鵯越を待つ――「因糧の計」
二月。
羽柴秀吉が西へ向かったという知らせを受けてから、俺は毎日のように地図を眺めていた。
丹波から西。
その先には播磨がある。
そして兵庫津。
当然、秀吉は俺のところへ来る。
問題は――どこを通るかだった。
官兵衛は幾つもの道を示してくれた。
普通に考えれば、大軍と大量の荷駄を動かしやすい街道を使う。
森可成という強力な先鋒までいる。
正面から押してもいい。
だから俺たちも最初は、そう考えた。
だが。
地図を眺めているうちに、俺は妙なことを思い出した。
「官兵衛」
「はい」
「秀吉ってさ」
「はい」
「自分を昔の英雄になぞらえるようなこと、好きそうじゃない?」
官兵衛が俺を見た。
「……何を考えておられます」
「源義経」
官兵衛の表情が変わった。
俺は指を動かした。
摂津。
播磨。
兵庫。
そして六甲の山々。
その南には、一ノ谷。
「鵯越」
俺が言うと、官兵衛はしばらく黙った。
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源義経。
一ノ谷。
鵯越。
このあたりで生きる者なら、一度くらいは聞いたことのある話だった。
平家が守る一ノ谷へ、義経が山側から奇襲をかけたという軍記の名場面。
後世まで語られる英雄譚である。
そして――
その英雄譚の舞台のすぐ近くに、俺たちはいる。
「まさか」
官兵衛が言った。
「大軍で義経の真似をする?」
「そのままじゃない」
俺は首を振った。
秀吉だって馬鹿じゃない。
断崖を馬で駆け下りるような軍記物そのままの真似をする必要はない。
だが――
正面を避け、山側を大きく迂回して兵庫へ出る。
これは十分あり得る。
そして、それを成功させれば。
「羽柴秀吉、義経の古道を通って兵庫を破る」
そんな話ができる。
秀吉は、そういう話を嫌いではない気がした。
官兵衛は地図を見続けていた。
やがて言った。
「……あり得ます」
俺は思わず顔を上げた。
「本当に?」
「少弐殿」
「うん」
「珍しく冴えております」
「珍しくは余計だよ」
甚兵衛が横で吹き出した。
---
だが、今回は本当に俺が先に言った。
それが少し嬉しかった。
「じゃあ先回りしよう」
官兵衛が頷く。
「正規兵を出しましょう」
これは鷹衆や虎衆だけの仕事ではない。
秀吉が本当に山側から来るなら、出口にはきちんとした陣が必要になる。
柵。
堀。
逆茂木。
鉄砲を置く場所。
兵糧。
水。
退路。
秀吉が、
誰もいないと思って山を抜けたら、もう陣ができている。
そういう状態にしておく。
「面白いな」
赤井直正殿が笑った。
「森可成が来るのだろう」
やっぱりこの人はそこだった。
「直正殿、森殿しか見てませんよね」
「お前は秀吉を見ておれ。森はわしが見る」
「分かりましたよ」
役割は決まった。
俺たちは兵庫津を出る。
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問題は清盛館だった。
名前だけ聞けば、知らない者は立派な城でも想像するかもしれない。
実物は違う。
少し大きな家。
それだけだった。
堀が幾重にもあるわけでもない。
石垣がそびえているわけでもない。
籠城して何千の兵を防げるような場所ではない。
俺が兵庫津へ来てから使っている館。
だから――
守るために大軍を置く意味もなかった。
「松浦」
「はっ」
「館を頼む」
「承知」
そしてもう一人。
ライラ。
本来なら、俺が出陣すると言えば当然のようについてくる。
護衛なのだから。
だが今回は違った。
俺はライラに言った。
「残ってくれ」
当然、嫌な顔をされた。
「私は護衛だ」
「今は違う」
「何が違う」
俺は少し困った。
こういう話は、戦の命令よりずっと苦手だった。
「子供がいる」
ライラが黙った。
そう。
ライラの腹には、すでに新しい命が宿っていた。
まだ外から見て大きく分かるほどではない。
だが分かった以上、もう以前のように戦場へ連れ回すつもりはなかった。
「だから今回は松浦と一緒に残って」
「冬明」
「お願い」
少し長い沈黙があった。
最後にはライラが折れた。
「……絶対に帰ってこい」
「うん」
「怪我をするな」
「それは努力する」
「努力では駄目だ」
「じゃあ官兵衛に守ってもらう」
離れたところで官兵衛が、
「私の仕事を増やさないでいただきたい」
と言った。
皆が笑った。
ライラだけは笑わなかった。
それでも最後には俺の装具を確認し、黙って送り出してくれた。
俺は清盛館を出た。
今回は――
ライラはいない。
少し妙な感じがした。
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そして出陣前。
俺は鷹衆と虎衆を集めた。
猪ノ口弥七。
灰屋藤次。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
北から来た虎衆の者たちもいる。
地図を広げる。
「秀吉は迂回する」
弥七が聞いた。
「決まりなのか?」
「決まりじゃない」
「じゃあ外れたら?」
「恥ずかしい」
甚兵衛が笑った。
「それだけかよ」
「それだけ」
俺も笑った。
「でも今回は当たると思う」
