正月、三将東より来たる
正月を待った。
不思議なほど静かな年越しだった。
俺たちは、いつ織田軍が動くのかと身構えていた。
だが年が変わっても、大和郡山の奈良口に織田の旗は戻ってこなかった。
佐久間が観音寺へ引いて以来、あれほど鬱陶しいほど出ていた物見すら減っている。
「今日も奈良口は?」
俺が尋ねる。
「動きなし」
「織田兵は?」
「確認されておりませぬ」
翌日も同じだった。
「佐久間は?」
「観音寺方面におります」
「戻ってこない?」
「はい」
俺は地図の奈良口を見た。
そこには筒井順慶。
さらに郡山には北畠具教殿。
敵がいない。
それなのに動けない。
いや――
敵がいないからこそ、動くのが怖かった。
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北畠殿からは何度か、
「伊勢へ出られぬか」
という話が来ていた。
当然だと思う。
北畠一族にとって、この戦は佐野殿への義理だけではない。
故郷へ帰る戦でもある。
目の前にいた佐久間が消えた。
ならば伊勢へ。
そう思うのは当たり前だった。
ところが――
伊勢から知らせが来た。
兵が集まっている。
俺は書状を読み直した。
「どこ?」
官兵衛が地図を指した。
「伊勢各所です。まだ一軍としてまとまってはおりませぬ」
「誰が集めてる?」
「織田方です」
やっぱり。
俺はため息をついた。
「だから佐久間を下げられたのか」
「それもありましょう」
佐久間が奈良口にいなくても、伊勢側に兵がいる。
北畠が故郷へ戻ろうとして奈良から出れば、今度はこちらが相手の待つ場所へ入る。
まるで佐久間が残していった罠だった。
本人はいない。
それでも北畠を縛っている。
「嫌な人だな」
俺が言うと、官兵衛が少し笑った。
「最高の褒め言葉でしょうな」
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そして正月が明ける。
最初に大きく動いたのは――
南近江だった。
「丹羽勢に増援!」
俺は立ち上がった。
「誰?」
「前田殿、堀殿!」
ついに来た。
観音寺に集められていた兵の一部が、丹羽長秀へ渡された。
前田。
堀。
二将がそれぞれ兵を率いて丹羽と合流する。
俺は地図の上に三つの駒を並べた。
丹羽。
前田。
堀。
「多いな」
赤井甚兵衛が言った。
「信長本人じゃないんだな」
俺もそこが気になった。
観音寺に兵を集めた。
佐久間まで戻した。
ならば信長本人が出ると思っていた。
だが信長はまだ動かない。
代わりに丹羽を厚くした。
官兵衛はしばらく地図を見ていた。
「信長殿は、まず一か所動かすつもりでしょう」
「南近江?」
「はい」
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丹羽長秀は、それまで何か月も篠原長房殿と向かい合っていた。
攻める。
止められる。
無理をしない。
陣を作る。
道を直す。
兵糧を貯める。
後方の柵を増やす。
冬の間もそれを続けていた。
だから――
前田と堀が到着した時には、すでに足場ができていた。
大軍が来てから準備を始めるのではない。
準備が終わった場所へ、大軍を入れる。
俺は報告を聞きながら嫌になった。
「これ、丹羽殿ずっとこのために陣を作ってたの?」
官兵衛が頷く。
「結果的には」
「篠原殿を攻められないから仕方なく、じゃなかったのか」
「それも事実でしょう」
負けたから守りに入ったわけではない。
攻めきれないと判断したから、その時間を次の攻勢の準備へ変えた。
丹羽長秀という男の嫌らしさだった。
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そして三将は動いた。
だが――
速くなかった。
俺は最初、増援を得た丹羽が一気に攻めると思っていた。
違った。
一日進む。
止まる。
物見を出す。
道を確かめる。
後ろから荷駄を入れる。
次の日、また進む。
柵を作る。
後方との道を確保する。
それから前へ。
「遅いな」
俺が言う。
官兵衛が首を振った。
「遅くしているのでしょう」
丹羽。
前田。
堀。
三将は競わなかった。
誰が一番乗りする。
誰が敵陣を最初に破る。
そんな戦いをしない。
冬の畿内を――
ゆっくりと京へ向かって押し進んだ。
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篠原長房殿も簡単には崩れない。
正面から受ける。
危険なら少し下がる。
次の場所で止まる。
