四人の子と、京から来た縁
鷹司家との婚姻話が、まだ「誰と誰を結ぶのか」という段階にあったころ。
坂東へ戻った書状を前に、小田氏治は久しぶりに戦とはまったく違うことで頭を悩ませていた。
机の上には、小田一門の系図が広げられている。
そこには氏治自身から伸びる、四本の線があった。
正室・早川殿との間に生まれた二人の娘。
側室・黄梅院との間に生まれた二人の息子。
そして、その四人のほかに――系図には残るが、今ここにはいない一人の子がいた。
早川殿が産んだ男児。
生まれることなく、母の腕に抱かれることもなく亡くなった子である。
氏治は、その小さな印をしばらく見ていた。
「……こうして並べると、いろいろあったものだな」
傍らにいた早川殿が、静かに答えた。
「ございましたね」
もう昔のことである。
だが忘れるものでもない。
最初に娘が生まれた。
続いて、もう一人の娘。
二人とも健やかに育った。
その後に身籠ったのが男児だった。
小田家中は沸いた。
嫡男になる。
そう期待された。
だが、その子は産声を上げなかった。
氏治はあの日、早川殿の前では泣かなかった。
早川殿も氏治の前ではほとんど泣かなかった。
互いに相手が悲しんでいるのを知っていたからこそ、余計にそうなった。
その後、早川殿が再び子を授かることはなかった。
だからといって氏治が二人の娘を軽んじたこともない。
むしろ上の娘には書を、下の娘には馬を教えようとして、早川殿から、
「どうして姫にあなたと同じことばかり覚えさせるのです」
と呆れられたことさえあった。
氏治は系図にある二人の娘の名を指でなぞった。
「この二人にも、いずれ縁談が来る」
「もう来ております」
「……来ているな」
早川殿が少し笑った。
「お忘れでしたか」
「忘れてはいない。考えないようにしていた」
「なぜです」
「嫁に出す話は面白くない」
「父親というものは、勝手なものですね」
氏治は反論しなかった。
その通りだった。
そして、その横には黄梅院の名がある。
そこから二本の線が伸びていた。
二人とも男子だった。
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黄梅院が最初の男児を産んだ時、小田家にとっては待望の男子であった。
だが、その喜びは少し複雑でもあった。
黄梅院は武田晴信の娘である。
武田家が滅び、その旧臣たちが小田の中へ入った後も、
武田という家そのものを完全に消してしまうのか
という問題は残り続けていた。
馬場。
内藤。
跡部。
そして武田旧臣たち。
彼らの中には小田家臣として生きることを受け入れながら、それでも武田の名を惜しむ者が少なくなかった。
そこで以前から話し合われていた。
黄梅院に男子が複数生まれたならば、その一人に武田を継がせる。
氏治もそれを認めていた。
そして黄梅院も望んだ。
だから二人の男子のうち一人については、すでに将来が決められていた。
武田家を継ぐ。
領国を取り戻して再び甲斐の大名になる、という意味ではない。
小田の秩序の中で武田の祭祀と家名を受け継ぎ、旧臣たちの拠り所となる。
そのための武田である。
そして――
もう一人。
佐野昌綱が千陽との婚姻を迎える少し前。
黄梅院は、もう一人の男児を産んでいた。
この子こそが、今回の鷹司家との婚姻話で重要になる。
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「こちらだろうな」
氏治がその名の上に指を置いた。
早川殿は何も言わなかった。
氏治が尋ねる。
「どう思う」
「私にお尋ねになるのですか」
「だから聞いている」
早川殿は系図を見る。
自分には娘が二人いる。
男児も一人授かった。
だが、その子は生まれることができなかった。
そして黄梅院には二人の男子がいる。
戦国の大名家ならば、ここに険悪なものが生まれても不思議ではなかった。
誰の子を嫡男にするのか。
誰の血が家を継ぐのか。
正室の立場はどうなる。
側室の子をどう扱う。
だが早川殿は、長い沈黙の後に言った。
「よいのではありませんか」
氏治が見る。
「本当に?」
「何を心配しているのです」
「いや……」
「私が黄梅院の子だから嫌だと言うとでも?」
氏治は答えなかった。
図星だった。
早川殿は小さく息を吐いた。
「あなたは妙なところで臆病ですね」
「悪かったな」
「私には娘が二人おります」
早川殿は自分の娘たちを指した。
「この子たちは小田の姫です」
そして黄梅院の息子たちを指す。
「こちらも小田の子でしょう」
氏治は黙って聞いた。
「ならば、それでよいではありませんか」
それでも早川殿の指が一度だけ、死産した男児の印の上で止まった。
ほんの一瞬だった。
氏治は何も言わなかった。
早川殿も何も言わなかった。
それで十分だった。
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その夜。
今度は黄梅院も交えて話が行われた。
黄梅院は話を聞き終えると、驚いた顔をした。
「鷹司家の姫を?」
「まだ決まったわけではない」
氏治が言った。
「向こうも候補を出す。こちらも候補を出す。その段階だ」
黄梅院は自分の息子を見る。
