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逃げる信長、追う公方

九月一日。


観音寺城から、二度目の檄文が飛んだ。


六月五日の最初の檄から、およそ三月。


義秋は待った。


佐野昌綱が折れるのを待った。


畿内の諸将が佐野から離れるのを待った。


小田氏治が幕府との関係を重んじ、佐野を切るのを待った。


そして何より――


織田信長が動くのを待った。


だが、何一つ義秋の思った通りにはならなかった。


佐野は健在。


畿内の諸将も一枚岩にはならない。


小田は佐野を見捨てない。


それどころか、小田は義秋との正面衝突を避けながら公家衆との関係を深め、ついには鷹司家との婚姻まで成立させてしまった。


五摂家の鷹司。


幕府を介さずとも、小田から朝廷へ直接話を届けられる太い道が生まれようとしていた。


小田側は言った。


幕府と争うためではない。


むしろ幕府と争わずに済むよう、話のできる道を増やしただけだ、と。


義秋には、到底そうは見えなかった。


「余を通さずともよいということではないか」


観音寺城で、その言葉を聞いた近臣たちは黙った。


「余が将軍ぞ」


義秋は続けた。


「その余が佐野を討てと命じた。それを助け、そのうえ余の頭越しに五摂家と縁を結ぶ」


誰も答えない。


義秋は机を叩いた。


「これのどこが、争うつもりがないというのだ!」


そして九月一日。


第二の檄が出た。


佐野昌綱を討て。


幕府の命に従わず、これを助ける者も許すな。


畿内の秩序を正せ。


諸将は兵を整え、将軍家の命に従え。


檄文は近江から山城へ。


丹波へ。


摂津へ。


河内、和泉へ。


さらに美濃、尾張へ飛んでいった。


当然、織田信長にも届いた。



---


だが――


肝心の信長は、観音寺城にはいなかった。


義秋が観音寺を拠点とするようになってから、信長は次第にそこへ長居しなくなっていた。


理由は簡単だった。


義秋が、うるさい。


朝から呼ばれる。


昼にも呼ばれる。


夜にも使者が来る。


あの国人を処分せよ。


あの寺社を従わせよ。


誰それに官途を与えよ。


誰それから領地を取り上げよ。


佐野を何とかせよ。


小田に言うことを聞かせよ。


今度は朝廷へ近づきすぎている。


信長にとって義秋は必要な存在だった。


将軍である。


粗略には扱えない。


だが――


近くにいると、とにかく疲れる。


だから信長は政務、軍備、領国巡察を理由に観音寺を離れた。


岐阜。


時には清洲。


また岐阜。


必要なら観音寺へ顔を出す。


だが用が済めば帰る。


義秋から見れば、それもまた腹立たしかった。


「信長はどこだ」


九月一日。


「岐阜にございます」


九月二日。


「織田殿より返書は?」


「いまだ出兵の返答は……」


九月三日。


「信長を呼べ」


「使者は出しております」


九月四日。


「まだ来ぬのか!」


「……はい」


義秋の堪忍袋は、とうとう限界に達した。



---


一方。


岐阜城。


信長は第二の檄を読んでいた。


読み終える。


畳む。


脇へ置く。


家臣が恐る恐る尋ねた。


「いかがなさいます」


「何がだ」


「公方様より、佐野討伐を――」


「読んだ」


「では」


「考える」


それで終わった。


信長は別の書状を取った。


佐野と戦えばどうなるか。


信長は分かっていた。


佐野だけを相手にするなら難しくない。


問題は、その後ろにいる者たちだった。


小田。


摂津。


丹波。


播磨。


河内。


和泉。


さらに海上勢力。


佐野を一人斬れば終わる話ではない。


小田は今や鷹司家とも縁を結んだ。


下手に攻めれば、幕府対逆臣という単純な構図では済まなくなる。


信長は面倒な戦を好んで始める男ではなかった。


勝つなら勝つ。


だが勝った後に何が残るのか。


そこまで考える。


「公方様から、再び使者にございます」


信長の眉が動いた。


「何人目だ」


家臣は答えなかった。


「……帰せ」


「よろしいので?」


「出兵については評定中と伝えろ」


「は」


使者が去る。


信長は小さく息を吐いた。


「観音寺にいなくて正解だったな」


家臣たちは聞こえなかったふりをした。



---


九月四日。


観音寺城。


義秋はついに言った。


「もうよい」


近臣が顔を上げた。


「公方様?」


「信長が来ぬなら、余が行く」


一瞬、意味を理解できる者がいなかった。


「……どちらへ?」


「岐阜だ」


「お待ちください!」


一斉に声が上がった。


「公方様自ら岐阜へ赴かれるなど!」


「ならば信長をここへ連れてこい!」


誰も答えられない。


「三月待った!」


義秋は立ち上がった。


「六月五日から三月だ!」


「しかし――」


