信長が援軍を送らぬ理由
九月下旬。
羽柴秀吉が明智秀満を寄騎に加え、丹波で軍勢を立て直した。
当然、俺たちは次にこう考えた。
――信長は、さらに兵を送るのではないか。
丹羽長秀は篠原長房殿に阻まれ、攻勢から陣地構築へ切り替えている。
佐久間は奈良口で動かない。
明智光秀殿は山城を牽制しながら丹羽と秀吉の間を駆け回っている。
そして秀吉は一度、丹波で止まった。
ならば信長が余剰兵力を秀吉へ送ればいい。
そう思った。
だが――
送らなかった。
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「信長から増援は?」
俺が尋ねる。
「ありません」
官兵衛が答える。
翌日も同じだった。
「丹羽には?」
「なし」
「秀吉にも?」
「ございません」
「佐久間は?」
「相変わらずです」
「……我慢強いな」
俺は地図を見ながら呟いた。
官兵衛が頷く。
「信長殿は、今ある兵で戦わせるつもりなのでしょう」
「出せる兵がない?」
「あります」
即答だった。
俺は顔を上げた。
「じゃあ、なんで出さない?」
官兵衛は地図の東側を指した。
「出せないのです」
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理由の一つは、前年にあった。
徳川家康。
そして北条氏康。
前年、両者は三方ヶ原で激突した。
勝ったのは北条だった。
徳川軍は大敗。
家康は領国へ退き、しばらく立て直しを余儀なくされた。
あの敗北があったからこそ、信長は東を完全に安心してよいようにも見えた。
だが信長は、そう考えなかった。
むしろ逆だった。
「徳川は負けたからこそ怖い?」
俺が尋ねる。
官兵衛が頷いた。
「家康殿があの敗北から何を学んだか分かりませぬ」
前年に大敗した。
ならば今年も弱い。
そんな保証はどこにもない。
信長はそれを知っていた。
だから尾張、美濃の兵を根こそぎ西へ持ってくることはしなかった。
そして――
その慎重さが正しかったことを示すような知らせが入った。
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十月十三日。
北条氏康、死去。
知らせは瞬く間に各地を駆け巡った。
奇妙な死だった。
いや、死そのものが奇妙なのではない。
死んだ時期が奇妙だった。
天下の目は西へ向いていた。
義秋。
信長。
佐野。
小田。
丹羽。
羽柴。
明智。
畿内で始まった大戦の行方を、誰もが追っている。
そんな最中――
前年、三方ヶ原で徳川を破った東国の巨人が静かに消えた。
「氏康公が……」
俺は書状をしばらく置けなかった。
北条氏康。
敵になることもあった。
味方として動くこともあった。
坂東の勢力均衡を考えるなら、絶対に無視できない人物だった。
その男がいなくなった。
官兵衛が静かに言った。
「東が動きます」
俺にも分かった。
氏康という重石が消えた。
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北条家を継いだ息子は、野心旺盛だった。
自負も強い。
父にも負けぬ。
そう思っていた。
実際――
無能ではなかった。
むしろ優秀だった。
父の氏康には及ばない。
だが、それは才覚がないからではない。
経験が足りない。
判断の積み重ねが足りない。
修羅場をくぐった数が違う。
ならば――
自分も戦いながら学べばよい。
新しい北条当主は、そう考える男だった。
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そして氏康の死を見て動いたのが徳川家康だった。
前年の三方ヶ原で大敗した徳川は、死んではいなかった。
軍を組み直した。
敗因を調べた。
城を整えた。
兵を集め直した。
そして北条の代替わりを見ると、再び動き始めた。
「徳川、進出」
その知らせが西へ届いた。
「北条は?」
俺が尋ねる。
「迎撃」
「どこで?」
使者が答えた。
「長篠付近にございます」
俺と官兵衛が顔を見合わせた。
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だが――
そこで決着はつかなかった。
新しい北条当主は、父ほどではない。
だから家康も押せると思った。
ところが実際に戦ってみれば、そう簡単ではなかった。
氏康の残した家臣団。
城。
街道。
軍制。
そして新当主自身の才覚。
北条は崩れなかった。
一方の徳川も、前年とは違う。
三方ヶ原の敗北を経験している。
無理に追わない。
陣を崩さない。
北条の誘いに簡単には乗らない。
長篠付近で――
両者が止まった。
北条も抜けない。
徳川も押し切れない。
また一つ、均衡が生まれた。
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「これか」
俺はようやく理解した。
「信長が兵を出さない理由」
官兵衛が頷く。
「はい」
尾張。
美濃。
