都へ架ける橋
畿内会議から数日が過ぎても、京の空気は少しも軽くならなかった。
義秋の檄はなお各地を巡り、佐野昌綱を逆臣とする言葉だけが、事実よりも早く街道を走っていた。
兵庫津へ戻る前、少弐冬明は佐野の館にもう一度顔を出していた。
庭先では家臣たちが慌ただしく行き交っている。
だが、佐野本人は縁側に座り、妙にのんびり茶を飲んでいた。
「暇そうですね」
少弐が言うと、佐野は睨んだ。
「どこを見てそう思った」
「茶を飲んでいるので」
「お前も飲め」
少弐は素直に隣へ座った。
しばらく二人で庭を眺めた。
やがて佐野が言った。
「本当にやるらしいぞ」
「何をです?」
「公家との付き合いだ」
少弐は茶碗を置いた。
「氏治公から返事が?」
「俺にも来た」
佐野は懐から書状を出した。
そこには、小田家として京の公家衆との交流を深めること、佐野にもその仲介を頼みたいことが記されていた。
少弐は読み終えると、嬉しそうに笑った。
「よかった」
「何がよかっただ」
「氏治公が賛成してくれた」
「お前は言い出しただけだから気楽でいい」
「佐野殿も京に詳しいでしょう」
「剣を振る場所ならな」
「公家の屋敷で振らないでくださいよ」
「振るか」
そんな話をしているところへ、黒田孝高がやってきた。
黒田は二人を見るなり、
「ちょうどよろしい」
と言った。
「何がです?」
少弐が聞く。
「氏治公より、こちらにも正式な指示が届きました」
黒田は一通の書状を取り出した。
少弐が受け取る。
そこには、まず五摂家を含む公家衆との交流を探ること、ただし幕府への対抗姿勢と受け取られないよう慎重に進めることが記されていた。
そして最後に一つの家名があった。
鷹司。
少弐はそこを二度読んだ。
「鷹司家?」
「五摂家の一つです」
「それくらいは知っています」
「失礼」
「でも、なぜ鷹司なんです?」
黒田は少弐の隣へ座った。
「いきなり婚姻などという話ではございません」
「当たり前でしょう」
佐野が横から言った。
「お前なら初対面で言いそうだから怖い」
「言いませんよ」
「本当か」
「たぶん」
「やめろ」
黒田は咳払いした。
「まずは交流です。献上、文、文化的な往来。それから寺社を通した縁も使います」
少弐は頷いた。
「贈り物なら得意です」
「そこは期待しております」
「何がいいでしょう」
「高価であればよいというものではありません」
「では珍しいもの」
黒田が少し考えた。
「それは少弐殿の方がお詳しいでしょう」
少弐の顔が明るくなった。
「北方の品でもいい?」
佐野が嫌そうな顔をした。
「熊の皮とか持っていくなよ」
「もっといいものがあります」
「何だ」
「ガラスとか」
「それならまだいい」
「南蛮の葡萄酒も」
「公家を酔わせるつもりか」
「酒は大事ですよ」
少弐は真面目だった。
黒田は額に手を当てた。
「贈答品はこちらで一度確認いたします」
「信用がないな」
「ございます。方向が読めないだけです」
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数日後。
少弐は兵庫津へ戻った。
港には西国からの船、坂東からの船、南蛮船、瀬戸内を行き交う小船まで入り乱れている。
ここなら、京では手に入らないものがいくらでもあった。
少弐は商人たちを集めた。
「公家に贈るものを探している」
その一言で、商人たちの目の色が変わった。
絹。
香木。
硝子器。
珊瑚。
鼈甲。
異国の書物。
精巧な時計。
葡萄酒。
珍しい染物。
次々と品が並べられる。
少弐はその中を歩き回った。
高価だから選ぶのではない。
相手が見て、
「これは何だ」
と聞きたくなるもの。
そこから話が始まるもの。
少弐はそういう品を好んだ。
「これ」
手に取ったのは、小さな硝子器だった。
光を受けると、薄い虹色が浮かぶ。
「南蛮のものか?」
商人が頭を下げた。
「左様にございます」
「これと……」
次に選んだのは、北方から届いた細工物だった。
さらに坂東で作られた焼物。
最後に葡萄酒。
同行していた黒田が言った。
「酒は外せないのですね」
「話しやすくなるでしょう」
「少弐殿はそればかりですな」
少弐は笑った。
「北でも南でも、だいたい酒を飲んだら話せました」
