永禄十四年六月五日――上洛の檄
六月五日。
ついに、恐れていたものが文書となって現れた。
朝から兵庫津には湿った風が吹き込み、清盛館の軒先には今にも雨を落としそうな雲が垂れ込めていた。
そこへ早馬が入った。
届けられた書状を読んだ松浦は、すぐには少弐へ渡さなかった。
もう一度、最初から読み直した。
「……これは」
そして顔を上げる。
「少弐様を。すぐに」
ほどなく少弐冬明、黒田孝高、赤井直正、渡辺、赤木甚兵衛、シレトク、阿波辺岩蔵、エカシロらが清盛館へ集められた。
ライラは当然のように少弐の後ろに立っている。
少弐は届いた書状を開いた。
差出人を見ただけで、何が起きたのか理解した。
足利義秋。
そして、その内容は五月に明智光秀から聞いた話より、さらに踏み込んだものだった。
足利幕府は失われた。
山城では細川が専横し、将軍家の権威を蔑ろにしている。
さらに、本来なら幕府を支えるべき旧臣でありながら細川方へ与した佐野は、将軍家に背いた逆臣である。
ゆえに――
細川ならびに佐野を討つ。
山城へ入り、京へ上洛する。
そして畿内に再び足利将軍家の威光を取り戻す。
その大義を掲げ、諸家に協力を求める。
事実上の宣戦布告だった。
同様の文書は佐野だけに届いたのではない。
畿内諸家。
近国の大名。
寺社。
有力国人。
各方面へ一斉に送られていた。
足利義秋は、この戦を単なる織田と佐野・細川の争いにはしなかった。
「足利将軍家を京へ戻す戦」
そう定義したのである。
黒田孝高が書状を読み終えると、静かに卓上へ置いた。
「……うまい」
赤井直正が横を見る。
「何がだ」
「大義名分です」
孝高は書状を指した。
「織田が山城を欲する、とは一言も書いていない」
少弐も頷く。
「義秋公が京へ帰る。それを邪魔する者を討つ、か」
「はい」
さらに孝高は佐野の名を指した。
「そして佐野殿を、単なる敵ではなく――裏切った旧臣とした」
赤井が鼻を鳴らした。
「言い方一つだな」
「戦とはそういうものです」
孝高は淡々と答えた。
「佐野殿には佐野殿の理屈がある。しかし、この書状だけを読んだ者には違って見える。『将軍を追い出して山城を支配する細川と、それに加担した旧臣』です」
少弐は腕を組んだ。
そこが厄介だった。
織田信長が、
――俺は山城を奪う。
そう宣言してくれたなら話は簡単だった。
敵として迎え撃てばよい。
だがこれは違う。
将軍が京へ帰る。
武家にとって、この言葉は重い。
シレトクが難しい顔で尋ねた。
「そのヨシアキという男が京へ帰るだけなら、帰らせればいいんじゃないのか」
室内が静かになった。
少弐はシレトクを見る。
「普通に考えればな」
「違うのか」
「何千、何万という兵を連れて帰ってくる」
シレトクは納得した。
「ああ。それは帰るとは言わないな」
赤木甚兵衛が笑いかけたが、すぐ真顔に戻った。
阿波辺岩蔵が尋ねる。
「で、俺たちは戦うんですかい」
少弐は答えなかった。
代わりに黒田孝高を見る。
孝高はすでに地図を広げていた。
若狭。
丹波。
山城。
摂津。
兵庫津。
「問題はここからです」
孝高の指が丹波から山城へ動いた。
「五月に明智殿から聞いた通りなら、織田方には本来、日本海側を西へ進む構想があった。しかし義秋公がこれほど明確な檄を飛ばした以上――」
少弐が続けた。
「信長公も後へ退きにくくなった」
「はい」
将軍を奉じて天下布武を唱えながら、その将軍本人が、
――京へ戻る。
――逆臣を討つ。
そう天下へ宣言してしまった。
そこで信長が、
――いや、但馬へ行く。
とは言いにくい。
赤井直正が立ち上がった。
「ならば考えることは一つだろう」
皆が赤井を見る。
丹波の赤鬼は、嬉しそうですらあった。
「どこで織田を止める」
孝高は苦笑した。
「直正殿は話が早すぎます」
「戦になるのだろう?」
「なるでしょう。しかし戦は、始まる前が肝要です」
少弐も地図へ近づいた。
「佐野殿がどう動くか確認する」
まず、それだった。
宣戦された中心人物は佐野昌綱である。
そして山城を握る細川。
彼らがどこで迎撃線を作るかによって、兵庫津の役割も変わる。
「松浦」
「はっ」
「清盛館を閉める必要はない。だが戦支度へ移れ。商人には騒ぐなと言え。港は平常通り動かす」
「承知」
「渡辺」
「はっ」
「少弐隊をいつでも出せるように。ただし勝手に兵を動かすな」
「はっ」
「甚兵衛、シレトク」
二人が顔を上げる。
「虎衆は六甲へ」
シレトクがすぐ理解した。
「この前見た山か」
「ああ。有馬道と丹波から降りてくる道を見張れ。砦候補地にも人を置け」
「分かった」
「岩蔵、エカシロ」
「へい」
「鷹衆三百は散らす」
岩蔵が笑った。
「ようやく鷹らしくなってきましたな」
「丹波、山城、摂津の境を見ろ。ただし戦うな。数を数えろ。旗を覚えろ。荷駄を見ろ。どの道を使っているか調べろ」
エカシロが確認する。
「敵を倒すんじゃなく、敵を見る」
「そうだ」
少弐は頷いた。
「一人斬るより、千人がどこへ向かっているか知らせる方が価値がある」
最後に赤井を見る。
「直正殿」
「俺は?」
「まだ動かないでください」
「……つまらんな」
「あなたが動けば戦が始まったと思われる」
赤井は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
黒田孝高だけは少弐の命令を聞きながら、じっと書状を眺めていた。
やがて言った。
「少弐殿」
「なんだ」
「一つだけ」
「申せ」
「これは宣戦布告であると同時に――」
孝高は足利義秋の名が記された箇所を指した。
「踏み絵です」
少弐の表情が変わった。
「……なるほど」
細川につくか。
佐野につくか。
足利につくか。
織田につくか。
あるいは中立を唱えるか。
書状を受け取ったすべての家が、態度を問われる。
返書を出さなくても、それ自体が返答になる。
兵を出さなくても、それ自体が意思表示になる。
「義秋公は戦の前に、畿内を二つに割ろうとしている」
「はい」
孝高は答えた。
少弐はもう一度、書状を手に取った。
五月、明智光秀は言っていた。
義秋公が、信長公に決めさせようとしている。
その意味が、六月五日になって完全に分かった。
義秋は信長に決断を迫っただけではない。
畿内すべてに決断を迫ったのだ。
少弐は窓の外を見る。
六甲の山々は低い雲に隠れていた。
その向こうには丹波がある。
そして東には山城がある。
ようやく整えた虎衆も、鷹衆も、少弐隊も、まだ十分な合同訓練すらしていない。
それでも時間切れだった。
少弐は書状を畳んだ。
「佐野殿のところへ行く」
ライラがすぐ少弐の横へ来た。
黒田孝高が尋ねる。
「兵を?」
「連れていかない」
少弐は首を振った。
「まだ戦を始めに行くんじゃない」
そして足利義秋の書状を懐へ入れた。
「――どこで戦を終わらせるか、それを決めに行く」
六月五日。
足利義秋が放った一通の檄によって、
山城をめぐる戦は、まだ一兵も槍を交えぬうちに始まった。




