森可成、西へ――秀吉の槍
二月。
篠原長房殿からの救援要請を受け、佐野昌綱殿がついに逢坂峠方面へ出た。
それを待っていたかのように、戦場のあちこちで織田軍が動き始めた。
伊勢からは滝川一益。
一度奈良口から姿を消していた佐久間も、今度は滝川勢とともに大和を目指した。
以前とは違う。
佐久間は国境で止まらなかった。
越えた。
長く続いていた奇妙な沈黙が、そこで初めて破れた。
そして東。
丹羽長秀殿のところには、前田と堀が残った。
丹羽、前田、堀。
三将で篠原長房殿と、救援に出た佐野殿を押さえる。
では――
秀吉には誰が行く。
その答えが兵庫津へ届いた。
「申し上げます!」
使者の顔を見た瞬間、嫌な予感がした。
最近、それだけはよく当たる。
「羽柴勢に援軍!」
俺は官兵衛を見る。
「誰?」
「森可成!」
俺はしばらく黙った。
「……よりによって森殿か」
官兵衛も小さく頷いた。
「森殿ですな」
---
森可成。
知らない名前ではない。
むしろ知っているから困る。
信長の古くからの将。
派手な調略をする秀吉とは違う。
細かな約定を積み上げて土地を押さえる光秀殿とも違う。
戦場で兵を率い、前へ出る。
崩れそうなところを支え、逆に敵が崩れれば一気に押す。
武将として真っ当に強い。
俺は思わず言った。
「秀吉だけでも嫌なのに」
甚兵衛が笑う。
「敵なんだから仕方ねえだろ」
「もう少し相性のいい人を送ってくれないかな」
赤井直正殿が豪快に笑った。
「ならばわしが森を受けよう」
「直正殿、楽しそうですね」
「森可成なら不足はない」
この人は本当に嬉しそうだった。
俺とはずいぶん違う。
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官兵衛が地図へ駒を置いた。
丹波。
羽柴秀吉。
その横に――
森可成。
俺は二つを見比べる。
「これ、役割が分かりやすすぎない?」
「分かりやすいですな」
「秀吉が考えて、森殿が殴る?」
官兵衛が少し笑った。
「かなり乱暴な表現ですが、おおむね」
嫌だ。
ものすごく嫌だ。
秀吉は自分で戦場を見ることもできる。
兵糧も扱う。
人も説く。
調略もする。
そこへ森可成が入る。
つまり秀吉は、自分が前線で担っていた仕事の一部を森殿へ渡せる。
その分――
もっと別のことを考えられる。
俺はそれに気づいて、さらに嫌になった。
「官兵衛」
「はい」
「森殿が来たことで、秀吉は強くなる?」
「当然」
「どれくらい?」
官兵衛は少し考えた。
「兵が増えたこと以上に」
それが一番聞きたくない答えだった。
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森可成が丹波へ入ったころ。
秀吉は自ら迎えたという。
「森殿!」
「筑前」
「待っておりましたぞ」
「待たせたか」
「いやいや。これでようやく戦ができる」
森可成は秀吉の陣へ入ると、すぐ地図を見せられた。
だが秀吉が示したのは山城ではなかった。
森が眉を寄せる。
「京へ行かぬのか」
「行かぬ」
秀吉はあっさり答えた。
「日向守殿がおる」
山城北部では明智光秀が下間頼廉と対峙している。
光秀は攻めない。
頼廉も出られない。
それでいい。
「ならば我らは?」
秀吉が指を動かした。
西。
「こちらじゃ」
森可成は少し黙った。
「兵庫か」
秀吉が笑った。
「まずはな」
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山城は一度試した。
岩窟寺院。
本願寺門徒。
その先に下間頼廉。
通れないわけではない。
だが通るには血を流しすぎる。
ならば行かない。
光秀に押さえさせればいい。
一方――
西には少弐冬明がいる。
兵庫津。
播磨。
海への出口。
そして佐野方の西側を支える重要な地域。
秀吉はそこへ目を向けた。
「少弐か」
森可成が言った。
秀吉は頷く。
「面白い男らしい」
「強いのか」
秀吉は少し考えた。
「本人はそうでもないらしい」
森が秀吉を見る。
「ならば何を警戒する」
秀吉は笑った。
「周りじゃ」
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その話を聞いたわけではない。
だが俺も、ほとんど同じことを考えていた。
「森殿は誰が受ける?」
軍議で俺が聞く。
赤井直正殿が即座に答えた。
「わしだ」
早い。
「まだ何も決めてないですよ」
「では今決めろ」
「官兵衛?」
俺は助けを求めた。
官兵衛は地図を見ながら、
「悪くありません」
と言った。
直正殿が笑う。
「決まりだな」
「待ってください」
俺は慌てて止めた。
「森殿が前に出てくるとは限らないでしょう」
「出る」
直正殿は断言した。
「なんで分かるんです?」
「森可成だからだ」
説明になっていない。
だが官兵衛まで頷いている。
