凡将の檄――借りるぞ、お前たちの力
九月七日。
兵庫津には、朝から早馬が出入りしていた。
織田軍が動き始めた。
尾張、美濃で軍勢催促。
近江へ兵糧が運ばれ、伊勢でも諸将が兵を集めている。
もはや義秋の檄文だけではない。
織田信長という巨大な軍事力が、実際にこちらへ向かって動き始めていた。
その報告を受けた少弐冬明は、まず兵を集めるのではなく――
指揮官を集めた。
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広間には、少弐の周囲では珍しいほど多彩な顔が並んでいた。
黒田孝高。
赤井直正。
阿波辺岩蔵。
赤井甚兵衛。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
そして鷹衆を預かる二人。
少弐は上座に座っていた。
だが、軍議の中心には最初から黒田を座らせている。
少弐が一同を見る。
「始める前に、一つだけ」
黒田が顔を上げた。
「孝高」
「は」
「いや」
少弐は少し考えて、言い直した。
「これからは、官兵衛だ」
黒田孝高がわずかに眉を動かした。
「急ですな」
「嫌か?」
「いいえ」
「じゃあ官兵衛」
少弐は笑った。
「俺には戦が分からん。お前の知を借りる」
黒田――官兵衛は、しばらく少弐を見ていた。
やがて静かに頭を下げた。
「存分にお使いくだされ」
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次に少弐が向いたのは、大柄な男だった。
「赤井直正殿」
丹波の赤鬼。
その名を知らぬ者は少ない。
「俺には、あなたのような武威はない」
直正が黙って聞いている。
「だから借りたい」
少弐は頭を下げた。
「丹波の赤鬼殿。その武威を、俺に貸してください」
直正は少し驚いたようだった。
大将が家臣たちの前で頭を下げる。
しかも「働け」ではない。
貸してくれ、と言う。
直正はやがて豪快に笑った。
「返していただく必要はありますかな」
少弐も笑った。
「戦が終わったら返します」
「ならば、それまでお預けしましょう」
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少弐は次に阿波辺岩蔵を見る。
「岩蔵」
「おう」
「お前は前に言ったな」
岩蔵が首を傾げる。
「何をだ」
「生まれ変わっても、やり直したい、と」
岩蔵の顔から笑いが少し消えた。
山にいた。
山賊をまとめていた。
正規の武士とは呼ばれなかった。
それでも今、ここにいる。
「俺は、あの言葉を覚えている」
少弐は言った。
「だから岩蔵には、義を借りる」
「義?」
「一本気な義だ」
岩蔵が苦笑する。
「俺にそんな立派なものがあるか」
「ある」
少弐は即答した。
「俺がそう思っているからある」
岩蔵は何も言わなかった。
やがて鼻をすすり、
「勝手な殿だな」
とだけ言った。
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そして少弐は、三人を見る。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
北から来た者たち。
坂東ですら遠い。
まして兵庫津など、彼らが生まれ育った土地から見れば世界の反対側にも思えるほど遠い。
「シレトク」
「うん」
「エカシロ。ハウキ」
二人も少弐を見る。
「お前たちには――」
少弐は少し言葉を探した。
「北の力を借りる」
虎衆の者たちも聞いていた。
「山を歩く力。寒さに耐える力。獣を追う力。知らない土地でも生きていく力」
そして少弐は少し笑った。
「それと、優しさを借りる」
三人が不思議そうな顔をした。
「優しさ?」
シレトクが聞く。
「そう」
少弐は頷いた。
「こんな遠いところまで、俺なんかのためについてきてくれた」
シレトクが何か言おうとした。
だが少弐は続けた。
「だから、それも力だと思う」
エカシロが笑った。
「冬明」
「何?」
「俺たちは、お前のためだけに来たわけじゃない」
少弐が少し困った顔になる。
「そうなの?」
「面白そうだったからだ」
ハウキも頷いた。
「うん」
広間に笑いが起きた。
少弐も笑った。
「じゃあ、それでもいい」
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最後に。
少弐は一人の男を見る。
赤井甚兵衛。
同じ赤井でも、直正とは違う。
名門の将ではない。
丹波の赤鬼でもない。
少弐が播磨へ来た時、最初に仲間になった男。
山の道。
裏の道。
悪党の道。
表の武士が知らない世界を知っている。
少弐は笑った。
「赤井は赤井でも」
直正が少し眉を上げた。
「甚兵衛」
甚兵衛が嫌な予感でもしたような顔をした。
「なんだ」
「お前には――」
少弐は少し間を置いた。
「悪さを借りる」
一瞬。
広間が静まり返った。
次の瞬間、岩蔵が吹き出した。
直正まで笑った。
甚兵衛だけが呆れた顔をする。
「もっと他に言い方はないのか」
「ない」
「武勇とか機転とか」
「それもある」
「ならそっちを借りろ」
「でも一番欲しいのは悪さだ」
甚兵衛が頭を掻いた。
「……どんな殿だ」
少弐は笑った。
「正面から信長と戦ったら負ける」
官兵衛が少弐を見る。
「だから悪さがいる」
山道。
夜襲。
偽情報。
伏兵。
荷駄への攻撃。
逃げたと見せて誘い込む。
正規軍なら嫌がるような戦い。
それを躊躇なくやれる男が必要だった。
「分かったよ」
甚兵衛が言った。
「悪さなら貸してやる」
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そして、その甚兵衛の後ろに二人がいた。
