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九月六日、兵庫津軍議

九月六日。

織田信長挙兵の知らせが届いてから、佐野の屋敷は一変した。

昨日までは、まだ政治の話だった。

義秋の檄。

鷹司家との婚姻。

朝廷との折衝。

幕府との関係をどう修復するか。

それらはすべて、書状と使者で動かすことのできる話だった。

だが信長が兵を出すと決めた瞬間から、必要になるものが変わった。

兵。

馬。

船。

鉄砲。

兵糧。

そして――

誰に、何を任せるのか。

佐野昌綱は畿内の諸将との調整のため京に残る。

少弐冬明は兵庫津へ戻る。

黒田孝高も同行した。

そして九月六日の夕刻。

兵庫津の一室に、少弐のもとで戦う者たちが集まった。

黒田が地図を広げた。

少弐は上座には座っていたが、地図の正面を黒田へ譲った。

それを見て赤井甚兵衛が笑った。

「殿、そこは御自分でやらんのか」

「やらない」

即答だった。

「私は戦が下手だから」

「そこまで堂々と言われると、こっちが困りますな」

「だから孝高を連れてきた」

黒田が少弐を見る。

「私に丸投げなされるおつもりで?」

「うん」

「少しは否定してください」

周囲から笑いが起きた。

だが、その笑いが場の緊張を少しだけ解いた。

少弐は続けた。

「ただし、何でも孝高の言う通りにしろ、という意味ではない」

一同が少弐を見る。

「皆、意見を言ってほしい」

赤井。

エカシロ。

ハウキ。

鷹衆を率いる二人。

そして少し離れたところには、阿波辺岩蔵もいた。

「孝高は全体を見る」

少弐が言う。

「でも山のことなら、山で生きてきた者の方が分かる。森ならエカシロやハウキの方が分かる。奇襲なら甚兵衛や鷹衆の方が分かる」

そして岩蔵を見る。

「人が怖くなった時にどう動くかは、岩蔵がよく知っている」

阿波辺岩蔵が鼻を鳴らした。

「山賊だったからか」

「山賊をまとめていたからだ」

岩蔵は少し笑った。

「なら褒め言葉として受け取っておく」

黒田はそのやり取りを黙って聞いていた。

少弐の軍議は、普通の武家のそれとは少し違う。

上官が答えを出し、それを家臣へ命じる場ではない。

答えを知っている者を探す場だった。

そして少弐自身は、自分がその答えを知らないことを隠そうとしなかった。

「まず」

黒田が話を始めた。

「我らは織田軍と正面から力比べをいたしません」

赤井が頷いた。

「でしょうな」

「兵数で競えば向こうが上です」

少弐が尋ねた。

「ではどうする?」

黒田は地図を指した。

「進ませます」

一同が地図を見る。

「止めないのか」

岩蔵が尋ねる。

「最初からすべてを止めようとすれば、こちらの兵が薄くなります」

黒田の指が街道を動いた。

「信長殿は大軍を動かす。大軍には兵糧が要る。馬が要る。荷駄が要る。そして道が要る」

赤井が笑った。

「兵を斬るより、飯を斬るか」

「それも一つ」

黒田が答えた。

「ただし、それだけではございません」

地図の上にいくつかの石が置かれた。

「正規兵は要地を守る。虎衆と鷹衆は、その間を動く」

ここで少弐虎衆の役割が決められた。

虎衆の精鋭はエカシロとハウキ。

北方で鍛えられた者たちを中心に、山地、森林、夜間行動を担当する。

赤井甚兵衛は虎衆の予備を率いる。

必要な場所へ増援を送り、虎衆と鷹衆の間をつなぐ。

鷹衆は二隊。

指揮官は、赤井が山にいたころから付き従ってきた二人だった。

正規の軍学など知らない。

兵学館で陣形を習ったこともない。

だが山の中で追われた時、どこへ逃げれば生き残れるか。

どこに人を置けば相手が嫌がるか。

何人までなら焚火を隠せるか。

雨の翌日にどの道が使えなくなるか。

そういうことなら知っている。

黒田は彼らに無理に軍学を教え込もうとはしなかった。

「あなた方には、あなた方のやり方で戦っていただく」

鷹衆の一人が笑った。

「軍師殿にそう言われるとは思わなんだ」

「ただし」

黒田が続ける。

「勝手に死ぬことだけは禁止します」

笑いが起こった。

そして阿波辺岩蔵。

彼には正規の副将として、戦場の現場指揮が与えられた。

黒田が作戦を組む。

岩蔵が、それを人間の動きへ変える。

「難しいことを言われても困るぞ」

岩蔵が言った。

「難しいことは私が考えます」

黒田が答える。

「岩蔵殿には兵を動かしていただきたい」

「それならできる」

「兵が怖がったら?」

「俺が前に出る」

「退き始めたら?」

「俺が最後に残る」

「勝って浮かれたら?」

「殴って戻す」

少弐が言った。

「殴るのはほどほどに」

岩蔵が笑った。

「分かっている」

少弐は知っていた。

岩蔵の強さは剣だけではない。

人をその気にさせるのが上手い。

