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義の檄、畿内に満つ

義秋の檄が畿内を走ったのは、まだ朝靄の残る頃であった。

京から発せられた書状は、寺社へ、城へ、国人の館へ、そして街道を行き交う商人たちの手にまで渡った。

佐野昌綱を討て。

将軍家に背き、畿内の秩序を乱す逆臣である――。

文面こそ格式を整えていたが、言わんとするところは明白だった。

佐野を孤立させよ。

そして、信長の上洛を阻む者を排除せよ。

だが、その檄を読んだ少弐冬明は、しばらく何も言わなかった。

兵庫津の屋敷。

机上に広げられた檄文を二度読み、三度目は途中でやめた。

「……佐野殿だけが悪いことになっているな」

向かいに座っていた黒田孝高が、静かに答えた。

「そのように書かねば、檄にはなりませぬ」

「そういうものか」

「そういうものでございます」

少弐は困った顔をした。

戦場なら、まだ分かる。

敵がいて、味方がいる。

どちらへ槍を向けるべきかも分かる。

だが、こういう戦いは苦手だった。

紙一枚で昨日までの味方が逆臣となる。

事実がどうであったかより、誰が先に「義」を名乗ったかで世間の見方が変わる。

「佐野殿は将軍家を滅ぼそうとしたわけではない」

「存じております」

「信長殿とも、最初から戦いたかったわけではない」

「それも」

「ならば、これはおかしくないか」

黒田は少し笑った。

「殿は、こういうところでは真っ直ぐすぎますな」

「悪かったな」

少弐は檄文を畳んだ。

「佐野殿のところへ行く」

黒田の表情が変わった。

「兵を?」

「いや」

少弐は首を振る。

「話を聞きに行く」

佐野のもとには、すでに畿内の諸将が集まり始めていた。

大和、山城、摂津、河内、和泉。

立場も思惑も異なる者たちだったが、一つだけ共通していることがあった。

義秋の檄を、そのまま受け入れるつもりはない。

とはいえ、将軍家へ弓を引きたいわけでもなかった。

そこが難しかった。

広間の中央に畿内の絵図が広げられていた。

佐野昌綱は、その端に座っていた。

かつてなら上座を勧められれば平然と座った男だったが、この日は違った。

「俺が上に座れば、佐野の軍議になる」

そう言って、皆と同じ高さに座っていた。

少弐が入ってくると、佐野は顔を上げた。

「来たか」

「来ました」

「兵は?」

「置いてきました」

佐野が眉を上げる。

「何しに来た」

「会議です」

一瞬の沈黙のあと、何人かが吹き出した。

佐野も笑った。

「なら座れ」

少弐は絵図の前へ座った。

黒田はその一歩後ろ。

しばらくして議論が始まった。

最初に口を開いたのは、山城の情勢に詳しい者だった。

「義秋公の檄に応じる動きはある。しかし、まだ大軍となるほどではない」

続いて大和。

「こちらも同じ。佐野殿を討つために国を挙げるという話にはなっておらぬ」

河内からも似た報告が続いた。

だが安心できる話ではなかった。

檄とは、出された瞬間に軍勢が生まれるものではない。

時間をかけて、人の心を分けていく。

昨日まで中立だった者が、明日には将軍方を名乗る。

今日まで佐野と酒を飲んでいた者が、数日後には「逆臣と知らなかった」と言い始める。

少弐は黙って聞いていた。

やがて佐野が言った。

「俺を切れば済むなら、それでもいい」

広間の空気が変わった。

「佐野殿」

「最後まで聞け」

佐野は絵図を指で叩いた。

「俺一人の首で将軍が兵を引き、信長も国へ帰り、畿内が元に戻るなら安いものだ」

少弐は佐野を見た。

「戻りますか」

佐野が黙る。

「佐野殿の首を渡せば、元に戻るんですか」

誰も答えなかった。

少弐は続けた。

「私は戻らないと思います」

佐野が目を細めた。

「なぜだ」

「だって、佐野殿が原因ではないでしょう」

少弐は絵図へ手を伸ばした。

「信長殿が強くなった。将軍は信長殿を使いたい。畿内の者は信長殿を怖がっている。将軍も佐野殿を怖がっている。佐野殿も将軍を信用できなくなっている」

一つ一つ、指を置いていく。

「これを佐野殿一人の首で全部元に戻すのは無理です」

黒田が後ろで小さく頷いた。

佐野はしばらく少弐を見ていたが、

「ではどうする」

と尋ねた。

少弐は困った。

「それを考えるために来ました」

また笑いが起きた。

今度は先ほどより大きかった。

張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。

「お前な」

佐野も苦笑した。

「策を持ってきたのではないのか」

「黒田なら持っているかもしれません」

突然振られた黒田が顔を上げる。

「私に投げますか」

「私は名将ではないので」

「それを堂々と言われると困りますな」