また守る。
守将として長けた篠原殿だからこそ、退却も崩れなかった。
だから戦線は一気には動かない。
一里。
また一里。
織田軍が進む。
篠原勢が下がる。
織田軍が陣を作る。
篠原勢が次の地形を選ぶ。
「押されてる?」
俺が尋ねる。
官兵衛は少し考えた。
「はい」
俺は黙った。
そこを誤魔化しても仕方がない。
篠原殿は負けてはいない。
だが、土地は少しずつ渡している。
「まずい?」
「今すぐではありません」
官兵衛が三将の位置を指した。
「ですが、このまま京へ近づかれるのはまずい」
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雪が降った日もあった。
道がぬかるむ。
馬が滑る。
荷車の車輪が埋まる。
そんな日は織田軍も止まった。
俺は少し期待した。
「冬だから動けなくなるかな」
ところが翌日には、道を直していた。
兵が泥を掻き出す。
木を敷く。
荷車を押す。
橋を補修する。
そしてまた進む。
前田の兵が前を警戒する。
堀が細かな道や村を押さえる。
丹羽が全体をまとめる。
三将の役割が噛み合っていた。
派手な勝利はない。
大きな城も落としていない。
それなのに――
地図の駒だけが少しずつ京へ近づいてくる。
俺は毎日それを見ることになった。
正直、嫌だった。
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その一方で。
奈良口は静かなまま。
順慶も動かない。
北畠殿も郡山にいる。
だが伊勢には兵が集まっている。
北畠殿が動けば、伊勢側も動く。
南は静止。
東では丹羽・前田・堀が前進。
北では明智光秀殿が下間頼廉と対峙。
そして西北――
丹波には、まだ秀吉がいる。
俺はそこを何度も確認した。
「秀吉は?」
「動きなし」
「若狭の兵は?」
「入り始めております」
「米は?」
「運び込まれております」
「……まだ来ないのか」
官兵衛が答えた。
「丹羽殿を先に動かしたのでしょう」
俺は地図を見た。
そこで、ようやく気づいた。
「これ……篠原殿を助けたくなるな」
官兵衛がこちらを見る。
「はい」
丹羽一人なら篠原殿に任せられた。
しかし今は違う。
丹羽。
前田。
堀。
三将がゆっくり京へ向かっている。
放っておけば危険になる。
だから佐野殿は援軍を出したくなる。
頼廉も動きたくなる。
俺たちも東を気にしたくなる。
「それが狙い?」
「少なくとも、その効果はあります」
そして――
こちらが東を見る。
兵を東へ回す。
その瞬間。
丹波にいる男が動く。
羽柴秀吉。
俺は思わず地図の秀吉の駒を見た。
「嫌だなあ」
甚兵衛が笑った。
「さっきからそればっかりだな」
「だって嫌なんだから仕方ないだろ」
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その夜。
俺は官兵衛と二人で地図を見ていた。
丹羽。
前田。
堀。
三将の駒が京へ向かって伸びる。
その先に篠原長房。
北には明智と頼廉。
南には空白になった奈良口。
その向こうの伊勢には織田兵。
そして丹波には秀吉。
「官兵衛」
「はい」
「俺は動かない方がいい?」
「はい」
即答だった。
「篠原殿が押されてても?」
「はい」
少し苦しかった。
助けられるなら助けたい。
だが俺の役目は秀吉だ。
それは最初に決めた。
官兵衛が言った。
「少弐殿」
「うん」
「丹羽殿を見て羽柴殿から目を離せば、向こうの思う壺です」
俺は頷いた。
「分かった」
そして秀吉の駒だけを自分の前へ置いた。
「俺はこいつを見る」
「それでよろしい」
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正月。
冬の畿内。
大きな決戦はまだ起こっていない。
奈良口には織田兵の姿すらない。
伊勢では兵が集まり続ける。
山城北部では明智と頼廉が睨み合う。
丹波では秀吉が若狭の兵と米を飲み込み続けている。
そして東では――
丹羽長秀。
前田。
堀。
三将が、冬の街道を京へ向かって歩いていた。
急がない。
焦らない。
一つ陣を作っては、次へ。
一つ道を押さえては、次へ。
篠原長房が一度退けば、その土地を確実に自分たちの後方へ変えてからまた進む。
俺はその報告を聞くたびに思った。
これは突撃ではない。
雪崩でもない。
もっと嫌なものだ。
壁そのものが、少しずつこちらへ近づいてくる。
そして俺の正面では――
まだ動かない羽柴秀吉が、その壁がこちらの注意を引きつけるのを、じっと待っていた。




