動かぬ佐久間、立て直す秀吉
羽柴秀吉が丹波で足を止めたころ。
戦線全体を見れば、織田軍の攻勢そのものが止まったわけではなかった。
ただ――戦い方が変わり始めていた。
俺、少弐冬明のところには、毎日のように各方面から報告が届いていた。
そして、その中で最初に目についたのが南近江だった。
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「篠原殿、また守ったそうです」
俺が書状を読み上げると、官兵衛が頷いた。
「篠原長房殿は、やはり守勢では崩れませぬな」
南近江では、丹羽長秀と篠原長房が対峙している。
最初は丹羽も積極的だった。
先陣を出す。
こちらの陣を探る。
弱いところを見つければ押す。
篠原殿はそれを受けた。
だが追わない。
敵が退いても深追いしない。
陣を守る。
街道を押さえる。
危ないと思えば少し退く。
そして次の守れる場所で、また止まる。
「地味だな」
俺が言うと、官兵衛が苦笑した。
「守将にとっては褒め言葉でしょう」
確かにそうかもしれない。
篠原殿は、勝とうとしていなかった。
負けないことを続けていた。
それが丹羽には嫌だったらしい。
数日のうちに丹羽の動きが変わった。
攻撃の回数が減った。
斥候は出す。
兵も見せる。
だが本隊は無理に前へ出さない。
その代わり――
「陣を作っています」
報告を聞いて、俺は地図を見る。
「陣?」
「はい。後方に複数」
官兵衛が説明してくれた。
柵。
堀。
兵糧置場。
馬を休ませる場所。
街道沿いの中継陣地。
「丹羽殿は攻勢を牽制へ切り替えましたな」
「篠原殿を倒すのをやめた?」
「今すぐには、ということでしょう」
丹羽は待ち始めた。
増援を。
兵糧を。
そして信長本人の次の命令を。
篠原長房を無理に抜こうとして兵を減らすより、まず南近江に強固な足場を作る。
俺は思わず言った。
「嫌だなあ」
甚兵衛が笑う。
「何が?」
「敵がちゃんとしてる」
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もっと嫌なのが奈良口だった。
佐久間。
この男は――
本当に何もしない。
「今日の佐久間は?」
俺が尋ねる。
「物見を出しております」
「それだけ?」
「それだけです」
翌日。
「佐久間は?」
「物見を」
「また?」
「はい」
さらに翌日。
「今日は?」
「少し兵を前へ出しました」
俺は身を乗り出した。
「越えた?」
「越えておりません」
「……何なんだ、あの人」
俺には本当に、物見でもしに来たようにしか思えなかった。
だが官兵衛は笑わない。
「これが一番嫌なのです」
「何もしないのに?」
「何もしないからです」
佐久間は信長の命令を忠実に守っていた。
奈良口を押さえろ。
こちらを牽制しろ。
無理に越境するな。
だから――
本当に越えてこない。
こちらが少し兵を減らせば、物見が増える。
北畠が前へ出れば、佐久間も前へ出る。
だが北畠が止まれば、佐久間も止まる。
境を越える気配だけは見せる。
しかし決して越えない。
そのため北畠具教も動けなくなった。
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北畠殿は、むしろ戦いたがっていた。
当然だった。
伊勢を追われ、佐野殿を頼った。
今回の戦を故郷へ戻る好機と見ている。
佐野殿が、
「北畠殿をまた戦へ巻き込むことになった」
と気にしていたのに対して、具教殿の方は、
「ようやく伊勢へ帰る機会が来た」
と喜んだほどだったという。
ところが。
その北畠殿の前にいるのが佐久間だった。
「来い」
北畠が待つ。
佐久間は来ない。
「ならこちらから――」
少し出る。
佐久間が退く。
その先は織田側が把握している地形だ。
北畠が止まる。
今度は佐久間が少し前へ出る。
北畠が陣へ戻る。
佐久間も止まる。
俺は報告を聞いているだけなのに、だんだん腹が立ってきた。
「これ、いつまでやるんだ」
「どちらかが我慢できなくなるまででしょう」
官兵衛が平然と言った。
「北畠殿じゃない?」
「可能性はあります」
「止めた方がいいんじゃない?」
「佐野殿が釘を刺しておられます」
それを聞いて安心した。
これは戦というより――
我慢比べだった。
先に手を出した方が、相手の得意な地形へ入る。
佐久間が奈良へ入れば、順慶や北畠が待つ場所で戦うことになる。
北畠が伊勢方向へ突出すれば、今度は佐久間が選んだ場所で戦う。
だから双方とも分かっている。
来い。
いや、お前が来い。
それだけを何日もやっている。
「戦ってないのに戦なんだな」
俺が言うと官兵衛が頷いた。
「むしろ、こういう戦の方が長うございます」
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そして俺が担当する丹波。
