丹波で止まった秀吉
九月中旬。
兵庫津に届く報告を並べてみると、少弐冬明には一つだけ妙なことが分かった。
「……合わせてるよな、これ」
俺がそう言うと、官兵衛が地図を見たまま頷いた。
「合わせておりますな」
丹羽長秀が南近江へ入った。
ほとんど同時に、羽柴秀吉が丹波へ向かった。
まるで最初から時計でも合わせていたようだった。
しかも秀吉は単独で丹波へ突っ込んだわけではない。
先に丹波・山城境を駆け回っていた明智光秀の斥候と接触し、その情報を受け取りながら進んでいる。
「うまいな」
思わず口にすると、甚兵衛が俺を見た。
「また敵を褒めるのか」
「うまいものはうまいだろ」
俺は地図を指した。
丹羽。
羽柴。
そして、その間を動く明智。
光秀殿は相変わらず山城へ本格的には入ってこない。
東側から斥候を出してはこちらを探り、ときどき山城側の物見と小競り合いをする。
矢が数本飛ぶ。
追えば退く。
こちらが退けば、また出てくる。
それだけ。
だが、その「それだけ」が厄介だった。
光秀殿は丹羽と秀吉の間を絶えず走り回っている。
「ここを抜かせないつもりか」
「でしょうな」
官兵衛が答えた。
丹羽と秀吉の間へこちらが兵を差し込めば、織田軍を二つに割れる。
だから光秀殿が、その隙間を塞いでいる。
大軍を置く必要はない。
斥候を走らせる。
こちらが動けば知らせる。
必要なら小勢で噛みつく。
その間に丹羽と秀吉が進む。
「光秀殿、忙しいな」
俺が言うと官兵衛が笑った。
「今回もっとも走っておられるかもしれません」
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ただ、こちらも黙って見ているわけではなかった。
丹羽長秀へは、佐野殿が篠原をぶつけた。
南近江正面を受け持たせる。
丹羽が押せば退き、止まればこちらも止まる。
まずは大きく崩れないことを優先する。
一方、佐久間方面。
こちらには筒井順慶が当たった。
佐久間は依然として慎重だった。
境を探る。
兵を見せる。
だが無理に突っ込んでこない。
順慶も付き合った。
「なんだか二人とも、戦いたくなさそうだな」
俺が言うと、官兵衛が首を振った。
「戦いたくないのではありません」
「違うの?」
「互いに、先に失敗したくないのでしょう」
「それを戦いたくないって言うんじゃないか」
甚兵衛が笑った。
だが佐野殿は念を入れた。
さらに南。
郡山方面へ、新たな軍勢を入れた。
北畠具教。
その名を聞いた時、俺は少し驚いた。
「北畠殿まで?」
「はい」
報告を持ってきた者が頷く。
信長の伊勢侵攻後。
故地を追われた北畠一族は、佐野殿を頼っていた。
佐野殿はずっと、そのことを気にしていたらしい。
自分が織田と争うことで、北畠まで巻き込んだのではないか。
今回も北畠に兵を求めることを躊躇したという。
ところが――
北畠具教本人の反応は、まるで違った。
> 「何を詫びられる。これは伊勢へ帰る好機ではないか」
だったそうだ。
俺はそれを聞いて笑ってしまった。
「強いなあ」
「喜んでおられたそうです」
「佐野殿の方が困っただろうな」
「かなり」
これで南は厚くなった。
佐久間が順慶を押し込んでも、その後ろに北畠がいる。
しかも北畠にとって、この戦は単なる佐野救援ではない。
故郷の伊勢へ帰る戦でもある。
士気の意味が違った。
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そうして地図を眺めると、俺の見るべき場所もはっきりした。
「じゃあ、俺はここだけでいいな」
丹波を指した。
官兵衛が頷く。
「羽柴秀吉」
「うん」
丹羽は佐野殿。
佐久間は順慶と北畠。
山城正面は明智を警戒する者たちがいる。
俺があちこちへ口を出す必要はない。
というより――
出さない方がいい。
「秀吉だけ見よう」
俺は言った。
「それで十分です」
官兵衛も同意した。
「むしろ羽柴殿から目を離さぬでください」
「そんなに?」
「危険です」
官兵衛が即答した。
嫌だな。
官兵衛がここまで迷わず言う相手なのか。
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そして羽柴秀吉は、丹波へ入った。
明智の斥候から道の情報を受ける。
どの国人が味方になる。
どの村から兵糧を出させる。
どの道なら荷駄を通せる。
光秀殿が先に丹波で築いてきた関係がある。
だから秀吉は、かなり速く進めるつもりだったらしい。
ところが――
止まった。
最初の報告を聞いた時、俺は聞き返した。
「止まった?」
「はい」
「誰かと戦ったの?」
「いいえ」
「城?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで?」
使者が少し困った顔をした。
「兵糧が集まらぬそうです」
「……兵糧?」
俺は官兵衛を見た。
官兵衛の目が細くなった。
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丹波。
秀吉は頭を抱えていた。
「どういうことじゃ!」
戦ではない。
敵襲でもない。
村へ使者を出した。
兵糧を出せ。
人足を出せ。
兵も出せるなら出せ。
普通なら、織田の大軍を前にした村々は従う。
少なくとも秀吉はそう考えていた。
ところが丹波の民は、妙に頑固だった。
「明智殿との約定にはございませぬ」
村の代表が答える。
秀吉が眉をひそめる。
「何?」
「我らは明智様と話をしております」
「今は織田の軍が来ておる」
「それは存じております」
「ならば兵糧を出せ」