少弐が見る。
「そういえば、まだちゃんと名を聞いていなかった」
甚兵衛が振り返る。
「ほら」
二人が嫌そうな顔をする。
「ここで?」
「ここでだ」
先に一人が頭を掻いた。
「……猪ノ口弥七」
「弥七」
少弐が頷く。
もう一人。
「灰屋藤次」
「藤次」
少弐は二人の名を覚えるように繰り返した。
「鷹衆を頼む」
弥七が尋ねる。
「軍学とかいうのを覚えろと言われても無理だぞ」
「覚えなくていい」
「いいのか?」
「いい」
少弐は笑った。
「お前たちは山賊だった時の感覚を捨てるな」
藤次が甚兵衛を見る。
甚兵衛も笑った。
「お前ら、褒められてるぞ」
「本当か?」
「たぶんな」
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やがて軍議が終わった。
そして今度は――
兵たちが集められた。
兵庫津の広場。
正規兵。
虎衆。
鷹衆。
水軍の者。
丹波から来た者。
坂東から来た者。
北方から来た者。
数多くの兵が並ぶ。
その前には先ほどの指揮官たちが立った。
官兵衛。
赤井直正。
岩蔵。
甚兵衛。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
弥七。
藤次。
少弐は、その一堂を見渡した。
そして前へ出た。
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「まず――」
少弐は言った。
「官兵衛」
黒田が顔を上げる。
「俺はお前の知を借りる」
次に赤井直正。
「丹波の赤鬼殿」
直正が少弐を見る。
「あなたには武威を借りる」
岩蔵。
「お前には、もう一度やり直したいと言った、あの一本気な義を借りる」
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
「お前たちには北の力を借りる。そして、こんなところまで俺なんかについてきてくれた、その優しさを借りる」
そして最後に甚兵衛を見る。
少弐は少し笑った。
「俺が播磨へ来て、最初に仲間になった――」
一度、直正を見る。
「赤井は赤井でも」
兵たちから小さな笑いが漏れた。
「赤井甚兵衛」
甚兵衛が腕を組む。
「お前には――悪さを借りる」
今度ははっきり笑いが起きた。
甚兵衛が叫んだ。
「もっと格好いいものを借りろ!」
少弐も笑った。
「嫌だ!」
兵たちの緊張がほどけた。
そして――
少弐の表情が変わった。
「みんな」
静かになった。
「今日から俺たちは――」
一度、息を吸った。
「将軍様に楯突く悪人だ」
誰も笑わなかった。
その意味を、皆分かっていた。
将軍の檄に逆らう。
幕府から討伐される側に立つ。
織田信長まで敵に回った。
少弐は続けた。
「怖いと思う」
兵たちを見る。
「俺も怖い」
そして言った。
「だから一つだけ約束する」
少弐は自分の胸に手を置いた。
「この行いの責めは――」
声を張った。
「俺が、この命をもって負う」
官兵衛が少弐を見る。
佐野の名代でもない。
氏治の命令だからでもない。
自分が彼らをここへ連れてきた。
だから責任は自分が取る。
「お前たちは、俺についてきただけでいい」
少弐は続けた。
「もし負けたら、俺が命を差し出す」
ざわめきが起こる。
「だから」
少弐は頭を下げた。
大将が。
兵たちの前で。
深く。
「俺についてきてほしい」
静まり返った。
そして少弐は顔を上げた。
「俺みたいな凡将には――」
後ろに並ぶ仲間たちを見る。
「お前らが必要だ」
官兵衛。
直正。
岩蔵。
甚兵衛。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
弥七。
藤次。
そして名もない兵たち。
「俺一人じゃ、何もできない」
少弐は笑った。
「だから借りる」
拳を握る。
「知を借りる!」
官兵衛が頭を下げる。
「武威を借りる!」
赤鬼が笑う。
「義を借りる!」
岩蔵が胸を叩く。
「北の力を借りる!」
虎衆から声が上がった。
「悪さを借りる!」
甚兵衛が叫んだ。
「そこだけ二回言うな!」
兵たちが爆笑した。
少弐も笑った。
そして――
最後に大声で言った。
「全部借りて!」
兵たちを見る。
「信長に勝って、全員で返しに行くぞ!」
歓声が上がった。
槍が掲げられた。
虎衆が吠えた。
鷹衆が笑った。
岩蔵が兵たちを煽る。
赤井直正の大声が広場を揺らす。
甚兵衛は、
「悪さならいくらでも貸してやる!」
と叫んだ。
その時。
シレトクの腕からハビービが放たれた。
一羽の鷹が兵庫津の空へ舞い上がる。
高く。
誰からも見えるところまで。
敵からさえ見えるほど高く。
少弐は空を指した。
「覚えておけ!」
全員が見上げる。
「戦場でハビービが飛んでいたら――」
鷹が大きく旋回する。
「俺はそこにいる!」
歓声。
「迷ったら戻ってこい!」
少弐は叫んだ。
「俺も逃げない!」
そして最後に。
「だから――」
一堂を見渡した。
「一緒に帰ろう!」
その言葉に、兵庫津が揺れた。
天下を取るためではない。
将軍を倒すためでもない。
自分こそ正義だと叫ぶためでもない。
むしろ自分たちは今日から、将軍の命に逆らう「悪人」なのだと、少弐は最初から認めた。
それでも仲間を守る。
責めを負う。
そして自分にないものは、仲間から借りる。
それが少弐冬明という将だった。
名将ではない。
本人が誰よりそれを知っていた。
だからこそ――
凡将は、仲間を集めた。
そして九月の空の下。
知、武威、義、北の力、優しさ、そして少しばかりの悪さを借りた一軍が――
ついに織田信長を迎え撃つため、動き始めたのであった。




