誰を結ぶか
鷹司家との婚姻について、正式に話を進める。
その知らせが坂東へ届いた日の夕刻、小田氏治の前には、一枚の系図が広げられていた。
戦の絵図ではない。
城も街道も川も描かれていない。
代わりに、人の名と、人から人へ伸びる細い線が並んでいる。
氏治は腕を組んで、それを眺めていた。
「……戦の絵図より難しいな」
側近が苦笑した。
「間違えれば、戦より長く残りますので」
「そういうことを言うな」
氏治はため息をついた。
今回の婚姻は、普通の政略結婚とは少し意味が違う。
土地が欲しいわけではない。
援軍を求めるわけでもない。
鷹司家の名を借りて、義秋を威圧するためでもない。
小田が求めているのは、もっと曖昧なものだった。
幕府との話が行き詰まった時。
武家同士では収拾がつかなくなった時。
その間に、もう一つ話のできる場所を作っておく。
そのための縁だった。
だからこそ、氏治本人の婚姻にしてしまうのは違う。
氏治にはすでに早川殿がいる。
北条との縁も、小田にとって極めて重要だった。
それを崩してまで新しい縁を作れば、
「小田は北条から朝廷へ乗り換えた」
という余計な意味を持つ。
氏治は系図の自分の名を指で押さえた。
「俺ではないな」
「はい」
「子の代か」
「それがもっとも自然かと」
氏治は黙った。
小田と鷹司の関係を一代限りで終わらせない。
そう考えるなら、むしろ次代を結んだ方がよい。
「だが」
氏治が言った。
「こちらの都合だけで決めるな」
「もちろんにございます」
「年もある。本人の性格もある。京で暮らせるのか、坂東へ来られるのか。それも考えろ」
側近が少し意外そうな顔をした。
氏治はそれに気づく。
「何だ」
「いえ。政略婚姻としては、ずいぶん細かなところまでお気になさると」
氏治は眉をひそめた。
「人が結婚するのだぞ」
「はい」
「家紋と家紋が夫婦になるわけではない」
それで話は決まった。
急がない。
まず候補を出す。
そして相手側の事情も聞く。
その上で決める。
氏治は筆を取った。
京へ送る返書の最後に、自ら一文を書き加えた。
――縁組は家のためなれど、結ばれるは人なれば、双方無理なき縁を望む。
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その返書を読んだ少弐冬明は、何度も頷いた。
「これがいい」
隣にいた黒田孝高が尋ねる。
「どこがです?」
「ここ」
少弐は最後の一文を指した。
「人が結婚するんだから、本人同士が嫌なのは駄目でしょう」
佐野昌綱が向かいで茶を飲んでいた。
「お前が言うと、政略結婚の話に聞こえなくなるな」
「政略結婚でも結婚でしょう」
「それはそうだが」
少弐は書状を畳んだ。
「で、誰にするんです?」
黒田が答えた。
「それをこれから決めます」
「まだ決まっていない?」
「ですから前回からそう申しております」
「長いな」
「婚姻ですぞ」
佐野が笑った。
「お前は港で荷を買うのとは違うんだ」
「分かっていますよ」
「本当か?」
「たぶん」
黒田が咳払いした。
「少弐殿には別にお願いがございます」
「何です?」
「鷹司家側の意向を探っていただきたい」
少弐は目を丸くした。
「私が?」
「はい」
「そういうのは黒田の仕事では?」
「私が聞けば交渉になります」
「私が聞いても交渉でしょう」
「少弐殿なら雑談になります」
佐野が吹き出した。
少弐は不満そうに黒田を見る。
「褒めています?」
「大いに」
「本当に?」
「少弐殿は相手の懐へ入って話すのが上手い。しかし、策を弄しているようには見えない」
「策を弄していませんからね」
「そこが強みなのです」
少弐はまだ納得していなかった。
だが結局、引き受けた。
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数日後。
少弐は再び鷹司家を訪ねた。
今回は佐野も黒田もいない。
護衛を連れているだけだった。
何度か訪れているので、以前ほど緊張もしない。
茶が出される。
季節の話をする。
坂東の話。
兵庫津の話。
北方から届いた品の話。
そして話が途切れたところで、少弐は何気なく尋ねた。
「ところで」
「何かな」
「婚姻の話ですけど」
あまりにも直接的だった。
鷹司家の者が一瞬黙った。
少弐は続ける。
「こちらは氏治公の子の代がよいのではないか、と考えています」
「ほう」
「氏治公自身だと、いろいろややこしいので」
これもまた直接的だった。
だが意味は伝わった。
北条との婚姻関係を壊したくない。
小田が鷹司へ急速に傾斜したようにも見せたくない。
ならば次代。
鷹司家側も、それには異論がなかった。
「ただ」
少弐が言った。
「氏治公が、本人たちに無理のないようにしたいと」
「政略の縁であろう?」
「はい」
「それでもか」
「政略だからこそ、でしょう」
少弐は答えた。
