岩窟の恩返し――秀吉、山城で止まる
十月。
羽柴秀吉は、ようやく丹波を抜けた。
明智秀満を寄騎として迎えたことで、丹波で秀吉を悩ませていた兵糧、人足、宿営の問題はひとまず収まった。
明智光秀殿が丹波の国人や寺社、村々と結んでいた約定を秀満が一つずつ確認し、その範囲内で秀吉軍への協力を取り付けたのである。
俺のところにも、
羽柴勢、山城へ進入。
との知らせが届いた。
「とうとう来たか」
俺は地図の上で羽柴の駒を動かした。
官兵衛が隣から覗き込む。
「ここからは速いかもしれませぬ」
「丹波で止まった分を取り戻したいだろうからな」
「ええ」
俺もそう思った。
丹波では戦って負けたわけではない。
土地の仕組みを知らず、止まった。
それを秀満を借りて解決した。
ならば今度こそ秀吉は進む。
そう思っていた。
ところが――
二日後。
また早馬が来た。
「羽柴勢、停止!」
俺は耳を疑った。
「……また?」
「はっ」
「今度は何だ?」
使者が答えた。
「岩窟寺院にございます」
聞き慣れない名前だった。
「岩窟寺院?」
官兵衛が顔を上げる。
「山城と丹波の境に近い、近年認められた門徒の寺では?」
使者が頷いた。
「それにございます」
俺はようやく思い出した。
「ああ……佐野殿が認めたところか」
---
その寺は古刹ではない。
むしろ――
新しい寺だった。
数年前までは寺と呼べるようなものですらなかったという。
山城と丹波の境。
岩山の間に天然の洞窟がいくつも口を開け、その下に小さな谷がある。
耕地には乏しい。
街道からも外れている。
普通なら、好んで住み着く場所ではない。
だが、そこへ人が集まった。
長島から逃れてきた者。
織田との戦で家を失った本願寺門徒。
各地を転々としてきた家族。
僧。
職人。
農民。
浪人。
そんな者たちが山城へ流れ着いた時、佐野昌綱殿は彼らを追い払わなかった。
信仰を捨てろとも言わなかった。
ただし武装して勝手に土地を奪うことも許さない。
佐野殿が認めたのは単純なことだった。
ここに住め。
それだけだった。
---
最初は洞窟の一つへ阿弥陀如来を祀っただけだったという。
雨を凌ぐため板を張る。
その前に小さな堂を作る。
人が増えれば家を建てる。
水路を引く。
石段を作る。
別の岩窟を倉にする。
また人が増える。
少しずつ形が整った。
そして最近になってようやく、
岩窟寺院
と呼ばれるようになった。
城ではない。
砦でもない。
佐野殿が秀吉と戦うために築いた軍事施設でもない。
追われた者たちが、ようやく見つけた新しい故郷だった。
だから――
秀吉が来た。
それだけで、彼らには十分だった。
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羽柴軍の先鋒が谷へ入った。
最初は何もなかった。
物見が進む。
足軽が続く。
荷駄も入る。
すると突然、
ごろごろ――
山の上から音がした。
「何じゃ?」
兵が見上げる。
石が落ちてきた。
大岩ではない。
二人、三人で動かせる程度の石。
だが斜面を転がれば速い。
「退け!」
列が崩れた。
馬が暴れる。
荷車が横倒しになる。
そこへ――
ぱん。
鉄砲。
一発。
しばらくして、
ぱん。
もう一発。
「敵じゃ!」
羽柴兵が山を見上げる。
誰もいない。
木。
岩。
洞窟。
そのどこかから煙だけが上がっている。
兵を登らせる。
すると上から矢。
石。
棒。
そして人影は岩窟へ消える。
追えば――
今度は別の洞窟から撃たれる。
「何じゃ、こやつら!」
秀吉軍は止まった。
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最初、秀吉は下間頼廉の仕業だと思ったらしい。
