もう一本の道
義秋の檄が畿内を駆け巡ってから、数日。
佐野昌綱のもとで開かれた畿内会議は、夜になっても終わらなかった。
将軍家と戦うのか。
織田と戦うのか。
それとも佐野が退けば済むのか。
どの問いにも、誰も明快な答えを出せなかった。
ただ一つ、少弐冬明の中には引っかかり続けるものがあった。
義秋の檄である。
会議がひとまず散会となり、灯火の数も減ったころ。
少弐はまだ広間に残っていた。
目の前には畿内の絵図と、折り畳まれた檄文。
佐野も帰らなかった。
黒田孝高は少し離れたところで、今日出された意見を書き留めている。
少弐は檄文を指先で叩いた。
「やっぱり、おかしい」
佐野が振り向く。
「まだ言っているのか」
「言いますよ」
「俺はもう慣れた」
「慣れてはいけないでしょう」
佐野は苦笑した。
少弐は檄文を開いた。
「ここには、佐野殿が将軍家に背き、畿内を乱し、信長殿との戦を招いたように書いてある」
「そう読めるな」
「でも、違う」
「違うところもあれば、合っているところもある」
「だからですよ」
少弐は顔を上げた。
「合っているところだけならいい。でも、違うところまで全部一緒にして、佐野殿一人に被せている」
佐野は黙った。
黒田の筆も止まった。
「将軍様が佐野殿を嫌うのは仕方ない。佐野殿だって将軍様を嫌っているでしょう」
「嫌いとは言っていない」
「好きなんですか」
「……話を続けろ」
少弐は少し笑った。
だが、すぐ真顔に戻った。
「幕府がそう決めたら、天下ではそれが本当になるんですか」
今度は黒田が答えた。
「少なくとも武家社会では、大きな意味を持ちます」
「では、幕府が間違ったら?」
「それを誰が間違いだと決めるか、という話になりますな」
「だから困っている」
少弐は腕を組んだ。
「幕府を倒したいわけじゃない」
「でしょうな」
「将軍様とも、できれば仲直りしたい」
佐野が呆れた顔をした。
「お前は本当に欲張りだな」
「戦わないで済むなら、その方がいいでしょう」
「それができないから皆戦っている」
「だから考えているんです」
その時、黒田が静かに言った。
「ならば、幕府以外にも話を聞いていただけばよろしい」
少弐が見る。
「誰に?」
「公家衆」
佐野の表情が変わった。
黒田は続ける。
「さらにその先には、朝廷がございます」
少弐は黙った。
黒田は畿内の絵図を脇へ寄せ、京の部分を指した。
「義秋公が将軍として佐野殿を逆臣とする。ならば我らが義秋公を逆臣と呼び返せば、ただの喧嘩です」
「それは嫌だ」
「ええ。ですから、しない」
黒田は言った。
「幕府を否定するのではありません。幕府とは別の道を持つのです」
少弐は考え込んだ。
「幕府に何か言われたら、公家にも相談する?」
「簡単に申せば」
「両方から怒られないか」
「やり方次第でございます」
佐野が鼻で笑った。
「冬明には難しそうだな」
「だから黒田がいるんでしょう」
「また俺に投げますか」
黒田がため息をついた。
少弐は笑った。
だが、その発想そのものは頭から離れなかった。
一本しか道がないから困るのだ。
幕府との関係が悪くなれば、中央との関係そのものが悪くなる。
ならば道を増やせばいい。
幕府。
寺社。
堺。
公家。
朝廷。
それぞれが完全に同じ考えを持っているわけではない。
だからこそ、一つが閉ざされても、別の道から話ができる。
「氏治公に書こう」
少弐が言った。
「なんと?」
「京に、もう一本道を作りませんか、と」
黒田が少し笑った。
「それだけでは氏治公も困るでしょう」
「では黒田が詳しく書いてください」
「殿の書状ではないのですか」
「私が書いたら三行で終わります」
佐野がとうとう笑った。
「それは分かる」
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数日後。
坂東へ向かう早船に、一通の書状が託された。
少弐自身の言葉は、本当に短かった。
義秋公と争うことを望まず。
されど、佐野一人を悪しき者として事を収めることにも納得できず。
幕府との縁を保ちながら、京に別の話し合いの道を持つべきではないか。
その後ろには、黒田がまとめた長い意見書が添えられていた。
幕府を否定しないこと。
朝廷を幕府への対抗勢力として露骨に利用しないこと。
まず有力公家との交流を深めること。
文化・学問・献上・寺社との交流から始めること。
そして可能ならば、将来的には婚姻によって関係を一代限りのものではなくすること。
その候補の一つとして、五摂家の名まで挙げられていた。
――鷹司。
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書状を受け取った小田氏治は、しばらく黙って読んだ。
一度読み終え、黒田の意見書を読み、また少弐の短い書状へ戻った。
そして側近に言った。
「少弐らしいな」
「どのあたりが?」