「羽柴殿が森殿を借りるなら、その使い方がもっとも自然でしょう」
俺は諦めた。
「じゃあ森殿が出てきたら、直正殿」
「任せろ」
楽しそうだ。
---
「じゃあ秀吉は?」
俺が聞く。
官兵衛が答える。
「我ら全員です」
俺は少し驚いた。
「一人に一人じゃないの?」
「羽柴殿相手にそれをする必要はありません」
官兵衛の指が駒を動かす。
赤井直正が森可成を受ける。
だがそれだけではない。
岩蔵。
甚兵衛。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
鷹衆。
そして官兵衛。
それぞれが別の場所で動く。
「羽柴殿が一軍なら、我らも一軍で受けます」
俺は少し考えた。
「俺は?」
官兵衛が俺を見る。
「借りてください」
「何を?」
「全部」
皆が笑った。
俺も笑った。
そうだった。
それでいい。
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数日後。
森可成の軍勢が秀吉本隊へ合流した。
若狭から運び込まれた米。
冬の間に整えられた丹波の兵站。
明智との約定によって確保された後方。
そして森可成の兵。
秀吉はようやく動いた。
「羽柴勢、進発!」
俺のところへ報告が来た。
「方向は?」
分かっていた。
それでも聞いた。
「西!」
俺は頷いた。
「来たな」
官兵衛も立ち上がった。
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秀吉軍の先頭には森可成がいた。
ただし無闇に急がない。
森の物見が道を見る。
その後ろから先鋒。
さらに秀吉本隊。
荷駄。
丹波で一度兵糧に苦しんだ秀吉は、今度は後ろを軽く扱わなかった。
兵糧を確保する。
道を押さえる。
後方との連絡を絶やさない。
そして前には森可成。
「ずいぶん丁寧だな」
俺は報告を読みながら言った。
官兵衛が答える。
「二度も止められておりますから」
「三度目は嫌か」
「当然でしょう」
秀吉は学んでいた。
丹波で止まった。
山城でも止まった。
だから三度目は――
止まらないための軍勢を作ってから来た。
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同じころ。
東では丹羽、前田、堀。
佐野殿と篠原長房殿を押す。
南では滝川一益と佐久間が大和へ侵入。
順慶と北畠殿が迎える。
山城北では光秀殿が頼廉殿を動かさない。
信長は、自分の軍を見事に分けた。
どこも簡単には助けられない。
佐野殿は東。
順慶と北畠殿は南。
頼廉殿は山城。
そして俺は――
西。
俺は地図を見渡した。
「これ、助けは来ないな」
官兵衛が頷く。
「期待しない方がよろしいでしょう」
「向こうも同じ?」
「羽柴殿には森殿がおります」
「それ、同じじゃなくない?」
甚兵衛が笑った。
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俺は立ち上がった。
「皆を集めよう」
今度こそ本当に来る。
長い間、秀吉を待った。
丹波で止まり。
山城で止まり。
また丹波へ帰り。
冬を越し。
兵を集め。
米を集め。
そして森可成まで連れてきた。
そこまでして――
こちらへ来る。
怖い。
だが妙に腹は決まっていた。
「官兵衛」
「はい」
「秀吉はお前に任せる」
「承知」
「直正殿」
「森だな」
「お願いします」
「任せろ」
「岩蔵」
「いるぞ」
「俺が変なことしそうになったら止めて」
「それが一番難しいな」
皆が笑った。
「甚兵衛」
「何だ」
「悪さ」
「ようやく本番か」
「うん」
そしてシレトクたちを見る。
北の旅から、こんなところまで来てくれた者たち。
「また頼む」
シレトクはいつものように笑った。
「最初からそのつもりだよ」
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二月。
羽柴秀吉は西へ向かった。
その前には森可成。
後ろには十分な米。
丹波には整えられた後方。
以前の秀吉軍とは違う。
俺はその報告を聞きながら、以前皆の前で言った言葉を思い出していた。
俺みたいな凡将には、お前ら仲間が必要だ。
あの時は決意だった。
今は――
現実になった。
向こうには羽柴秀吉。
そして森可成。
こちらには官兵衛。
赤井直正。
岩蔵。
甚兵衛。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
鷹衆。
そして俺。
俺は地図の上で、羽柴と森の二つの駒を西へ動かした。
その先に自分の駒を置く。
「来い」
今度は、前より少しだけ大きな声で言えた。
秀吉には森可成という槍が加わった。
ならば俺は――
俺の持っているすべてを借りて、その槍を受ける。
長い冬は終わった。
羽柴秀吉と少弐冬明の戦は、ついに互いの姿が見えるところまで近づいていた。