ここにも変化が起きた。
「羽柴勢、再び動き始めました」
その報告には、さすがに俺も身を起こした。
「兵糧は?」
「集まり始めております」
「どうやって?」
使者が答えた。
「明智秀満殿が羽柴陣へ入られました」
俺は官兵衛を見る。
「秀満?」
「明智殿の近親にして重臣です」
「光秀殿本人じゃないんだ」
「本人が動けば山城への圧力が弱まりますからな」
なるほど。
光秀殿は動かない。
相変わらず山城東側へ斥候を出し、丹羽と秀吉の間を繋いでいる。
しかし秀吉を放置するわけにもいかない。
そこで――
明智秀満を寄騎として秀吉につけた。
これが効いた。
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後から聞いた話では、秀満が丹波へ来た日の秀吉は、本当に嬉しそうだったらしい。
「秀満殿!」
「羽柴殿」
「待っておった!」
秀満が少し面食らう。
「それほどでございますか」
「それほどじゃ!」
秀吉はすぐに村々との交渉へ秀満を連れていった。
案の定。
反応が変わった。
「こちらは明智秀満殿じゃ」
村の者たちが顔を見合わせる。
秀満が言う。
「日向守より話は聞いている。羽柴殿の軍勢へ協力してほしい」
すると、
「明智様からのお話でございますか」
となる。
秀吉は横から、
「最初からそう言っておるではないか」
と言いたくなったらしいが、黙った。
兵糧は買い上げ。
人足には対価を払う。
兵の提出については、光秀が結んだ既存の約定を侵さない。
村へ勝手に押し入らない。
寺社領へ手を出さない。
細かな条件を秀満が確認していく。
そしてようやく――
丹波の道が開いた。
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「秀吉、立て直したか」
俺は地図の上で羽柴の駒を見た。
止まっていた駒が、また動けるようになった。
官兵衛が頷く。
「さすがに早い」
「もっと困っていてくれてよかったのに」
甚兵衛が笑った。
「悪いなあ」
「お前から借りたんだぞ」
「便利に使いすぎだ」
だが笑ってばかりもいられない。
羽柴軍は丹波で再着陣した。
陣を整理する。
兵糧を数える。
部隊を組み直す。
明智秀満が寄騎として加わり、丹波国人との連絡も改善された。
それまで少しばらばらだった兵の流れが、急に整い始めた。
俺は遠く離れた兵庫津にいるのに、それが分かる。
報告の内容が変わったからだ。
昨日までは、
兵糧が足りない。
村と揉めた。
人足が来ない。
そんな話ばかりだった。
今日からは違う。
羽柴先鋒、前進準備。
兵糧集積を再開。
丹波国人と協議成立。
明智秀満、羽柴陣に着陣。
嫌な報告ばかりだ。
「官兵衛」
「はい」
「来るな」
「来ますな」
「どこから?」
官兵衛はすぐには答えなかった。
地図を見ている。
俺も見る。
羽柴秀吉。
その横に明智秀満。
さらに東では明智光秀の斥候。
南近江には丹羽。
奈良口には佐久間。
きれいに並んでいた。
しかし、最初とは少し違う。
丹羽は篠原長房を無理に攻めず、陣地構築へ移った。
佐久間と北畠は動けない。
明智は相変わらず走り続けている。
そして――
一度止まった秀吉だけが、再び動こうとしている。
官兵衛が羽柴の駒を指した。
「ここからです」
俺は頷いた。
ようやく俺たちの番が来る。
「弥七と藤次は?」
「すでに見ております」
「虎衆は?」
「エカシロとハウキが山へ」
「直正殿は?」
「いつでも動けます」
「岩蔵」
「兵をまとめております」
「甚兵衛」
俺が見ると、甚兵衛は笑った。
「悪さの準備ならできてるぞ」
「よし」
俺は地図を見た。
丹波で軍勢を整え直した羽柴秀吉。
今度こそ、こちらへ来る。
怖くないと言えば嘘になる。
むしろ怖い。
一度失敗したのに、すぐ原因を見つけて修正した。
光秀本人を呼び戻すのではなく、秀満を寄騎として借りることで解決した。
失敗した後の立て直しが速い。
それが秀吉という男なのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
「やっぱり強いな、あの人」
官兵衛がこちらを見る。
「だからこそ、少弐殿の担当なのでしょう」
「逆じゃない?」
「いいえ」
官兵衛は珍しく笑った。
「少弐殿一人で戦うわけではございませんから」
俺も笑った。
そうだった。
俺には借りたものがある。
官兵衛の知。
赤井直正殿の武威。
岩蔵の義。
シレトク、エカシロ、ハウキたちの北の力と優しさ。
そして甚兵衛たちの悪さ。
俺みたいな凡将が秀吉と戦う方法など――
最初から、それしかない。
「じゃあ」
俺は羽柴秀吉の駒を見ながら言った。
「来てもらおうか」
止まっていた羽柴軍が、再び動き始めた。
そして俺たちもまた――
ようやく羽柴秀吉一人だけを見ればよい戦へ入ろうとしていた。