それでも黒田は前へ出た。

絵図を見下ろした。

「では、一つだけ」

皆が黒田を見る。

「この戦を、佐野殿と将軍家の争いにしてはなりません」

佐野が腕を組んだ。

黒田は続ける。

「義秋公の檄の強みは単純です。敵を一人に定めたこと。佐野昌綱という逆臣を討つ――分かりやすい」

指が京へ置かれる。

「ならば我らは逆を行う」

「逆?」

少弐が聞いた。

「敵を決めませぬ」

広間が静まった。

「将軍家とも戦わない。織田とも、こちらから戦端を開かない。佐野殿を討てという者とも、まず話す。ただし――」

黒田の指が佐野の前で止まった。

「佐野殿を差し出せと言われても、応じない」

佐野が笑った。

「ずいぶん都合がいいな」

「政治とは、たいていそういうものでございます」

少弐が考え込んだ。

「つまり……将軍を敵にしないまま、将軍の命令には従わない?」

「左様」

「怒られないか」

「怒られるでしょうな」

「駄目ではないか」

また笑いが起きた。

だが今度は、佐野も笑わなかった。

黒田の言いたいことを理解したからだ。

「……時間を稼ぐのか」

「それもございます。しかし、それだけではありません」

黒田は言った。

「義秋公が幕府の権威を用いるならば、こちらも幕府だけを天下の声とは考えぬことです」

その言葉に、少弐が顔を上げた。

「幕府以外?」

「寺社もございます。堺もございます。畿内の諸家もございます。そして――」

黒田は少し間を置いた。

「朝廷がございます」

広間の空気が再び変わった。

佐野が黒田を見る。

少弐も何も言わない。

幕府と争えば、逆臣になる。

だが、朝廷は幕府ではない。

将軍の敵になる必要はない。

将軍だけに裁かせなければよい。

少弐はゆっくりと理解した。

「……そうか」

そして檄文を取り出した。

「私はこれが嫌だったんだ」

皆が少弐を見る。

「佐野殿が悪かったところがあるなら、それは仕方ない。私にも悪かったところはいくらでもある。でも――」

檄文を机に置いた。

「片方だけが全部悪かったことにして、それで戦を始めるのは違うと思う」

佐野は何も言わなかった。

少弐は佐野を見た。

「だから、佐野殿を助けます」

「将軍と戦うのか」

「戦いたくありません」

即答だった。

「信長とは?」

「それもできれば」

「随分と欲張りだな」

「はい」

佐野が笑った。

少弐も少し笑った。

「だから、戦わなくてもいい道を増やします」

黒田が少弐を見た。

少弐は続ける。

「公家と話しましょう」

「どことだ」

「一つでは足りないと思う」

その答えに黒田の目がわずかに動いた。

少弐はまだ具体的な家名を決めていなかった。

だが、この日の軍議で一つだけはっきりした。

幕府と争いたいわけではない。

幕府を滅ぼしたいわけでもない。

しかし、幕府だけに自分たちの善悪を決めさせることもしない。

ならば別の橋を架ける。

その橋の先に、やがて鷹司家との接近と婚姻が生まれることになる。

会議が終わるころには、外は暗くなっていた。

皆が席を立つなか、佐野が少弐を呼び止めた。

「冬明」

「はい」

「なぜここまでやる」

少弐は振り返った。

佐野は冗談を言っている顔ではなかった。

少弐も少し考えた。

「仲間だから、では駄目ですか」

「それだけで将軍を敵に回すのか」

「だから敵に回さない方法を考えているんでしょう」

佐野は呆れたような顔をした。

少弐は笑った。

そして少しだけ真面目な顔になる。

「それに――」

檄文を指差した。

「今日、佐野殿が一方的に悪者にされるのを黙って見ていたら、いつか私の仲間の誰かが同じ目に遭います」

佐野の表情から笑みが消えた。

「その時になって助けるのでは遅い」

少弐はそう言って立ち上がった。

「だから今から、道を増やしておきます」

この日、畿内会議で決まったのは戦の作戦だけではなかった。

小田家がそれまで頼ってきた、

武家は幕府を通じて天下と話す

という一本の道に、もう一本の道を加えること。

幕府と争うためではない。

幕府と争わずに済むために。

やがて氏治はその考えを受け入れ、京の五摂家、その中でも鷹司家との接触を始める。

後世、小田と朝廷との結びつきが語られるとき、その始まりとして挙げられるのは華やかな婚礼ではなかった。

義秋の檄によって一人の仲間が逆臣とされた日。

佐野の畿内会議に遅れて現れた少弐冬明が、何気ない調子で口にした一言だったという。

「戦わなくてもいい道を、もう一本作りましょう」

それが後に、幕府とも織田とも異なる――

小田が朝廷と直接言葉を交わす道の始まりとなった。

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