「明智様との話と違います」
秀吉は言葉に詰まった。
別の村でも同じだった。
「兵を出せ」
「そのような約定はしておりませぬ」
「荷駄を出せ」
「明智殿へ確認してくだされ」
「米を買う」
「それならば値を決めてくだされ」
「徴発じゃ」
「それは明智殿との約定と違います」
どこへ行っても、
明智。
明智。
明智。
光秀が丹波へ入る際、国人や寺社、村々と細かく取り決めを交わしていた。
年貢。
兵役。
通行。
宿営。
市場。
寺社領。
そして勝手な徴発をしないこと。
それによって光秀は丹波の抵抗を抑え、味方を増やしていた。
そこへ秀吉軍が来た。
秀吉からすれば同じ織田軍である。
当然、光秀が得た協力も使えると思っていた。
丹波側からすれば違った。
「我々が約束したのは明智殿だ」
という話だった。
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秀吉は額を押さえた。
「いや、待て」
側近たちが黙っている。
「同じ織田ぞ?」
誰も答えない。
「わしも織田。明智殿も織田」
村人は困ったように答えた。
「それは存じませぬ」
「知らぬのか!」
「明智様とは話をいたしました」
「だから!」
秀吉が立ち上がる。
「わしはその明智殿と一緒に戦っておるのじゃ!」
村人が少し考える。
そして言った。
「では――」
秀吉が期待する。
「明智殿と話をさせてくだされ」
秀吉は天を仰いだ。
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その話が兵庫津まで届いた。
俺は最初、笑っていいのか迷った。
「……秀吉、止まってる?」
「止まっております」
官兵衛が答えた。
「民に?」
「民に」
甚兵衛が笑い出した。
「戦う前からか」
「笑い事ではありません」
官兵衛は真面目だった。
俺は官兵衛を見る。
「でも、こっちが何かしたわけじゃないよ?」
「だから厄介なのです」
「どういうこと?」
官兵衛が丹波を指した。
「明智殿が、それだけ丁寧に丹波を押さえていたということです」
俺は黙った。
確かに。
秀吉が困っているから喜んでいたが、その原因を作ったのは光秀殿だ。
兵を使わず。
村を焼かず。
約定を結び。
丹波の民に、
『明智となら話ができる』
と思わせている。
「強いな」
俺が呟く。
甚兵衛がまた言った。
「敵を褒めるなって」
「いや、これは褒めるだろ」
官兵衛も頷いた。
「私も同感です」
甚兵衛が二人を見て呆れた。
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だが、俺はふと気づいた。
「待てよ」
地図を見る。
光秀殿は今、山城東側を走っている。
丹羽と秀吉の間も繋いでいる。
山城を牽制している。
そして丹波の民は、
光秀殿と話をさせろ
と言っている。
俺は官兵衛を見る。
「これ、光秀殿を呼ばないと秀吉は進めない?」
「少なくとも、強引に進めば丹波で築いた明智殿の信用を壊します」
「でも光秀殿が丹波へ戻ったら?」
「山城への牽制が弱くなります」
俺は思わず笑った。
「面白いな」
官兵衛も少し笑った。
信長の配置は見事だった。
佐久間が南を縛る。
丹羽が南近江を押す。
秀吉が丹波へ入る。
光秀がその間を走り、山城を牽制する。
きれいだった。
本当にきれいだった。
ただ一つ。
その明智光秀が――
あまりにも丹波で上手くやりすぎていた。
丹波の民が、織田ではなく光秀個人を信用してしまった。
だから秀吉は進めない。
俺は地図の上の秀吉の駒を指で止めた。
「官兵衛」
「はい」
「今は攻めない方がいい?」
官兵衛は即答した。
「攻めません」
「やっぱり?」
「勝手に困っている敵を助ける必要はございません」
甚兵衛が笑った。
「それは悪いな」
俺も笑った。
「お前に借りたからな」
「もう使ってるのか」
「便利だぞ、悪さ」
官兵衛が呆れた顔をした。
だが、すぐに地図へ目を戻した。
「少弐殿」
「何?」
「鷹衆へ命令を」
俺は顔を上げる。
「何をさせる?」
官兵衛は秀吉軍の周囲を指した。
「何もしないように」
「……何もしない?」
「はい」
敵の荷駄を襲わない。
村へ工作もしない。
道も塞がない。
ただ見る。
秀吉がどうやってこの問題を解くか。
それを観察する。
俺は少し考えてから頷いた。
「弥七と藤次に伝えて」
そして付け加えた。
「秀吉を怒らせるな、と」
甚兵衛が笑った。
「殿、秀吉が怖いか」
「怖いよ」
俺は普通に答えた。
「だから、困っている間はそっとしておく」
---
その夜。
丹波の羽柴陣営から、明智光秀へ早馬が走った。
書状には、秀吉らしい簡潔な言葉が並んでいた。
丹波の民が兵糧、人足の供出に応じない。
皆、明智殿との約定を口にする。
至急、話をしたい。
そして最後には――
ほとんど泣き言のような一文が添えられていた。
「日向守殿、これはいったい、どういう約束をなされたのじゃ」
一方。
兵庫津でその動きを見ていた俺は、まだ知らなかった。
秀吉を止めたこの小さな躓きが、
やがて明智光秀自身に、
織田家の中で自分が何者なのか
を強く意識させる最初の出来事の一つになることを。
今の俺に分かっていたのは、もっと単純なことだけだった。
羽柴秀吉は強い。
だからこそ――
敵が自分から止まってくれているなら、わざわざ押してやる必要はない。
俺は地図の秀吉の駒を見ながら、官兵衛に言った。
「もう少し、そこで困っててもらおう」
官兵衛は静かに頷いた。
「それがよろしいでしょう」
俺たちと羽柴秀吉の戦は――
まだ、刀を抜く前から始まっていた。