それは冗談ではなかった。
言葉が違っても、身分が違っても、まず同じものを口にする。
少弐が長い旅の中で身につけた外交だった。
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一方、京では佐野が別の仕事をしていた。
佐野にとって、公家との付き合いは戦より疲れるものだった。
紹介を頼み、寺社を訪ね、古くから交流のある者へ頭を下げる。
何度も同じ説明をした。
小田は幕府を倒そうとしているのではない。
佐野も将軍家を滅ぼそうとしているのではない。
ただ今回の檄について、こちらにも言い分がある。
それを聞いてほしい。
ある公家が佐野へ尋ねた。
「では、義秋公を訴えるつもりか」
佐野は首を振った。
「違います」
「ならば何を望む」
佐野は少し考えた。
少弐ならどう答えるだろう。
そう思ってから言った。
「片方だけの話で決めないでいただきたい」
それだけだった。
公家はしばらく佐野を見ていた。
「武人にしては妙なことを申す」
「よく言われます」
「誰に教わった」
佐野は苦笑した。
「面倒な友人がおりまして」
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やがて、鷹司家へ最初の正式な贈答が行われた。
小田氏治の名である。
だが文面は慎重だった。
将軍家への不満は書かない。
義秋を批判もしない。
佐野の潔白を一方的に訴えることもしなかった。
ただ、東国と畿内の間に長く交流を持ちたい。
坂東で集められた書物や異国の知識についても、京の学問と交わらせたい。
そういう内容だった。
鷹司家から返書が来たのは、それからしばらくしてからだった。
短い。
だが拒絶ではなかった。
交流を受ける。
その知らせが兵庫津へ届いた日、少弐は港の倉で船荷を確認していた。
黒田が書状を持ってやってきた。
「少弐殿」
「はい?」
「鷹司家より返事がございました」
少弐は荷札を置いた。
「怒られました?」
「なぜ最初にそれを聞くのです」
「葡萄酒を入れたから」
「そこではございません」
黒田は書状を渡した。
少弐は読み進めた。
そして顔を上げる。
「話してくれるそうですね」
「はい」
少弐は笑った。
「ではよかった」
黒田はそんな少弐を見ていた。
本人はまだ分かっていない。
これは単なる贈答の成功ではない。
坂東の一大名が、幕府を経由せず、五摂家の一角へ直接つながる小さな糸を結んだのである。
今はまだ細い。
強く引けば切れる。
幕府に見せつければ、警戒される。
織田に利用されれば、別の意味を持つ。
だから急いではならない。
だが、確かに一本の糸はできた。
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夜。
少弐は佐野へ返事を書いた。
長い文章を書くのが苦手な男なので、今回も短かった。
――鷹司家、話を聞いてくださるそうです。
――葡萄酒も怒られませんでした。
――佐野殿も今度一緒に行きましょう。
数日後。
その書状を読んだ佐野は、最後の一行で顔をしかめた。
「なぜ俺まで行くんだ」
だが、その横には鷹司家から届いた正式な返書が置かれている。
佐野はそれを見た。
義秋の檄が出た日、自分は孤立すると思っていた。
幕府が逆臣と呼べば、それで終わるのかもしれないとも考えた。
ところが少弐は、
「ならば話を聞いてくれるところを増やそう」
と言った。
あまりにも単純だった。
だが、その単純な発想が、少しずつ形になり始めている。
佐野は少弐の書状を畳んだ。
「仕方ない」
次に京へ来たら、一度くらい付き合ってやろう。
そう呟いた。
この時、誰もまだ知らなかった。
鷹司家との交流が、やがて贈答だけでは終わらなくなることを。
小田と鷹司。
武家と摂関家。
その間に婚姻の話が持ち上がり、小田が朝廷との直接の縁を持つことになるのは、もう少し後のことである。
そしてさらに十年ほど後。
幕府の権威でも、武力でも止めることのできない大乱が天下を覆った時――
この日結ばれた細い糸が、
氏治、佐野、そして少弐たちにとって、
戦ではない方法で天下と話すための、一本の太い橋となるのであった。




