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境を越えぬ者たち

九月上旬。


義秋の直訴によって信長がついに挙兵を決めると、もっとも早く反応したのは佐久間だった。


織田諸将の大軍がまだ完全に集まりきる前から、佐久間勢の斥候は動き始めていた。


街道。


峠。


川沿い。


村と村をつなぐ細道。


大和との境に近いところまで出てきては、こちらの兵数、柵、荷駄の動き、夜間の篝火まで細かく探る。


しかし――


越えてこない。


大和側の物見が何度報告しても同じだった。


「佐久間勢、また境近くまで進出」


「越境は?」


「ございませぬ」


翌日も。


「斥候二十余、街道筋へ」


「越境は?」


「なし」


佐野昌綱は報告を聞きながら、地図へ指を置いた。


「慎重だな」


少弐冬明も横から覗き込む。


「攻めてこないんですか」


「今はな」


黒田官兵衛が答えた。


「佐久間殿の仕事は、攻めることではありません」


少弐が見る。


「では?」


「こちらに攻めさせないことです」


大和勢が伊勢や近江方面へ突出しないよう、佐久間が積極的に姿を見せる。


兵を集めれば向こうも集める。


斥候を出せば追尾する。


しかし境は越えない。


つまり、


『こちらは見ている。勝手に兵を抜くな』


という牽制だった。


少弐は少し感心した。


「嫌なことをする」


官兵衛が笑う。


「優秀な敵とは、だいたい嫌なことをするものです」



---


それから少し遅れて、明智光秀も動いた。


ただし光秀自身が大軍を率いて山城へ入ってきたわけではない。


先に入ったのは斥候隊だった。


いや。


正確には――


山城の外縁を走り回った。


丹波方面から現れ、山中へ消える。


翌日には別の峠へ出る。


さらに北へ移り、川沿いを確認する。


山城北部の村々からは、


「明智の者を見た」


という報告が相次いだ。


下間頼廉のもとにも知らせが届く。


「また来たか」


「はい。ただし境を越えてはおりませぬ」


頼廉は苦笑した。


「佐久間も明智も、妙に行儀がいいな」


だが行儀がいいから安全なのではない。


むしろ逆だった。


光秀は山城北部の道を測っている。


どの峠が使える。


どの谷なら兵糧を運べる。


どの寺が兵を置ける。


どこに柵がある。


こちらが何人いる。


それを戦の前に頭へ入れている。


少弐虎衆も明智斥候の姿を何度か捉えた。


エカシロが報告する。


「追えば逃げる」


ハウキも言った。


「でも、逃げながら道を見てる」


官兵衛が頷いた。


「光秀殿らしい」


少弐が尋ねる。


「捕まえます?」


「越境していない者をこちらから捕らえれば、こちらが先に戦を始めたことになります」


「それは駄目か」


「今は」


少弐は頷いた。


「じゃあ、見せておけばいい」


官兵衛が少弐を見る。


「何を?」


「こっちも見てる、と」


その日から虎衆の物見は、明智斥候を追い払わなくなった。


わざと姿を見せる。


尾根の上に一人立つ。


少し離れた林にも別の影。


明智方が見れば、


『こちらもお前たちを見ているぞ』


と分かる距離である。


奇妙な偵察戦が始まった。


まだ矢一本飛ばない。


だが互いに相手の目を数えている。



---


そして――


丹羽長秀。


羽柴秀吉。


この二人は、驚くほどぴたりと自分の持ち場へ入った。


少弐のもとへ報告が届いたとき、赤井甚兵衛が言った。


「打ち合わせでもしてたみたいだな」


官兵衛が地図を見る。


「していたでしょう」


「本当に?」


少弐が尋ねる。


「信長殿が大雑把に『この辺を頼む』で終わらせるとは思えませぬ」


官兵衛の指が地図を動く。


丹羽は南近江方面。


秀吉は若狭攻略軍を基盤として西寄りの戦線。


どちらも前へ出すぎない。


だが、必要なところに必要なだけ兵がいる。


丹羽が一歩動けば、佐野側は近江正面を意識せざるを得ない。


秀吉が動けば、播磨・丹波方面を警戒しなければならない。


しかも両者の間に大きな穴がない。


「きれいですね」


少弐が言った。


「敵を褒めますか」


甚兵衛が笑う。


「きれいなものはきれいでしょう」


少弐は地図を見た。


「でも嫌だな」


「何が?」


「どこを見てもちゃんと誰かいる」


官兵衛が頷いた。


「それこそ信長殿の強みです」


一人の天才だけに頼らない。


佐久間。


明智。


丹羽。


秀吉。


それぞれが自分の役割を理解し、自分の持ち場へ入る。


少弐はそれを見て、少し黙った。


「似てるな」


官兵衛が見る。


「何がです?」


「俺たちと」


一同が少弐を見る。


「俺も官兵衛に知を借りる。直正殿に武威を借りる。甚兵衛には悪さを借りる」


少弐は笑った。


「信長殿も同じなんじゃないか」


官兵衛は少し考えた。


「……規模は違いますが」


「そこは言わなくていい」


広間に笑いが起きた。


しかし官兵衛は続けた。


「だからこそ、正面から競ってはなりません」


敵もまた、適材適所で動いている。


ならばこちらは、敵が一番嫌がる場所へ入り込む。



---


数日後。


兵庫津へさらに詳しい報告が届いた。


佐久間。


越境なし。


ただし大和側の兵の動きを執拗に確認。


明智。


山城北部・丹波境を斥候が頻繁に移動。


ただしこちらも越境なし。


丹羽。


南近江方面に予定通り着陣。


陣地構築を開始。


秀吉。


所定の位置へ入り、兵糧と荷駄をまとめ始めた。


少弐が報告書を机に並べた。


「皆、真面目だな」


官兵衛が言う。


「まだ信長殿自身が前へ出ておりませぬ」


「これでも?」


「はい」


少弐は少し嫌な顔をした。


「じゃあ、今はまだ前座か」


赤井直正が豪快に笑った。


「面白くなってきたではないか」


「赤鬼殿は楽しそうですね」


「戦に来て戦を嫌がってどうする」


少弐は肩をすくめた。


「私は帰りたいですよ」


甚兵衛が笑う。


「まだ始まってもいねえぞ」


「だから早く終わらせたい」


官兵衛は地図を見たまま言った。


「終わらせるには、まず敵の狙いを見極めます」


そして駒を置く。


佐久間。


明智。


丹羽。


秀吉。


四つの駒が、畿内を取り囲むように並んだ。


官兵衛は静かに言った。


「この配置で、信長殿が本当に抜きたいのは二か所です」


少弐が顔を上げる。


「丹羽か、秀吉」


「はい」


佐久間と明智は、今のところ縛る役。


山城と大和に兵を残させる。


そして正面から実際に突破を図るのは――


丹羽長秀か。


羽柴秀吉か。


少弐は地図を見つめた。


「じゃあ、次はそこを見る?」


官兵衛が頷いた。


「そこから戦が始まります」


外ではハビービが鳴いた。


まだ誰も境を越えていない。


矢も飛んでいない。


だが畿内の道という道に兵が現れ、山には物見が潜み、荷駄が動き始めている。


戦はもう始まっていた。


ただ――


まだ誰も、最初の一歩を国境の向こうへ踏み出していないだけだった。

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