まだ政治など分からない年齢だった。
「もう一人は武田ですね」
「ああ」
それについては以前から話している。
黄梅院は少し複雑そうに笑った。
「私の子なのに、一人は武田へ戻り、一人は京から姫を迎えるのですね」
氏治が言った。
「嫌か」
「いいえ」
黄梅院は首を振った。
「不思議なだけです」
自分は武田から小田へ来た。
かつては武田と小田を結ぶための婚姻だった。
そして今、その息子の一人が武田を継ぎ、もう一人が小田に残って鷹司家と結ばれようとしている。
「私がここへ来た時には、こんなことになるとは思ってもいませんでした」
氏治も笑った。
「俺もだ」
「あなたは天下を取る気がないのに」
「ないな」
「どうして天下中から縁ばかり集まってくるのでしょう」
「知らん」
早川殿が横から言った。
「あなたが断らないからでしょう」
氏治は黙った。
黄梅院が笑った。
久しぶりに、政治の話をしながら三人が笑った。
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翌日。
氏治は正式な返書を書かせた。
鷹司家との婚姻候補として、
黄梅院の産んだ二人の男子のうち、小田家に残る方の男子
を挙げる。
もう一人は武田家を継承することが既定であることも、隠さず伝える。
さらに小田家の事情についても説明した。
正室・早川殿との間には二人の娘がいること。
男子も授かったが死産であったこと。
黄梅院との間には男子が二人いること。
そのうち一人は武田を継ぎ、もう一人を小田の次代を担う男子として育てていること。
鷹司家ほどの相手だからこそ、家中事情を曖昧にしてはいけない。
氏治はそう判断した。
そして最後に、
「正室早川も、この縁を望んでいる」
と付け加えさせた。
これは重要だった。
鷹司家から見れば、側室腹の男子を婚姻相手として提示されることになる。
しかし小田家内部で継承争いがあるわけではない。
正室自身が認めている。
そして武田を継ぐ兄弟との役割分担も決まっている。
小田側は、それを最初から明らかにした。
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書状が京へ届いた。
少弐冬明は黒田孝高、佐野昌綱とともに内容を確認した。
読み終えた少弐が言った。
「これなら分かりやすいですね」
佐野が系図を見る。
「早川殿には姫が二人。男児は亡くなった」
「はい」
「黄梅院には男子が二人」
「はい」
「一人は武田」
黒田が頷く。
「そして、もう一人が小田に残る」
少弐はその名を見た。
「この子に鷹司家の姫を」
「候補として、です」
黒田が念を押した。
「まだ決まっておりません」
「分かっていますよ」
佐野が少弐を見る。
「お前はすぐ決まったように喋るからな」
「でも、これが一番自然でしょう」
今度は黒田も否定しなかった。
確かに自然だった。
氏治本人が鷹司家と婚姻すれば、正室である早川殿と北条との関係を複雑にする。
娘婿を通じた関係では、小田嫡流と鷹司との結びつきとしては一段遠い。
だが小田に残る男子なら違う。
いずれ小田を担う。
その妻として鷹司家の姫を迎える。
次代の小田そのものを、坂東と京の間に置くことができる。
少弐は系図を眺めた。
北条の早川殿。
武田の黄梅院。
その子の一人が武田を継ぐ。
もう一人が小田を継ぎ、鷹司家と結ばれる。
「なんだか……」
少弐が呟いた。
「何だ」
佐野が尋ねる。
「氏治公の家だけ見ても、戦をしない方が天下がつながっていきますね」
佐野は一瞬黙った。
黒田も系図を見る。
確かにそうだった。
北条。
武田。
小田。
そして鷹司。
本来ならば戦や政治によって対立するはずだった家々が、一枚の系図の中でつながろうとしている。
佐野が小さく笑った。
「氏治らしいと言えば、氏治らしいな」
少弐も頷いた。
「天下を取らないのに」
「まだ言うか」
「だって、本当にそうでしょう」
少弐は系図を畳んだ。
「なら、鷹司家へ持っていきましょう」
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その日の午後。
小田家から鷹司家へ、正式な家族関係と婚姻候補が伝えられた。
鷹司家側もすぐには答えなかった。
当然だった。
これは単なる縁談ではない。
将来の小田当主となる可能性の高い男子と、五摂家の姫との婚姻である。
だが、小田側が家中事情を隠さず伝えたことは好意的に受け止められた。
とりわけ――
正室である早川殿が、この婚姻を認めている。
その一文は重かった。
家の中が割れていない。
それは、どれほど高い家格や広い領地より、婚姻相手として大切なことだった。
こうして鷹司家もまた、具体的な姫の選定へ入る。
義秋の檄から始まった、小さな違和感。
佐野一人を悪者にしてよいのか。
その疑問から生まれた一本の道は、とうとう次の世代へ届こうとしていた。
そして小田家の系図には、まだ墨の入っていない空白が一つ残されていた。
黄梅院の次男から伸びる、一本の線。
その先に、やがて一人の姫の名が記されることになる。
鷹司家の姫。
坂東と京を結ぶ婚姻は、ようやく「家」ではなく――
一組の男女の縁として、具体的に動き始めたのであった。