「頼廉が出たか!」
ところが違う。
頼廉はもっと南。
山城北部から洛中へ入る道を塞ぐため、河内から兵を集めている。
正式な軍勢だった。
ならば佐野殿が兵を置いたのか。
それも違った。
捕らえた男を調べてみる。
百姓だった。
次に捕まえた者は職人。
その次は寺に住む僧。
武士らしい者もいるが、佐野家の兵ではない。
秀吉が尋ねた。
「誰の命令じゃ」
男は黙っている。
「下間頼廉か」
首を振る。
「佐野昌綱か」
また首を振る。
「ならば誰じゃ!」
男は答えた。
「誰にも命じられておらぬ」
秀吉が眉をひそめる。
「では、なぜ戦う」
男は秀吉を見た。
「ここに住んでおるからじゃ」
それだけだった。
---
その話を聞いた俺は、しばらく何も言えなかった。
「佐野殿、命令してないの?」
「しておられません」
「頼廉殿も?」
「関与しておられぬようです」
俺は地図を見る。
「勝手に戦ってるのか」
官兵衛は少し違うと言った。
「自分たちの土地を守っているのでしょう」
それで、意味が分かった。
彼らにとってこれは上洛戦ではない。
将軍様がどうした。
信長がどうした。
佐野と織田のどちらが正しい。
そんな大きな話ではない。
昔、自分たちは長島から追われた。
家を失った。
逃げた。
そして佐野殿に、
ここなら住んでいい
と言われた。
何年もかけて寺を作った。
畑を作った。
家を作った。
子供が生まれた。
そこへ再び織田の旗がやってきた。
だから――
戦う。
「恩返しか」
俺が言った。
官兵衛が頷いた。
「本人たちは、そう思っているかもしれませぬ」
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秀吉も、それを知った。
そして頭を抱えた。
「これは困った」
城なら攻めればいい。
佐野の砦なら焼けばいい。
頼廉の軍なら戦えばいい。
だが――
ここは佐野が近年、門徒の居住と寺院建立を認めた場所。
それを羽柴軍が焼いたらどうなる。
丹波でようやく民との関係を修復したばかりだ。
山城へ入った途端、
「羽柴秀吉、門徒の寺を焼く」
となれば話が違う。
山城中の本願寺門徒が敵になる。
下手をすれば河内まで燃える。
何より――
その先には本物がいる。
下間頼廉。
---
頼廉はすでに河内から兵を集めていた。
岩窟寺院の門徒たちとは違う。
こちらは明確な軍勢である。
槍。
鉄砲。
弓。
組織された本願寺衆。
秀吉が岩窟寺院を突破したとしても、今度は頼廉が待っている。
頼廉の目的は明快だった。
山城北側から洛中へ羽柴軍を入れない。
秀吉から見れば、
山へ入れば岩窟寺院。
抜ければ頼廉。
迂回しようにも山城の道は限られる。
しかも明智光秀殿は、相変わらず東側から山城を牽制している。
味方なのに、光秀殿の役割を崩してまで呼び戻すわけにもいかない。
「秀満殿」
秀吉が尋ねたという。
「日向守殿なら、どうする」
秀満は少し考えた。
「話をされるでしょうな」
「やはり?」
「この土地では、それが一番早いかと」
秀吉は頭を抱えた。
「また話か!」
丹波でも話。
山城へ来ても話。
戦をしに来たはずなのに、一向に大きな戦にならない。
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そして秀吉は――
止まった。
今度は本当に止まった。
一日。
二日。
三日。
羽柴の駒が動かない。
兵庫津で毎朝報告を受ける俺まで、不思議になった。
「今日の秀吉は?」
「動きなし」
「昨日は?」
「動きなし」
「岩窟寺院は?」
「小競り合いのみ」
「頼廉殿は?」
「動かず」
「……すごいな」
俺は地図を見た。
丹波で止まった時とは違う。
