祝いに来た明智
鷹司家との婚姻が、ついにまとまった。
長い交渉だった。
始まりは、義秋が佐野昌綱を一方的に逆臣として扱ったことへの違和感にすぎなかった。
幕府と争いたいわけではない。
ならば幕府との道を残したまま、もう一本、話のできる道を作ればいい。
少弐冬明が口にした素朴な発想は、佐野を介した京での折衝となり、やがて小田氏治の正式な方針となった。
そして、その細い道はとうとう婚姻という形になった。
鷹司家の姫と、小田氏治・黄梅院の男子。
婚礼そのものはまだ先でも、両家が縁組を正式に認めた意味は大きかった。
少弐は一連の仕事を終えると、心底疲れた顔をしていた。
「戦より疲れました」
佐野が呆れる。
「お前はほとんど黒田に任せていただろう」
「私も働きましたよ」
「何をした」
「贈り物を選んだ」
「最初だけではないか」
「何度も挨拶に行きました」
「葡萄酒を飲みに行ったんだろう」
「違います」
少弐は否定したが、少し間を置いて、
「それだけではありません」
と言い直した。
佐野は笑った。
久しぶりに、二人とも戦以外のことで笑っていた。
そこへ家臣がやってきた。
「佐野様」
「何だ」
「客人にございます」
「誰だ」
家臣は少し妙な顔をした。
「明智日向守様」
佐野の笑みが消えた。
少弐も顔を上げる。
「光秀殿?」
「はい」
佐野と少弐は顔を見合わせた。
今の京で、明智光秀がわざわざ佐野のもとへ来る。
しかもこの時期である。
何の用か、警戒しない方がおかしい。
佐野が尋ねた。
「兵は?」
「ごく少数の供のみ」
少弐が言った。
「では会いましょう」
「お前が決めるな」
「会わないんですか」
「会う」
明智光秀は、祝いの品を持って現れた。
それを見た佐野は、かえって警戒した。
「これは?」
「祝いにございます」
光秀は穏やかに答えた。
「小田殿と鷹司家との縁組がまとまったと聞きましてな」
少弐が驚いた。
「もうご存じでしたか」
光秀が笑う。
「京で隠せる話ではございませぬ」
「確かに」
少弐は納得した。
佐野は納得しなかった。
「わざわざ祝いに?」
「それでは不足でしょうか」
「日向守殿が動けば、何かあると思う」
「これは手厳しい」
光秀は笑った。
だが否定もしなかった。
三人は席についた。
祝いの品が置かれる。
しばらくは婚姻そのものについて話した。
「よくまとめられましたな」
光秀が言う。
少弐は首を振った。
「氏治公と佐野殿と黒田のおかげです」
「そなたも随分動いたと聞いておりますぞ」
「贈り物を選びました」
佐野が横から言った。
「こいつはそればかり言う」
光秀が笑った。
「それも大事な役目です」
「ほら」
少弐が佐野を見る。
「日向守殿まで甘やかさないでくれ」
少し場が和んだ。
しかし、光秀はやがて静かに言った。
「ただ――」
佐野が見る。
「今回の婚姻を、喜ばぬ方もおります」
誰のことか。
聞く必要はなかった。
少弐が小さく息を吐く。
「義秋公ですか」
光秀は答えなかった。
それが答えだった。
義秋にとって、小田と鷹司の婚姻は単なる縁談ではなかった。
佐野を逆臣として孤立させようとした。
ところが小田は佐野を切らなかった。
かといって幕府へ露骨に反抗もしなかった。
その代わり、公家との関係を深めた。
しかも相手は鷹司。
五摂家である。
幕府から見れば、
自分たちの頭越しに小田が朝廷へ道を作った
ように見える。
「我らにその意図はありません」
少弐が言った。
「分かっております」
光秀は答えた。
「私が分かっていても、意味はございませぬ」
佐野が腕を組んだ。
「将軍は怒っているか」
光秀は少し考えた。
「怒っている、という言葉では足りませぬな」
少弐が困った顔をした。
「そんなに?」
「そんなに、です」
「なぜでしょう」
佐野が少弐を見る。
「お前、本気で言っているのか」
「幕府を倒すつもりはないと何度も伝えたでしょう」
光秀が静かに言った。