そして道を示した。
秀吉が義経になぞらえるなら、どこを意識するか。
どの谷へ入る。
どこを越える。
どこから兵庫へ降りる。
完全に一点を当てる必要はない。
使える道は限られている。
だから山中の複数の道を監視する。
「ただし」
俺は皆を見る。
「秀吉本隊とは戦わない」
エカシロがすぐに聞いた。
「じゃあ何をする?」
俺は答えた。
「米を食べる」
皆が黙った。
「……米?」
シレトクが聞き返した。
「うん」
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官兵衛が横から説明してくれた。
秀吉は丹波で一度、兵糧に苦しんだ。
だから今回は大量に用意している。
若狭から運び込んだ米。
丹波で確保した米。
それを持って西へ来る。
ならば――
兵ではなく、米を狙う。
荷駄を見つける。
襲えるなら襲う。
奪えるだけ奪う。
しかし焼かない。
「焼かない?」
弥七が聞いた。
「もったいないだろ」
甚兵衛が笑った。
「殿らしいな」
「だって米だぞ」
奪った米は俺たちが食う。
余れば近隣の味方へ回す。
運べなければ隠す。
どうしても持ち出せない時だけ処分する。
そしてまた別の荷駄を襲う。
秀吉の兵とは正面から戦わない。
森可成の先鋒とも戦わない。
道を塞ぐ。
木を倒す。
橋を壊す。
偽の道標。
夜中に馬を逃がす。
荷駄だけを狙う。
虎衆は山から。
鷹衆は間道から。
進軍そのものをひたすら邪魔する。
そして秀吉軍の米を食べる。
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「作戦名は?」
甚兵衛が聞いた。
俺は官兵衛を見た。
実は考えていた。
「因糧の計」
官兵衛が少し目を細めた。
「孫子ですな」
俺は頷いた。
古い兵法に、
敵に因りて糧を取る。
という考えがある。
遠征軍がすべての兵糧を自国から運ぶのではなく、敵地から糧を得る。
敵の一鍾を食えば、自軍から遠く運ぶ何倍もの価値がある。
今回は少し違う。
俺たちは敵地にいるわけではない。
だが――
やることは同じだった。
秀吉の米で、秀吉と戦う。
「秀吉が一俵失う」
俺は言った。
「俺たちは一俵増える」
弥七が笑った。
「二俵分だな」
「そういうこと」
「分かりやすい」
「だろ?」
官兵衛が少し苦笑した。
「兵法をここまで食い意地の張った説明にされたのは初めてです」
「分かればいいんだよ」
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作戦は単純だった。
正規兵は先回りして、秀吉が山を抜けた先に陣地を構築する。
俺もそちらへ出る。
秀吉が英雄気取りで義経の道を意識して山を越えてくるなら――
出口で待つ。
その一方。
鷹衆と虎衆は山へ散る。
秀吉本隊を止める必要はない。
むしろ進ませる。
ただし一里進むたびに米が減る。
荷駄が遅れる。
馬が消える。
橋が落ちる。
道に木が倒れている。
夜になれば米俵がなくなる。
追えば山へ消える。
そしてようやく山を抜けた時――
そこには俺たちの陣がある。
俺は地図を見ながら、少し笑った。
「秀吉は義経になりたいんだろ?」
官兵衛がこちらを見る。
「仮にそうだとして?」
「なら、なってもらえばいい」
鵯越を進む。
山を越える。
敵の意表を突いた。
そう思って降りてくる。
その先に――
俺たちがいる。
「義経が山を降りた時、平家は驚いた」
俺は言った。
「今度は逆だ」
官兵衛が笑った。
「山を降りた義経役の方を驚かせる?」
「うん」
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出陣の日。
俺は最後に清盛館を振り返った。
城ではない。
ただの小さな館だ。
門の前には松浦。
その少し後ろにライラがいた。
俺は手を上げた。
ライラも上げる。
それだけだった。
もう戻らないつもりで格好をつける必要はない。
戻ってくる。
戻らなければ困る。
俺には今――
帰ってくる理由が一つ増えている。
「行こう」
俺は前を向いた。
正規兵が動き始める。
赤井直正殿。
岩蔵。
官兵衛。
甚兵衛。
そして俺。
別の方向へ、鷹衆と虎衆が消えていった。
彼らには彼らの戦がある。
秀吉の兵を討つ必要はない。
首もいらない。
城もいらない。
欲しいのは――
米。
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二月。
羽柴秀吉は森可成を先鋒に、西へ進んだ。
かつて源義経が名を残した土地へ。
自らもまた古の英雄のように敵の意表を突き、兵庫へ出ようとしていた。
だが。
珍しいこともある。
今回は――
俺が先に読んだ。
だから俺たちは、秀吉より先に山の出口へ向かった。
そして山中ではすでに、鷹衆と虎衆が獲物を待っている。
狙うのは秀吉ではない。
森可成でもない。
彼らの後ろを延々とついてくる――
米俵だった。
俺は馬上で笑った。
「秀吉殿」
聞こえるはずもない相手に呟く。
「義経になるのは構わない」
ただし。
その兵糧は、俺たちがいただく。
こうして、羽柴秀吉の鵯越に対して――
少弐冬明の**「因糧の計」**が始まった。




