くなる。
山が迫る。
前へ出れば佐野勢。
その横には篠原勢。
しかも高所からこちらの動きを見られる。
丹羽長秀は止まった。
「……これは」
前田は戦えると見た。
堀はさらに道を調べようとした。
丹羽はしばらく地形を眺めたという。
そして――
「退くぞ」
決断した。
大敗したわけではない。
戦ってすらいない。
だが、それまでほとんど同じように動いていた三将に、初めて少しずつ違いが出た。
押してみたい者。
探りたい者。
一度引くべきだと見る者。
丹羽は結局、全軍を少し下げた。
俺はその報告を聞いて笑った。
「佐野殿、止めたんだ」
「はい」
「戦わずに?」
「小競り合い程度で」
俺は地図の丹羽の駒を少し戻した。
「こういうこともできるんだな」
官兵衛が言った。
「篠原殿が上手く退いたからこそでしょう」
佐野一人の策ではない。
篠原長房が崩れずに退いた。
その退却路を佐野が利用した。
二人で作った罠だった。
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南。
大和ではもっと泥臭い戦になっていた。
滝川一益。
佐久間。
国境を越えた二軍は、当初は順調に見えた。
兵数が多い。
正規兵。
指揮官も優秀。
奈良口を越えて大和へ入れば、そのまま押せる。
そう見えた。
ところが――
北畠具教殿が退かなかった。
故郷を奪われた男の意地だった。
ここで退けば、伊勢へ帰るどころではない。
だから北畠勢は地形を利用して食いついた。
そしてもう一つ。
また寺だった。
「また?」
報告を聞いて、俺は思わず言った。
官兵衛も苦笑した。
「またですな」
大和の辺境。
山間にある寺院。
山城の岩窟寺院とは別だった。
ここでも佐野殿の支配下で、ある程度の自治を認められていた寺と周辺の人々が動いた。
大軍と正面から戦うわけではない。
道を塞ぐ。
鐘を鳴らして敵の位置を知らせる。
山道から鉄砲を撃つ。
荷駄が来れば邪魔をする。
道案内を拒む。
「寺って怖いな」
俺が呟いた。
官兵衛が答えた。
「土地に根を張っておりますから」
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滝川と佐久間は、戦えば勝つ。
北畠勢を正面で押せば、少しずつ下げられる。
寺の者たちが集まっても、正規軍と正面からぶつかれば敵ではない。
だから地図だけ見れば、
織田方優勢。
ところが実際には違った。
兵が多すぎた。
一万人なら一万人分。
二万人なら二万人分。
食う。
飲む。
寝る。
道を通る。
狭い谷へ大軍が入れば、それだけ列が伸びる。
前が止まれば後ろも止まる。
荷駄が詰まる。
道を塞がれる。
物見を出そうにも山中では視界が悪い。
「数が多いのが悪いの?」
俺が聞く。
「この地形では」
官兵衛が答えた。
「多ければ常に有利、とはなりません」
滝川と佐久間は優勢だった。
だが――
優勢なまま苦戦した。
敵を破っても進めない。
進んでも補給が追いつかない。
兵が多いから、なおさら止まる。
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そして西。
俺たちのところでは――
秀吉が三度目の苦戦を始めていた。
一度目は丹波。
兵糧と民との約定。
二度目は山城。
岩窟寺院と下間頼廉。
そして三度目。
今度の敵は――
ほとんど姿を見せなかった。
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俺は鷹衆と虎衆に厳命していた。
「秀吉と戦うな」
弥七が不満そうに聞いた。
「本当に一人も斬らなくていいのか?」
「できれば」
「森可成を見つけても?」
「逃げろ」
赤井直正殿なら怒りそうな命令だった。
「じゃあ何をする」
俺は答えた。
「米を取れ」
それだけ。
そして彼らは――
本当にそれだけを始めた。
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秀吉軍が進む。
先頭には森可成。
警戒は厳重だった。
秀吉も二度止められている。
三度目はない。
そう思っていただろう。
物見を増やした。
左右の山を見る。
後方にも兵を置く。
荷駄にも護衛をつける。
だから虎衆は――
出なかった。
秀吉軍が通る。
何もない。
さらに進む。
何もない。
森可成が警戒しながら先へ。
その後ろを秀吉本隊。
そして荷駄。
そこまで通した。
さらに待つ。
護衛。
後衛。
全部を見る。
そして――
夜。
鷹衆が来た。
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「米がない!」
秀吉軍の陣で声が上がった。
二十俵。
三十俵。
一度に何百俵も奪う必要はない。
小さく取る。
翌日、別の場所でまた消える。
夜中に馬が一頭いなくなる。
その馬に米が積まれていた。
次の夜。
今度は荷車そのものが消える。
秀吉は怒った。
「敵はどこじゃ!」
いない。
戦おうと思って兵を出しても、誰もいない。
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昼になる。
進軍再開。
しばらく行くと――
道の真ん中に巨木が倒れていた。
「退けろ!」
兵が集まる。
枝を切る。
縄をかける。
ようやく動かす。
半刻。
一刻。
また進む。
今度は荷車が横倒しになっている。
しかも車軸が壊されている。
「どこの荷駄じゃ!」
調べる。