「その間に小田は鷹司と結んだ!」


義秋は怒鳴った。


「余が待つほど、奴らは好き勝手に動く!」


近臣の一人が必死に諫める。


「せめて織田殿からの正式な返答を――」


「もう聞き飽きた!」


義秋は言った。


「評定中。検討中。軍備を確認中」


信長から返ってくる言葉は、そればかり。


「ならば余が直接聞く!」


こうして決まった。



---


九月五日。


早朝。


観音寺城の門が開いた。


先頭には、義秋。


その後ろには奉公衆と近臣。


大軍ではない。


佐野を討つための軍勢ですらない。


だが義秋は軍装していた。


「公方様」


なおも側近が声をかける。


「何だ」


「本当に岐阜まで?」


「行く」


「途中で織田殿から使者が参りましたら」


「ならばそこで話す」


「清洲へ移られていた場合は?」


義秋の顔が引きつった。


「……何?」


「織田殿は近頃、岐阜と清洲を行き来しておりますゆえ」


しばらく沈黙した。


義秋は言った。


「清洲なら清洲まで行く」


側近たちは顔を見合わせた。


本気だ。


「信長がどこへ逃げようと追う」


もはや誰も止められなかった。


こうして将軍義秋は――


信長を捕まえるために、自ら観音寺城を出た。



---


その知らせは、義秋本人より早く岐阜へ届いた。


「申し上げます!」


信長が顔を上げる。


「公方様、観音寺を発たれました!」


「どこへ行った」


使者が答える。


「こちらへ」


信長は黙った。


「……こちら?」


「岐阜にございます」


部屋が静まり返った。


信長はしばらく使者を見た。


「何をしに来る」


聞くまでもなかった。


「出兵を直に求めるためと」


信長は目を閉じた。


家臣たちは誰も口を開かない。


やがて信長が言った。


「本当に来たのか」


「は」


「軍勢は?」


「奉公衆、近臣を中心とした少勢にございます」


信長は額を押さえた。


「……だから観音寺を離れたというのに」


誰も笑わなかった。



---


義秋が岐阜へ到着した。


信長はさすがに将軍を門前払いにはできない。


正式に迎えた。


対面の場が設けられる。


義秋は座るなり言った。


「信長」


「は」


「兵を出せ」


挨拶も何もなかった。


信長は少し黙った。


「公方様」


「余は話をしに来たのではない」


「では?」


「そなたの返事を聞きに来た」


義秋が信長を睨む。


「出るのか。出ぬのか」


信長は答えた。


「佐野だけならば話は簡単でございます」


「ならば討て」


「佐野を討てば小田が動きます」


「動かせ」


「丹波も摂津も動く」


「構わぬ」


「播磨まで戦場になりますぞ」


「構わぬ」


「海も動きます」


義秋は一歩も引かなかった。


「だから何だ」


信長は義秋を見た。


以前とは違う。


これは説得できない。


義秋の中では、もはや佐野一人の問題ではなくなっている。


将軍としての自分の命令が通るのか。


幕府を飛び越えて小田が朝廷と結ぶことを許すのか。


その問題になっている。


「余は三月待った」


義秋が言った。


「六月五日に檄を出した」


信長は黙って聞いた。


「佐野は従わなかった」


「……」


「小田も従わなかった」


「……」


「そして鷹司と結んだ」


義秋の声が低くなる。


「その間、そなたは何をしていた」


信長の眉がわずかに動いた。


「岐阜へ行き」


義秋が続ける。


「清洲へ行き」


信長が少し目を逸らした。


「また岐阜へ戻る」


家臣たちは必死に表情を消していた。


「余から逃げていたのか」


「領国政務にございます」


「嘘を申せ」


即答だった。


信長もさすがに顔をしかめた。


「公方様」


「ならば余が出る」


義秋は立ち上がった。


信長が顔を上げる。


「どちらへ」


「佐野を討ちにだ」


「お待ちを」


「待たぬ」


「公方様の手勢では――」


「知っておる!」


義秋は怒鳴った。


「だからそなたのところへ来た!」


部屋が静まり返った。


義秋は信長を指した。


「余は出る」


そして言った。


「将軍が先陣する」


信長の表情が変わった。


「その後ろを織田がついてくるかどうか、天下に見せればよい」


これはまずかった。


将軍を奉じている織田が、義秋を少数の手勢だけで戦場へ送り出す。


そんなことになれば、信長自身の立場が危うい。


義秋を利用するだけ利用し、その命令には従わない。


そう見られる。


信長は長く息を吐いた。


「……公方様」


「何だ」


「座ってくだされ」


「返事が先だ」


信長はしばらく義秋を見ていた。


そして――


折れた。


「分かりました」


義秋の目が動いた。


「何がだ」


「兵を出します」


沈黙。


義秋がゆっくり座った。


「真か」