その東に徳川。
さらに北条。
氏康が死んだことで、むしろ情勢は不安定になった。
どちらが勝つか分からない。
徳川が勝てば勢力を回復する。
北条が勝てば、そのまま西へ圧力をかける可能性がある。
「だから兵を残す」
「残さざるを得ません」
信長は我慢した。
丹羽が篠原長房を抜けなくても。
秀吉が丹波で止まっても。
佐久間が奈良口で動かなくても。
援軍を簡単には送らない。
東が怖い。
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だが、理由はそれだけではなかった。
もう一つ。
海。
俺たちにとっては、むしろこちらの方が分かりやすかった。
坂東水軍。
その存在だった。
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佐野殿の畿内陣営は、開戦とほぼ同時に坂東西国艦隊を広く展開させていた。
紀伊。
阿波。
そこからさらに南。
艦隊は一か所へ集結しない。
広がった。
紀伊水道。
熊野灘。
四国東岸。
淡路周辺。
必要なら瀬戸内側へ。
高速の坂東フリガッタを中心に、哨戒線を広く取った。
その姿は――
時折、伊勢からも見えた。
そして、さらに東。
尾張沿岸からさえ、
「沖に見慣れぬ坂東船を見た」
という報告が入る。
攻撃はしない。
上陸もしない。
ただ見える。
遠くに帆がある。
翌日には消える。
数日後、別の場所に現れる。
俺は報告を読んで笑った。
「佐久間と同じことしてるな」
官兵衛も笑った。
「海の佐久間ですか」
「何もしない。でも嫌だ」
まさにそれだった。
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信長からすれば、これは無視できない。
尾張と伊勢の兵を大量に西へ送った瞬間。
もし坂東水軍が動けばどうなる。
港を焼くかもしれない。
荷船を捕らえるかもしれない。
伊勢へ兵を上陸させるかもしれない。
あるいは――
何もしないかもしれない。
それが一番嫌なのだ。
坂東西国艦隊は、何をするとも宣言していない。
だから信長は兵を残さなければならない。
海岸へ。
港へ。
河口へ。
船溜まりへ。
「戦わなくても兵を縛れるのか」
俺が言う。
官兵衛が頷いた。
「艦隊は存在するだけで兵力になります」
俺は少し嬉しくなった。
大掾たちが長い時間をかけて作ってきた海軍。
坂東ガレオン。
フリガッタ。
軍港。
造船所。
海図。
船員。
それらが、ここへ来て織田の陸軍まで縛っている。
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だから信長は耐えた。
丹羽には言う。
持ち場を守れ。
秀吉には言う。
今ある兵で進め。
明智には言う。
山城を縛れ。
佐久間には言う。
越えるな。見ていろ。
援軍は送らない。
送れないのではない。
送れば、どこかが薄くなる。
東には徳川と北条。
南の海には坂東西国艦隊。
信長自身もまた、自由ではなかった。
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俺は地図を見ながら思った。
奇妙な戦だった。
南近江では丹羽と篠原が止まる。
奈良口では佐久間と北畠が互いに、
「お前から来い」
と睨み合う。
山城では光秀の斥候が走り回る。
東では北条と徳川が長篠付近で止まった。
海では坂東水軍が姿だけを見せて、織田の兵を沿岸へ縛る。
そして――
丹波では羽柴秀吉だけが、もう一度進もうとしている。
俺はそこへ指を置いた。
「結局、俺のところに来るのは秀吉か」
「そのようです」
官兵衛が答える。
「援軍は?」
「今のところ、羽柴殿にも少ないでしょう」
俺は少し安心しかけた。
すると官兵衛が続ける。
「だから楽になるとは思わぬことです」
「分かってるよ」
むしろ怖い。
秀吉は兵が足りなければ知恵を使う。
兵糧が足りなければ交渉する。
丹波の民が動かなければ秀満を借りる。
俺とは違う意味で、人の力を使うのが上手い。
俺は羽柴秀吉の駒を見た。
「似てるのかな」
「誰と?」
「俺と秀吉」
官兵衛は少し考えた。
「似ているところはございます」
「やっぱり?」
「ただし羽柴殿は、自分でもかなりできます」
俺は黙った。
甚兵衛が横で吹き出した。
「そこは言わなくていいだろ」
「事実ですので」
「官兵衛、俺の軍師だよね?」
「ですから正確に申し上げております」
皆が笑った。
俺も笑った。
だったら仕方がない。
向こうは、自分でもできる将。
こちらは、自分ができないことを知っている将。
それなら俺は――
また借りればいい。
外では、ハビービが空へ上がっていった。
十月。
北条氏康が世を去り、東国にも新しい時代が始まった。
陸ではいくつもの軍勢が互いを縛り、
海では巨大な坂東水軍の影が信長を縛る。
天下の誰もが自由には動けない。
その巨大な均衡の中で――
俺と羽柴秀吉だけが、少しずつ互いの間合いへ近づき始めていた。




