第○章 年越しの陣――信長、ようやく腰を上げる
十一月。
山城へ入った羽柴秀吉は、岩窟寺院の抵抗と、その先に構える下間頼廉を前にして、ついに決断した。
――ここでは戦わない。
少なくとも、今は。
俺のところへその報告が届いた時、最初は意味が分からなかった。
「秀吉が……退いた?」
「はい」
使者が答える。
「敗走?」
「いいえ。整然と丹波へ」
俺は官兵衛を見る。
「逃げたわけじゃない?」
「むしろ逆でしょうな」
官兵衛は地図の羽柴の駒を、山城から丹波へ戻した。
「羽柴殿は、戦うために下がったのでしょう」
嫌な言い方だった。
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秀吉は老ノ坂を越えて丹波側へ後退した。
岩窟寺院を無理に攻めない。
下間頼廉とも決戦しない。
山城に食いついて兵を減らすより、一度後ろへ戻って態勢を作り直す。
そして――
待った。
「何を待ってる?」
俺が尋ねる。
官兵衛が答えた。
「若狭です」
若狭から来る兵。
そして米。
秀吉はそれを待っていた。
すぐには来ない。
だから焦らない。
十一月。
十二月。
そして年を越す。
およそ一か月余り。
秀吉は丹波で兵を休ませながら、若狭方面から送られてくる増援と兵糧を受け入れるつもりだった。
「正月まで?」
「おそらく」
俺は地図を見た。
「長いな」
「長いからこそ、怖いのです」
またそれか。
だが、もう俺にも官兵衛の言いたいことが分かってきた。
一か月あれば兵糧を貯められる。
傷兵を休ませられる。
道を調べられる。
兵を補充できる。
何より、次の攻め方を考えられる。
秀吉は負けて帰ったのではない。
次は止まらないようにしてから来る。
そのために帰った。
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そして――
秀吉と入れ替わるように動いた男がいた。
明智光秀。
それまで光秀殿は山城東側を斥候で牽制し、丹羽と秀吉の間を繋ぐように動いていた。
だが秀吉が丹波へ下がると、その配置を変えた。
「明智勢、丹波へ」
最初にそう聞いた。
だが、そこで止まらなかった。
丹波へ入った光秀殿は秀吉軍と連絡を取り、そのまま山城北部へ兵を進めた。
つまり――
秀吉と明智が入れ替わった。
俺は地図を見て思わず言った。
「きれいに交代するなあ」
官兵衛も頷いた。
「兵を休ませながら戦線そのものは下げない。理にかなっております」
秀吉は丹波で休む。
光秀は山城北部へ。
その正面には――
下間頼廉。
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明智光秀と下間頼廉。
俺はこの組み合わせを聞いて、さすがに何か起こると思った。
ところが。
起こらなかった。
光秀殿は、ほとんど攻めなかった。
頼廉も出ない。
双方が陣を作る。
物見を出す。
鉄砲が届きそうな場所まで小勢が出れば、ときどき撃ち合う。
それだけ。
「光秀殿、攻めないんだ」
「攻める必要がないのでしょう」
官兵衛が答えた。
「羽柴殿が戻るまで、頼廉殿をここへ置いておけばよい」
つまり光秀殿の役割は勝つことではない。
頼廉を動かさないこと。
それだけだった。
山城北部を守る。
頼廉が丹波方面へ出てこようとすれば押し返す。
こちらが攻めてくれば受ける。
しかし自分からは深入りしない。
明智は完全に守勢へ切り替えた。
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その代わり、光秀殿は別の戦を始めた。
丹波衆だった。
「光満を?」
俺が聞き返した。
「はい。明智光満殿が丹波各地を回っております」
秀吉が丹波へ入った時に起こった問題。
あれを二度と起こさないためだった。
丹波の国人。
寺社。
村。
地侍。
彼らは光秀殿との約定を重視する。
ならば、その関係をもっと強くする。
光満が一つ一つ回った。
「羽柴殿は敵ではない」
「織田の軍勢が通る際には、従来の約定を守る」
「兵糧は勝手に奪わない」
「人足についても取り決めをする」
「明智が責任を持つ」
そう説いて回る。
秀吉が若狭から米を集めている間に、光秀殿は丹波そのものを後方基地へ変えようとしていた。
俺は報告を聞いて、ため息をついた。
「ちゃんと失敗から直してくるな」
官兵衛が笑った。
「敵も学びます」
「こっちだけ学んでほしいんだけど」
「それは無理でしょう」
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そして、とうとう信長自身にも動きがあった。
観音寺城。
そこへ命令が飛んだ。
堀。
森。
前田。
諸将が次々と観音寺へ集められる。
兵も集まり始めた。
鉄砲。
槍。
馬。
兵糧。
荷駄。
ただ集めているだけではない。
出陣の支度を始めた。
その知らせを聞いた時、軍議の空気が変わった。
赤井直正殿が腕を組む。
「ようやく信長が来るか」
甚兵衛が言った。
「ずいぶん我慢したな」
本当にそうだった。
