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五月曇天――丹波を得て、道を失

清盛館でようやく軍制が整った。


だが、赤木甚兵衛とシレトクが少弐虎衆を完全に掌握するにも、阿波辺岩蔵とエカシロが三百の鷹衆に新しい動きを叩き込むにも、時間が足りなかった。


五月。


兵庫津の空は朝から重い雲に覆われていた。


追加の訓練を始めようとしていた矢先、佐野昌綱から使いが来た。


――少弐殿、至急お越し願いたい。


少弐は嫌な予感を覚えた。


「ライラ」


「行くのね」


「ああ。渡辺に兵を動かすなと言っておけ。甚兵衛たちにも待機を」


ライラだけを伴い、少弐は佐野のもとへ向かった。


そこで待っていた人物を見て、少弐は足を止めた。


「……明智殿」


明智光秀だった。


丹波攻略を終えたばかりの男とは思えなかった。


勝者の顔ではない。


疲れ切っていた。


佐野昌綱が苦笑して座を勧める。


「まあ座れ。面白くない話が始まるぞ」


光秀は少弐に一礼した。


「少弐殿。兵庫津では軍勢を集めておられるとか」


「ようやく形になった程度です」


「それは羨ましい。こちらは形にした途端、壊されそうです」


「何がありました」


光秀は一瞬黙った。


そして深いため息をついた。


「上洛です」


少弐は瞬きをした。


「……上洛?」


「上洛」


光秀はもう一度言った。


佐野が笑いを堪えるように横を向いた。


「足利義秋公は、若狭と丹波を押さえて以来、口を開けば上洛です」


光秀は指を折り始めた。


「朝の挨拶で上洛。昼の評定で上洛。軍議を開けば上洛。若狭の兵糧を話していても上洛。丹波の国人配置を話していても上洛」


少弐は思わず尋ねた。


「それほどですか」


「それほどです」


光秀は真顔だった。


「もはや挨拶のようなものです」


佐野がとうとう笑った。


だが、光秀は笑わなかった。


「信長公は当初、違う絵を描いておられたはずです」


卓上の地図へ手を置く。


若狭。


丹波。


そして但馬。


伯耆。


その先に毛利。


「若狭、丹波を足場として但馬へ出る。さらに伯耆へ進み、日本海側から毛利と対峙する。少なくとも私はそのつもりで動いておりました」


少弐も地図を見る。


筋は通っていた。


山城へ真正面から突っ込むよりも、織田勢力を西へ伸ばす。


毛利との境界を作る。


それなら兵庫津の少弐たちとも、すぐに全面衝突する必要はない。


「ところが」


光秀の指が丹波から山城へ動いた。


「義秋公は待てない」


光秀は疲れた声で続けた。


「信長公のところへ毎日のように来られるそうです。上洛はいつか。いつ兵を出すのか。なぜまだ京へ入らぬのか、と」


「信長公は?」


「嫌になっておられる」


あまりに率直な言葉だった。


少弐が光秀を見る。


「明智殿、それを私に言ってよろしいので?」


「もうどうでもよくなってまいりました」


佐野が横から言った。


「相当に参っておるぞ、こやつ」


光秀は無視した。


「されど信長公にも難しい事情があります。天下布武を掲げ、その大義の一つとして足利義秋公を奉じている。その義秋公が京へ戻りたいと言っている」


少弐は頷いた。


ここが問題だった。


「一度も山城へ兵を出さずに、無理だと退けることもできない」


「その通りです」


光秀が少弐を見る。


「試してもいないではないか、と言われれば返す言葉がない」


佐野も腕を組んだ。


「つまり信長は山城を欲しいのではない」


「少なくとも最優先ではないでしょう」


「だが義秋公を担いで天下を語った以上――」


少弐が続けた。


「一度は山城へ手を伸ばさざるを得ない」


光秀は頷いた。


「それが現在の織田家です」


部屋が静かになった。


少弐は地図を見つめた。


山城。


その西に摂津。


そして兵庫津。


つい先日まで六甲山から眺めていた西の海が、急に近い戦場へ変わったように感じられた。


「……明智殿」


「はい」


「丹波を平らげたあなたなら、信長公から相当評価されたでしょう」


光秀の顔が引きつった。


佐野がまた横を向いた。


「少弐殿」


「はい」


「聞きますか」


「何をです」


「茶碗を投げつけられました」


少弐は黙った。


ライラが少弐の後ろで眉を上げる。


「……茶碗?」


「茶碗です」


光秀は淡々と言った。


「丹波攻めに時間をかけすぎた。銭を使いすぎた。国人との交渉に手間をかけすぎた。これまで佐野家との関係を作り、丹波の者たちを一人ずつ調略してきたことなど、すべて吹き飛びました」


佐野が補足する。


「相当に激昂したらしい」


「激昂などというものではありません」


光秀は珍しく語気を強めた。


「私は丹波を平らげたのですぞ」


「うむ」


「城を一つ一つ焼いて回れば早かったでしょう。しかし、それでは後で誰が治めるのです。佐野殿とも話を通し、国人をこちらへ引き込み、できるだけ丹波を壊さず――」


そこまで言って光秀は口を閉じた。


自分が熱くなっていることに気づいたらしい。


「……失礼」


少弐は少し同情した。


「それで、どうなるのです」


「坂本でしょうな」


「坂本?」


「畿内の坂本へ直に移されるかもしれません」


光秀は自嘲気味に笑った。


「しばらく暇をいただき、畿内全体の調整役をせよ、と」


佐野が少弐を見る。


「栄転にも聞こえるがな」


「左遷ですよ」


光秀が即座に返した。


「丹波を取った人間から丹波を取り上げて、揉め事の調整をしていろというのですから」


「明智殿に向いていそうですが」


少弐が言った。


「少弐殿までそういうことを申されるか」


初めて光秀が少し笑った。


だが、その笑いはすぐ消えた。


「もっとも……」


光秀の指が再び地図へ戻る。


「畿内全体の調整役となれば、あなたとも頻繁に顔を合わせることになるでしょう」


少弐の目が細くなった。


「それは困りましたな」


「なぜです」


「明智殿は人の懐へ入るのが上手すぎる」


「少弐殿に言われたくありません」


今度は佐野まで笑った。


ほんの一瞬だけ、部屋の重苦しい空気が緩んだ。


しかし地図の上では、何も解決していなかった。


若狭と丹波を手にした織田。


京を求め続ける足利義秋。


本来なら日本海沿いに西進したい信長。


その間で疲弊する明智光秀。


そして山城の西には、少弐たちがようやく軍制を整えた兵庫津がある。


少弐は静かに立ち上がった。


「佐野殿」


「なんだ」


「兵庫津へ戻ります」


「そうするか」


「虎衆も鷹衆も、まだ満足に合わせていません」


少弐は地図の山城を指で叩いた。


「だが――どうやら訓練が終わるまで、向こうは待ってくれそうにない」


光秀も立ち上がった。


そして帰ろうとする少弐へ、最後に小さく告げた。


「少弐殿」


「はい」


「信長公はまだ、山城を攻めると決めたわけではありません」


少弐は振り返る。


「分かっています」


「ただ……」


光秀は言葉を選んだ。


「義秋公が、決めさせようとしている」


少弐はしばらく光秀を見つめた。


「それで十分です」


外へ出る。


五月の空は相変わらず曇っていた。


雨はまだ降っていない。


だが少弐には――六甲の向こうから、もう雷鳴が聞こえてくるような気がしていた。

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