あの時は秀満が来れば解決した。
今回は違う。
秀吉の前には、何層もの問題が重なっている。
岩窟寺院。
その背後に下間頼廉。
そして洛中。
しかも寺を強攻すれば、佐野殿の領内にいる門徒全体を刺激する。
「攻められないのか」
俺が聞く。
官兵衛は首を振った。
「攻められます」
「え?」
「羽柴殿ほどの軍勢なら、岩窟寺院そのものを落とすことはできましょう」
「じゃあ何でやらない?」
「落とした後の方が困るからです」
なるほど。
城を一つ落として、国一つ敵にする。
割に合わない。
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だから秀吉は陣を作った。
道を調べる。
別路を探す。
寺へ使者を送る。
周辺の村へも人を出す。
下間頼廉の兵数を調べる。
そしてこちらの動きも探る。
動かない代わりに、恐ろしいほど情報を集め始めた。
それを聞いて俺は嫌な感じがした。
「官兵衛」
「はい」
「秀吉って、動いてる時と止まってる時、どっちが怖い?」
官兵衛は少し考えた。
「止まっている時でしょうな」
やっぱり。
「何を考えているか分からないから?」
「いいえ」
官兵衛は地図の秀吉を指した。
「考え終わったら、必ず何かをしてくるからです」
俺は黙った。
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その日の夕方。
俺は兵庫津の海を見ていた。
ハビービが上空を回っている。
シレトクが隣にいた。
「秀吉、来ないね」
「うん」
「いいことじゃない?」
「そう思ってた」
「今は?」
俺は山城の方を見る。
「来ない方が怖くなってきた」
シレトクが笑った。
「変なの」
「俺もそう思う」
でも本当にそうだった。
丹羽は篠原長房殿の前で陣を築いている。
佐久間と北畠具教殿は奈良口で、どちらが先に我慢できなくなるか睨み合っている。
明智光秀殿は相変わらず山城東側を駆け回る。
そして秀吉だけが――
山城へ入ったところで、完全に腰を据えた。
俺は少し前まで、
秀吉を止めたい、
と思っていた。
今は違う。
止まった秀吉が次に何をするのか知りたい。
---
同じころ。
岩窟寺院。
夕暮れの中、門徒たちが崩れた石を積み直していた。
戦慣れした兵ではない。
疲れている。
怖がっている者もいる。
それでも逃げなかった。
一人の老人が、岩窟の中に祀られた阿弥陀如来へ手を合わせた。
「佐野様から戦えと言われたわけではない」
隣の若者が頷く。
「分かっております」
「ここをくだされた」
老人は外を見る。
谷の向こうには羽柴軍の篝火が並んでいる。
「ならば、ここを守るのは我らの仕事じゃ」
誰かに命じられたわけではない。
褒美が出るわけでもない。
ただ――
もう二度と、自分たちの居場所を追われたくなかった。
そして皮肉なことに。
佐野昌綱が何年か前、戦とはまったく別の理由で認めた小さな寺が――
いまや天下でも屈指の出世頭、羽柴秀吉の大軍を山城の入口で止めていた。
俺たちはまだ秀吉と直接戦っていない。
官兵衛も。
赤井直正殿も。
岩蔵も。
甚兵衛も。
虎衆も。
鷹衆も。
まだ切り札を一つも使っていない。
それなのに秀吉は、そこにいる。
動かない。
いや――
動けないのではなく、次に動くために考えている。
俺はその夜、地図の羽柴の駒を動かさなかった。
そして、ぽつりと言った。
「官兵衛」
「はい」
「そろそろ秀吉の考えてることを考えよう」
官兵衛は笑った。
「ようやく我らの戦ですな」
俺も頷いた。
山城の小さな岩窟寺院が稼いでくれた時間。
それを無駄にはできない。
彼らが恩を返してくれたのなら――今度は俺たちが、その時間に応えなければならなかった。