自軍のものだった。
昨夜消えた荷車。
鷹衆が先回りして、狭い場所へ横倒しにしていた。
秀吉軍はまた止まる。
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そして一番嫌な場所へ入る。
谷。
片側は斜面。
反対側も山。
道が細い。
荷駄が一列になる。
そこだけは――
虎衆が出た。
「来るぞ!」
上から石。
矢。
鉄砲。
だが撃ち続けない。
数発。
一斉に叩く。
前が止まる。
後ろが詰まる。
森可成が兵を山へ上げようとする。
そのころにはもういない。
「追うな!」
秀吉が叫ぶ。
追えば危険だと分かっている。
それでも兵は腹を立てる。
見えない敵ほど腹が立つ。
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夜。
今度は鷹衆。
「また米がないぞ!」
秀吉は頭を抱えた。
昼は虎。
夜は鷹。
いや――
それすら正確ではない。
虎衆も毎日襲うわけではない。
鷹衆も毎晩来るわけではない。
二日何もない。
三日目に米が消える。
翌日は巨木。
次の日は何もない。
安心して進んだところで、谷から一斉射。
だから休めない。
「敵は何人じゃ!」
秀吉が聞いた。
誰にも分からない。
百か。
五百か。
千か。
姿を見せないから、数えられない。
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その報告が俺のところへ来た。
「米、また取れました」
「食べた?」
「虎衆へ回しております」
「よし」
官兵衛が横から言った。
「本当に食べることしか考えておりませぬな」
「作戦名どおりだろ」
因糧の計。
敵の糧を自分の糧にする。
秀吉の米一俵が消える。
こちらに一俵増える。
俺はそれだけで満足だった。
「敵兵の首は?」
「ほとんどございません」
「それでいい」
むしろ戦わない方がいい。
秀吉は戦いたい。
森可成も前へ出たい。
ならば――
戦わせない。
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赤井直正殿だけは不満そうだった。
「森が出てこぬではないか」
「こっちが出ないんだから当然でしょう」
「一度くらい戦わせろ」
「嫌です」
「なぜだ」
「森殿強いでしょう」
直正殿が笑った。
「だからよいのではないか」
理解できない。
俺は官兵衛を見る。
「止めて」
「少弐殿が止めてください」
「軍師でしょう」
「そこまで職務に含まれておりませぬ」
甚兵衛が笑っていた。
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だが。
俺たちが笑っていられたのは、報告を聞いている側だったからだ。
秀吉軍の中は、かなり苦しくなっていた。
兵糧そのものが尽きたわけではない。
まだある。
兵も強い。
森可成も健在。
戦えば勝てる。
しかし――
進めない。
一日で行ける距離に二日。
二日で行ける距離に三日。
道を直す。
木を退ける。
荷駄を待つ。
米を数える。
夜襲を警戒する。
また進む。
また止まる。
そして少しずつ米が減る。
秀吉は、ついに言ったという。
「少弐はどこにおる」
捕虜に聞く。
知らない。
村人に聞く。
知らない。
物見に探させる。
見つからない。
当然だった。
俺は――
もう先に行っていた。
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秀吉が山中で虎衆と鷹衆を追いかけている間。
俺たち正規兵は、秀吉が通ると読んだ先へ進んでいた。
柵を作る。
土を掘る。
鉄砲を置く場所を決める。
退路を確認する。
水を確保する。
官兵衛が地形を見る。
赤井直正殿が兵の配置を見る。
岩蔵が陣を回る。
甚兵衛は何か悪いことを考えている。
俺は――
珍しく、先に来ていた。
「官兵衛」
「はい」
「本当にここへ来るよね?」
「今さら不安になったのですか」
「だって外したら恥ずかしい」
官兵衛が笑った。
「鷹衆の報告を見る限り、こちらへ向かっております」
「よかった」
俺は少し安心した。
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東。
佐野昌綱は、篠原長房の後退を逆手に取り、逢坂近くの盆地で丹羽たちを止めた。
南。
北畠具教の意地と、辺境寺院の抵抗によって、滝川・佐久間の大軍は優勢でありながら泥濘にはまった。
そして西。
羽柴秀吉。
三度目の苦戦。
今度は城がない。
敵陣すらない。
決戦もない。
あるのは――
倒れた木。
壊れた荷車。
狭い谷。
夜の物音。
そして毎朝少しずつ減っていく米俵。
俺は夕暮れの陣から山の方を眺めた。
その向こうで秀吉が苦労している。
「怒ってるかな」
俺が聞くと、官兵衛が答えた。
「相当」
「会ったら謝ろうかな」
「必要ありません」
「じゃあ米返す?」
「もっと必要ありません」
俺は笑った。
秀吉はまだ来ない。
来られない。
そして俺たちの陣は、一日ごとに固くなる。
秀吉が一日遅れれば、柵が一本増える。
二日遅れれば、堀が伸びる。
三日遅れれば、鉄砲の位置まで決まる。
その時間を作っているのは――
鷹衆と虎衆だった。
彼らは秀吉に勝とうとしていない。
森可成を討とうともしていない。
ただひたすら、
秀吉の時間と米を食っていた。
そして、それこそが――
俺たちが羽柴秀吉に仕掛けた最初の戦だった。