「公方様がそこまでなされるならば」


信長は苦々しく続けた。


「もはや出さぬわけには参りませぬ」


義秋の顔に、ようやく満足げな色が浮かんだ。


だが信長は念を押した。


「ただし」


「何だ」


「始めれば、簡単には止まりませぬぞ」


「構わぬ」


「佐野だけでは済まぬ」


「構わぬ」


「小田とも戦うことになる」


「構わぬ」


信長はもう何も言わなかった。


家臣へ振り向いた。


「触れを出せ」


その一言で――


戦が始まった。



---


尾張。


美濃。


伊勢。


近江。


織田領内を早馬が走った。


兵を集めよ。


兵糧を整えよ。


武具を改めよ。


街道を押さえよ。


諸将へ出陣の支度を命じる。


九月一日の檄文は、九月五日になって本当に軍勢を動かした。


だがそれは檄文の力だけではなかった。


義秋本人が信長を追いかけて岐阜まで来たからだった。



---


その知らせを聞いた明智光秀は、しばらく何も言わなかった。


ほんの少し前。


鷹司家との婚姻成立を祝うため、佐野と少弐を訪ねたばかりだった。


あの席で光秀は言った。


次の檄は、兵を動かすものになる。


だが――


「まさか岐阜まで追われるとは」


光秀は額に手を当てた。


信長が観音寺を避けていることは知っていた。


義秋がそれを不満に思っていることも知っていた。


だが将軍本人が追いかけるとは思わなかった。


「これは……もう止まりませぬな」



---


九月六日。


佐野のもとへ早馬が駆け込んだ。


「申し上げます!」


佐野が振り向く。


少弐冬明。


黒田孝高。


諸将も集まっていた。


「公方様、昨日観音寺城を発たれ――」


少弐が顔を上げる。


「どこへ?」


「岐阜にございます!」


佐野が眉をひそめた。


「岐阜?」


「織田殿へ直談判なされました!」


少弐と佐野が顔を見合わせる。


黒田が尋ねた。


「それで信長殿は?」


使者が息を整えた。


「折れました」


沈黙。


「織田信長、出兵を決断!」


少弐が目を閉じた。


「……本当に動かしたのか」


佐野はすぐ立ち上がった。


「絵図を」


畿内の絵図が広げられる。


佐野が言った。


「ここからは檄文ではない」


黒田が続ける。


「軍勢の話ですな」


少弐は絵図を見た。


岐阜。


近江。


山城。


丹波。


摂津。


播磨。


兵庫津。


線を結んでいく。


そして静かに言った。


「私は、名将ではありません」


佐野が少弐を見る。


「知っている」


「ひどいな」


「自分で言ったんだろう」


少弐は少し笑った。


だがすぐ真顔になった。


「だから、上手い人に任せます」


黒田を見る。


「孝高。総指揮を」


黒田は頭を下げた。


「承知」


「赤井甚兵衛には虎衆と鷹衆を」


「は」


「エカシロとハウキは虎衆精鋭。鷹衆は甚兵衛の者たちに任せる。正規兵は西にも残す」


黒田が頷く。


「宇喜多を忘れてはなりませぬ」


「もちろん」


少弐は言った。


「宇喜多を見張る正規兵は動かさない」


佐野が尋ねた。


「お前自身はどうする」


少弐は少し考えた。


「前には出ます」


「指揮は?」


「しません」


即答だった。


「黒田に任せます」


佐野が笑った。


「潔いな」


「苦手なことを私がやって負けるよりいいでしょう」


「それでいい」


少弐は続けた。


「ハビービも連れていきます」


黒田が顔を上げた。


「鷹を?」


「味方に私の場所を知らせます」


「敵にも分かりますぞ」


「構いません」


少弐は絵図から顔を上げた。


「私は軍を動かせなくても、そこにいることはできます」


佐野は何も言わなかった。


少弐は続ける。


「私が逃げていないと分かれば、それでいい」


黒田が小さく頷いた。


佐野も笑った。


「なら、お前はそれをやれ」


「はい」


六月五日。


最初の檄。


九月一日。


第二の檄。


そして九月五日。


待つことのできなくなった義秋は、観音寺城を飛び出した。


信長が観音寺へ来ないなら、自分から岐阜まで追いかける。


そして将軍本人から、


「余が先に戦うぞ」


と迫られた信長は、とうとう根負けした。


後世、この戦の始まりについて様々な理由が語られることになる。


幕府と佐野の対立。


小田の台頭。


鷹司家との婚姻。


畿内の勢力争い。


信長の野心。


だが、その場にいた者たちの記憶は、もう少し単純だったという。


信長は逃げた。


義秋は追いかけた。


そして――


とうとう捕まった。


こうして、冬まで畿内を揺らすことになる信長上洛戦は、あまりにも義秋らしく、そして信長にとってはあまりにも不本意な形で幕を開けたのであった。

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