「少弐殿。問題は、そなたらが何をするつもりかだけではございません」
「では?」
「何ができるようになったか、です」
少弐は黙った。
「これまで小田が朝廷へ何かを訴えるには、京の寺社や幕府、公家との個々の縁を頼る必要があった」
光秀は続けた。
「しかし鷹司家と縁戚になれば違う」
佐野が言った。
「幕府を通さなくてもいい」
「左様」
光秀は頷いた。
「それを義秋公がどう見るか」
少弐はようやく理解した。
自分たちは、幕府と争わないために道を増やした。
義秋から見れば、
幕府を無視しても困らない仕組みを小田が作った。
同じ出来事が、まるで逆に見えていた。
「困ったな」
少弐が呟いた。
佐野が言った。
「今さらか」
光秀は茶を一口飲んだ。
「もう一つ」
二人が見る。
「織田殿の周囲が騒がしくなっております」
今度は佐野の表情が完全に変わった。
「信長が?」
「まだ挙兵したわけではございませぬ」
光秀はそこを強調した。
「ですが義秋公より、再び諸国へ働きかけがあるでしょう」
少弐が尋ねる。
「また檄を?」
「おそらく」
「今度も佐野殿を討てと?」
光秀は佐野を見た。
「今度は、それだけでは済まぬかもしれませぬ」
沈黙した。
佐野だけではない。
佐野を庇う小田。
幕府の意向に従わず、鷹司家と婚姻まで結んだ小田。
そして小田と結ぶ畿内諸勢力。
義秋が敵と認識する範囲が広がっている。
少弐はゆっくり尋ねた。
「信長殿は動きますか」
「檄の内容次第でしょう」
「日向守殿は?」
その問いに、光秀はすぐには答えなかった。
少弐も佐野も待った。
やがて光秀は微笑した。
「今日は祝いに参ったのです」
佐野が鼻で笑った。
「逃げたな」
「そういう日もございます」
帰り際。
光秀は佐野へ向き直った。
「佐野殿」
「何だ」
「次の檄は、前とは違いますぞ」
佐野は黙って聞いた。
「前回は、言葉で孤立させるためのものでした」
「今度は?」
光秀は答えた。
「兵を動かすためのものになるでしょう」
少弐の表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
光秀は次に少弐を見る。
「少弐殿も兵庫津へ戻る準備をなされた方がよろしい」
「……分かりました」
「婚姻をまとめたばかりだというのに、難儀なことですな」
少弐は苦笑した。
「戦わないためにやったのに」
光秀が少しだけ笑った。
「世とは、そう簡単には参りませぬ」
そして去っていった。
その背中が見えなくなってから、佐野が言った。
「冬明」
「はい」
「兵庫津へ戻れ」
少弐は佐野を見る。
「佐野殿は?」
「俺は京に残る」
「なら私も――」
「駄目だ」
佐野は遮った。
「次の檄が出たら、兵庫津が最初に騒ぐ」
播磨。
摂津。
瀬戸内。
西国へつながる大港。
少弐の役目はそこだった。
「分かりました」
少弐は渋々頷いた。
そして少し考えてから言った。
「佐野殿」
「何だ」
「今度こそ、本当に戦になりますか」
佐野は答えなかった。
空を見上げた。
京の空は穏やかだった。
婚姻は成立した。
鷹司との道もできた。
義秋とも、まだ完全に縁が切れたわけではない。
だから少弐はどこかで、
まだ話せるのではないかと思っていた。
だが――
それから、さほど日は経たなかった。
京から諸国へ、再び義秋の檄が飛んだ。
前回より激しい言葉だった。
佐野を討て。
小田の横暴を許すな。
幕府の秩序を守れ。
そしてその檄は、今度こそ一人の男を動かした。
尾張。
岐阜。
織田信長。
前回までとは違った。
威嚇でもない。
兵を集めるふりでもない。
命令が次々と諸将へ下され、兵糧が集められ、街道が押さえられていく。
明智光秀が祝いに訪れた日の言葉は、間もなく現実となった。
今度の檄は、兵を動かす。
婚姻という大仕事を終え、ようやく一息ついたばかりの佐野と少弐の前で――
後に長く語られることになる信長上洛戦が、ついに本当の戦として動き始めようとしていた。