疲れている兵に声をかける。

怖がっている若者を笑わせる。

逃げたい者には、自分も怖いと言ってやる。

そして最後には、

「じゃあ、もう少しだけやるか」

と思わせる。

山賊の頭として身につけた、人をまとめる力だった。

軍議が進んだところで、黒田が少弐を見た。

「最後に少弐殿です」

「私?」

「はい」

「私は何をすればいい?」

赤井が笑った。

「本当に聞くのか」

「分からないから聞いている」

黒田は真顔だった。

「少弐殿には、動かないでいただきます」

「……動かない?」

「正確には、勝手に動かないでいただきたい」

また笑いが起きた。

「ひどくない?」

「重要な役目です」

黒田は地図の中央を指した。

「少弐殿は、この軍の旗です」

少弐は黙った。

「虎衆も鷹衆も正規兵も、出自が違います。戦い方も違う。彼らが一つの軍として動く理由は、少弐殿のもとへ集まったからです」

エカシロが頷いた。

ハウキも黙って聞いている。

「だから少弐殿がどこにいるのか分からなくなっては困る」

少弐は少し考えた。

そして窓の外を見る。

「なら、ちょうどいいのがいる」

甲板へ出た。

少弐が腕を上げる。

そこへ一羽の鷹が降りた。

ハビービ。

少弐の旅に同行してきた鷹だった。

赤井が見上げる。

「こいつを使うのか」

「うん」

「何に?」

「私の居場所を知らせる」

少弐はハビービの胸を軽く撫でた。

「決まった合図で飛ばす。戻る場所を私の本陣にする」

黒田が尋ねる。

「敵に見られても構いませぬか」

「構わない」

少弐は答えた。

「むしろ見せればいい」

岩蔵が笑った。

「ここに少弐冬明がいるぞ、と?」

「そう」

「狙われるぞ」

「それも分かっている」

少弐はハビービを見る。

「私は皆みたいに上手く戦えない」

そして軍議に集まった者たちを振り返った。

「でも、逃げていないことくらいは見せられる」

一瞬、誰も何も言わなかった。

最初に笑ったのは赤井だった。

「なら分かりやすい」

岩蔵も笑う。

「鷹が飛んでいれば、殿はまだ逃げていない」

エカシロが言った。

「鷹が戻る場所が、我らの帰る場所になる」

少弐は頷いた。

「そういうこと」

黒田だけは少し考えてから言った。

「では、本陣は頻繁には移しませぬ」

「うん」

「危険になれば私の判断で移します」

「分かった」

「その際は必ず従ってください」

「努力する」

「従ってください」

「……はい」

また笑いが起きた。

その夜。

兵庫津では灯が消えなかった。

蔵から兵糧が運び出される。

鉄砲が点検される。

馬の蹄が改められる。

船には矢、火薬、薬品が積み込まれる。

北方から来た虎衆。

丹波の山を知る鷹衆。

山賊を率いてきた阿波辺岩蔵。

赤井甚兵衛。

黒田孝高。

そして少弐冬明。

あまりにも出自の違う者たちが、一つの軍として集まり始めていた。

黒田は夜遅くまで地図を見ていた。

少弐が隣へ座る。

「勝てる?」

黒田はすぐには答えなかった。

「信長殿は強いです」

「知っている」

「兵も多い」

「うん」

「将も揃っております」

「それも知っている」

少弐は少し困った顔をした。

「安心することを言ってくれない?」

黒田が笑った。

「では一つ」

「何?」

「こちらには、織田殿にないものがございます」

「何だろう」

黒田は地図の上に置かれた、ばらばらの小石を見た。

虎衆。

鷹衆。

正規兵。

水軍。

山の者。

坂東の者。

丹波の者。

北方の者。

「普通なら、一緒には戦わない者たちです」

少弐も小石を見る。

「それ、長所なの?」

「少弐殿がまとめられるならば」

黒田は答えた。

「長所になります」

少弐はしばらく考えた。

やがて笑った。

「じゃあ、まとめるところまでは私がやる」

「その後は?」

「孝高に任せる」

「結局それですか」

二人は笑った。

翌朝。

兵庫津の空へ、一羽の鷹が上がった。

大きく旋回する。

その下で、少弐虎衆が動き始める。

鷹衆も山へ散っていく。

阿波辺岩蔵は正規兵の列を歩き、一人一人へ声をかけていた。

そして黒田孝高は地図を閉じた。

織田軍を正面から受け止めるつもりはない。

進ませる。

伸ばさせる。

分けさせる。

疲れさせる。

そのうえで――

噛みつく。

信長上洛戦。

その最初の軍議で、小田側の戦い方は決まった。

そして戦場の空にはこれから何度も、一羽の鷹が舞うことになる。

敵からも見えるほど高く。

味方には、それだけで意味が分かる。

少弐は、まだそこにいる。

それが、寄せ集めの軍勢を一つにつなぐ、最初の合図となったのであった。

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