丹羽が篠原長房殿を抜けなくても援軍を送らない。
秀吉が丹波で止まっても送らない。
山城で秀吉が止まっても、自分は動かなかった。
東では氏康公が死んだばかり。
徳川と北条は長篠付近で睨み合っている。
海には坂東西国艦隊。
信長も兵を簡単には動かせなかった。
それでも――
ついに集め始めた。
「堀、森、前田か」
俺は地図を見た。
官兵衛が頷く。
「信長殿が直接使いやすい者を近くへ集めております」
「本隊?」
「その可能性が高いでしょう」
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さらに奇妙だったのは佐久間だった。
あれほど奈良口から動かなかった佐久間。
北畠具教殿と延々と睨み合っていた男に、信長から伝令が入った。
そして――
引いた。
「佐久間勢、後退!」
「どこへ?」
「観音寺へ向かっております!」
俺は思わず立ち上がった。
「全部?」
「主力は」
佐久間は最後まで慎重だった。
追撃を誘うような崩れ方もしない。
陣を畳む。
物見を残す。
順番に兵を下げる。
北畠殿が追おうと思えば追えたかもしれない。
だが追わなかった。
佐野殿からも命令が出ていた。
深追いするな。
佐久間が待ち続けたのと同じように、こちらも我慢した。
北畠殿にとっては苦しかっただろう。
目の前の敵が退く。
その先には伊勢。
故郷へ戻る道がある。
それでも動かない。
佐久間が何かを仕掛けている可能性がある。
何より――
信長が佐久間を呼び戻した理由が分からない。
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俺は地図から佐久間の駒を取り、観音寺へ置いた。
そこにはすでに、
信長。
堀。
森。
前田。
そして佐久間。
駒が集まっている。
「……大きいな」
俺が呟いた。
官兵衛が頷いた。
「はい」
これまでの織田軍は散っていた。
丹羽。
秀吉。
明智。
佐久間。
それぞれが別の場所を押さえる。
だからこちらも、
篠原長房。
下間頼廉。
筒井順慶。
北畠具教。
そして俺たち。
別々に受けられた。
ところが今。
信長が兵をまとめ始めている。
「何をする気だろう」
俺が尋ねる。
官兵衛は地図を見た。
「二つ考えられます」
「二つ?」
「一つは、正月明けに羽柴殿を再び山城へ入れ、その攻勢に合わせて信長殿自身も動く」
俺は頷いた。
「もう一つは?」
官兵衛の指が観音寺城に置かれた。
「羽柴殿は囮」
俺は顔を上げた。
「信長本人が別の場所を抜く」
広間が静かになった。
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それから俺は、毎日の報告を見る場所が増えた。
以前は秀吉だけ見ていればよかった。
今も基本は変わらない。
俺の敵は羽柴秀吉。
ただ、その秀吉の背後にある大きなものが、ようやく動き始めた。
信長。
観音寺城へ兵を集めている。
丹羽は南近江で陣を固める。
明智は山城北部で頼廉と睨み合う。
秀吉は丹波へ下がり、若狭から兵と米を待つ。
光満は丹波衆を説いて回る。
佐久間は観音寺へ帰った。
冬が来る。
そして――
正月が来る。
俺は地図を見ながら言った。
「官兵衛」
「はい」
「これ、正月明けに全部動くんじゃない?」
官兵衛はしばらく答えなかった。
やがて、
「私も、そう思います」
と言った。
嫌な答えだった。
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その夜。
兵庫津は冷え込んでいた。
俺は外へ出た。
ハビービが止まり木で羽を膨らませている。
シレトクが火鉢を持ってきた。
「寒いよ」
「ありがとう」
火に手をかざす。
北ではもっと寒い冬を過ごした。
それでも戦を待ちながら迎える冬は、別の寒さがあった。
「秀吉、しばらく来ないね」
シレトクが言った。
「うん」
「安心?」
俺は首を振った。
「前より怖い」
シレトクが笑う。
「また?」
「だって一か月も準備するんだぞ」
若狭の兵。
若狭の米。
丹波衆との関係修復。
明智秀満。
明智光満。
そして山城正面では光秀殿が頼廉を縛る。
秀吉が次に来る時は、前と同じ秀吉軍ではない。
一度止められた理由を全部潰してから来る。
俺はハビービを見た。
「でも」
「うん?」
「こっちにも一か月ある」
シレトクが笑った。
「そうだね」
それだった。
秀吉が準備するなら、俺たちも準備できる。
俺は翌朝、官兵衛に言うことを決めた。
鷹衆を呼ぶ。
虎衆を呼ぶ。
赤井直正殿。
岩蔵。
甚兵衛。
そして官兵衛。
秀吉が一か月かけて次の攻め方を考えるなら――
俺は一か月かけて、
仲間たちから、もっと力を借りればいい。
正月を前にして戦場は静かになった。
だがそれは、戦が終わった静けさではない。
丹波でも。
山城でも。
南近江でも。
観音寺でも。
兵たちは冬空の下で刃を研ぎ、米を積み、柵を作り、馬を休ませている。
誰もが分かっていた。
この冬の静けさは――
春を待っているのではない。
正月明けの大戦を待っている。