「嫌い合っていたら、長い縁にならない」
その言葉に、相手は少し考え込んだ。
少弐は茶を一口飲んだ。
「それと、どちらで暮らすかもあります」
「坂東へ迎えたいのではないのか」
「それも決めつけない方がいいと思います」
「ほう」
「京に残る形でもいいし、坂東へ来てもらってもいい。行き来してもいい」
鷹司家の者が笑った。
「ずいぶん自由な婚姻だ」
「道を増やすための縁ですから」
少弐は笑った。
「結婚した途端に道を一本にするのも変でしょう」
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その言葉は、思いのほか鷹司家側に響いた。
小田は姫を欲しがっているのではない。
五摂家の血統を欲しがっているだけでもない。
少なくとも、そう見せようとはしていなかった。
そこで鷹司側からも、一つ条件が出された。
婚姻後も京との往来を絶たないこと。
坂東へ下った場合でも、鷹司家との文の往来を自由にすること。
子が生まれれば、その子にも京の文化と学問へ触れる機会を持たせること。
少弐は聞き終えると頷いた。
「いいと思います」
「そなたが決めてよいのか」
「駄目です」
即答だった。
相手が笑った。
少弐も笑う。
「氏治公へ持ち帰ります。でも、たぶん喜ぶと思います」
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帰ると、黒田が待っていた。
「いかがでした?」
「だいたいうまくいきました」
「だいたい?」
少弐は聞いたことを説明した。
黒田は黙って聞く。
佐野も途中から加わった。
「なるほどな」
佐野が言った。
「向こうもただ姫を坂東へ出すだけでは嫌か」
「当然でしょう」
黒田が頷く。
「むしろ好都合です」
少弐が見る。
「なぜ?」
「我らの目的は、鷹司家との道を作ることです。婚姻した姫が坂東へ入り、京との関係が薄くなっては意味がない」
「そうか」
「京と坂東の両方に居場所を持つ。その方がよろしい」
佐野が腕を組んだ。
「となると、相手になる小田の若者にも、それなりの器量がいるぞ」
少弐も頷いた。
「京を嫌う人では困りますね」
「公家を馬鹿にするような奴も駄目だ」
「海が嫌いでも困ります」
佐野が少弐を見る。
「それは関係ない」
「坂東と京を行き来するなら船を使うでしょう」
「そういう意味か」
三人は系図を囲んだ。
今度は笑い話ではない。
年齢。
立場。
家中での位置。
性格。
将来どういう役割を担わせるのか。
一つずつ考えていく。
そして黒田が、一人の名の上に指を置いた。
「この方なら」
少弐と佐野が覗き込む。
少弐が少し驚いた。
「この人?」
「年回りも悪くありません」
佐野も考える。
「家中での立場もいいな」
「何より」
黒田が続けた。
「次代の小田と朝廷を結ぶ人物として育てられる」
少弐はその名前をしばらく見ていた。
そして言った。
「本人にも聞きましょう」
佐野が苦笑した。
「まだ言うか」
「氏治公もそう書いていたでしょう」
「分かった、分かった」
だが黒田は笑わなかった。
「少弐殿の言う通りです」
佐野が見る。
「この婚姻は長く続かなければ意味がない。本人が納得していない縁を無理に結べば、いずれ政治にも影響します」
「なら、まず坂東へ戻すか」
「はい」
こうして候補は一人に絞られた。
まだ鷹司家には伝えない。
まず本人に話す。
そして氏治が最終的に判断する。
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その夜。
少弐は宿で一人、鷹司家から出された条件を書き写していた。
京との往来。
文の自由。
子への教育。
坂東との交流。
書いているうちに、少弐は少し笑った。
最初は佐野を助けたかっただけだった。
義秋の檄を読んで、
これはおかしいと思った。
それだけだった。
それがいつの間にか、
公家との交流になり、
鷹司家との縁になり、
今では次代の子供たちの教育まで話している。
「大きくなったな……」
少弐は呟いた。
だが、嫌ではなかった。
戦ならば、勝った者と負けた者が出る。
領地を取れば、誰かが失う。
城を落とせば、誰かがそこを追われる。
しかしこれは違う。
一つの縁を作ることで、
京と坂東の間に道が増える。
少弐には、こちらの方がずっと性に合っていた。
翌朝。
坂東へ向けて早馬が出た。
その書状には、婚姻相手として初めて具体的な一人の名が記されていた。
そして最後に、少弐の筆で小さく付け加えられていた。
――まず、ご本人にお尋ねください。
政治のために始まった婚姻交渉。
だが小田は最後のところで、人を見ようとした。
その姿勢を鷹司家もまた、静かに見ていた。
やがてこの一件は、単なる武家と公家の縁組ではなくなる。
京と坂東の双方に居場所を持つ、新しい小田一門。
その最初の一人が、まもなく選ばれようとしていた。