「幕府と喧嘩したくないと言いながら、幕府だけを頼るのも嫌だと言っている」
氏治は苦笑した。
だが、笑って捨てることはしなかった。
佐野が義秋によって一方的に逆臣とされたことは、氏治自身も重く見ていた。
佐野に非がなかったとは思わない。
だが政治とは、非の大小だけで決まらない。
権威を持つ者が先に言葉を発すれば、その言葉が世間の形を作る。
今回は佐野だった。
次は誰か。
小田かもしれない。
北条かもしれない。
上杉かもしれない。
あるいは、今は幕府と良好な誰かかもしれない。
氏治は書状を置いた。
「幕府を捨てるつもりはない」
誰にともなく言った。
「だが、幕府だけに我らの善悪を決めてもらう必要もない」
側近が頷いた。
「公家衆へ接触なさいますか」
「する」
氏治は即答した。
「ただし、将軍への対抗だと思わせるな」
「は」
「むしろ逆だ」
氏治は少弐の書状を指で叩いた。
「幕府と喧嘩しなくて済むようにするためだ」
そして黒田が挙げた名をもう一度見た。
鷹司。
五摂家の一つ。
武家が気軽に婚姻を申し込める相手ではない。
だからこそ、最初から婚姻を求めるような無粋なことはしなかった。
まずは文。
次に贈答。
そして文化交流。
京にいる佐野にも協力させる。
少弐には堺・兵庫津の商人を通じて珍しい舶来品を集めさせる。
坂東からは土地の産物を送る。
急がない。
何年かかってもいい。
氏治はそう考えた。
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その返書が畿内へ届いたころ。
少弐は佐野と昼食を取っていた。
少弐は氏治の書状を読み、満足そうに頷いた。
「やるそうです」
佐野が飯を食いながら聞いた。
「何を」
「公家との付き合い」
「本当にやるのか」
「氏治公ですから」
少弐は返書を佐野へ渡した。
佐野は読み進め、途中で止まった。
「……俺にも手伝えと書いてあるぞ」
「京にいるからでしょう」
「面倒だ」
「お願いします」
「お前がやれ」
「私は兵庫津です」
「京へ来い」
「船の方が好きです」
「知らん」
二人のやり取りを聞きながら、黒田が茶を飲んでいた。
そしてぽつりと言った。
「お二人とも、分かっておられますか」
「何がだ」
佐野が聞く。
「これはかなり大きな話になります」
少弐が首を傾げた。
黒田は続けた。
「公家との交流だけなら珍しくありません。しかし五摂家と婚姻まで至れば、小田家は武家社会だけではなく、朝廷にも直接の縁を持つことになります」
少弐は少し考えた。
「悪いことですか」
「使い方を間違えれば」
「では、間違えなければいい」
黒田は苦笑した。
佐野が少弐を見る。
「お前は簡単に言うな」
「難しく言っても同じでしょう」
少弐は茶を飲んだ。
そして、少しだけ声を落とした。
「私は今回みたいなのが嫌なんです」
佐野は何も言わなかった。
「誰か一人が『こいつが悪い』と言ったら、みんながそういうことにする」
少弐は佐野を見る。
「佐野殿が悪いなら、悪かったところを話せばいい。でも全部佐野殿が悪かったことにして戦を始めるのは違う」
佐野は目を伏せた。
少弐は続けた。
「だから次は、話を聞いてくれるところを増やしておく」
幕府を捨てるのではない。
幕府を倒すのでもない。
幕府が閉じれば、公家へ。
公家でも駄目なら寺社へ。
堺でも話す。
朝廷にも届ける。
一本の道が戦へ続いていても、別の道が残っているようにする。
佐野はしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「お前らしいな」
「そうですか」
「ああ」
佐野は氏治の返書を畳んだ。
「天下を取る奴なら、道を一本にしたがる」
少弐が見る。
「皆、自分のところを通らねば何もできぬようにする」
佐野は返書を少弐へ返した。
「お前たちは逆だ。道を増やす」
少弐は少し考え、それから笑った。
「その方が、詰まらなくていいでしょう」
その何気ない言葉を、黒田だけが妙に長く覚えていた。
後年。
小田家と鷹司家の縁が婚姻にまで至り、小田が幕府とは別に朝廷へ直接意見を届けられるようになったころ。
さらに天下が再び大きく割れ、東北では小田の同盟者同士が争い、畿内では三法師をめぐって諸将が兵を動かすようになったころ。
この日の選択が、思いもよらぬ重みを持つことになる。
武力では止められない争い。
味方同士ゆえに、どちらも討てない戦。
幕府の裁定だけでは収まらない対立。
その時、小田にはもう一つの道が残っていた。
朝廷という、武家とは異なる権威へ続く道である。
だがこの時の少弐も佐野も、そこまで先のことなど知らない。
ただ義秋の檄文を前にして、
「一人だけを悪者にして終わらせるのは嫌だ」
と思った。
それだけだった。
そしてその小さな違和感から、小田は初めて――
幕府と対立するためではなく、幕府との対立を調整するために、朝廷へ近づき始めたのであった。




