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春、北の戦士たち――出立の時

元亀四年三月。


丹波から知らせが届いた。


明智光秀による丹波攻略が、ひとまず完了したという。


氏治は報告を読みながら、地図の上へ目を落とした。


「思ったより早かったな」


年始の評定では、まだ丹波では戦が続いていた。


光秀は力攻めを避け、国人たちへの調略を重ねていた。その進みの遅さに信長がしびれを切らし、方面指揮官を替えるのではないかという噂まで流れていた。


だが、光秀は間に合わせた。


波多野など丹波の有力者の多くが明智に従った。


ただし、すべてが収まったわけではない。


「赤井の一党は?」


氏治が尋ねた。


「播磨へ逃れた者がおります」


その答えに、氏治は少し顔をしかめた。


丹波で戦が終わったからといって、戦った者たちが消えるわけではない。


土地を追われた武士。


主を失った兵。


降伏を嫌った者。


そうした者が国境を越えれば、別の土地で新しい火種になる。


しかも、その逃げ先が播磨だった。


少弐のいるところである。


「覚えておけ」


氏治は地図の丹波と播磨の境を指でなぞった。


「丹波の火が消えたのではない。火種が西へ転がっただけかもしれん」


だが今の氏治には、もう一つ確認しなければならないことがあった。


土浦である。


氏治は兵学館へ赴き、シレトクを呼んだ。


「どうだ」


シレトクが振り返る。


「何が」


「北から来た連中だ」


氏治は演習場へ目を向けた。


「軍になったか」


シレトクは、すぐには答えなかった。


少し考えてから、


「ああ」


とうなずいた。


「なった」


その言葉を確かめるように、氏治は演習場を見た。


秋に見た光景とはまるで違っていた。


あのころは、ただ人が多かった。


弓を持つ者。


小刀一本で来た者。


毛皮を着た者。


見たこともない服を着た者。


言葉すら互いに通じない。


それが今では、胸には坂東の軽い胸鎧。


腰には坂東サーベル。


足には軍靴。


単筒を携える者もいる。


そして何より、動きが違った。


笛が鳴る。


一団が止まる。


小旗が上がる。


別の一団が散開する。


もう一度、短く笛が鳴る。


今度は数十人が向きを変えた。


大声で命令している者はいない。


それでも動く。


「言葉はどうした」


氏治が聞いた。


「全部は無理だ」


シレトクは答えた。


「でも簡単なことなら、もうだいたい通じる」


行け。


止まれ。


待て。


右。


左。


前。


後ろ。


敵。


味方。


集まれ。


散れ。


水。


火。


飯。


怪我。


毎日一緒に暮らし、同じ訓練を続けているうちに、必要な言葉だけは自然と皆が覚えていった。


近い言葉を話す者同士なら、今では互いに自分の言葉で話していても、おおよその意味が分かることさえある。


複雑な話になれば多言語話者が入る。


戦場なら旗と笛を使う。


声を出せない場所では手振りを使う。


「百人を預けた連中は?」


「大丈夫だ」


シレトク自身が選んだ者たちだった。


昔から知っていた者もいる。


北方遠征で顔を合わせた者もいる。


土浦へ来てから初めて知った者もいる。


人望のある者。


複数の言葉を話す者。


判断の速い者。


自分より強い者がいても、その者たちが自然と話を聞く人物。


そういう者を百人将にした。


その下にも、旗や笛を持つ下士官を置いた。


「俺が全員に言わなくても動く」


シレトクは言った。


氏治はその言葉に少し笑った。


兵学館へ来たばかりのころなら、シレトク自身が走って伝えていただろう。


今は違う。


誰に伝えれば二千人へ届くのかを知っている。


だが変わったのは、軍の形だけではなかった。


氏治が兵舎の一角を通ると、妙な集まりがいくつもできていた。


一人の男が草を手にしている。


周囲の者が覗き込んでいた。


「何をしている」


「薬草だ」


シレトクが答えた。


別のところでは弓を囲んでいる。


さらに向こうでは、獣の足跡の見分け方を身振りを交えて話していた。


「勝手に教え合ってる」


北と一口に言っても広い。


山で暮らしてきた者がいる。


海で暮らしてきた者がいる。


鹿を追う者。


熊を知る者。


魚を捕る者。


薬草を知る者。


雪の中で眠る方法を知る者。


それぞれが、自分の土地では当たり前だった知識を持っていた。


ところが土浦へ集まったことで、それまで出会うことのなかった知識が一か所へ集まった。


ある土地では薬にする草を、別の土地では知らない。


ある者が使う罠を、別の者は初めて見る。


雪の歩き方も違う。


獣の追い方も違う。


魚の捕り方も違う。


互いに見せ、試し、覚える。


そうして半年近くを過ごした。


氏治はしばらく彼らを眺めていた。


坂東が教えたのは、軍として動く方法だった。


胸鎧。


サーベル。


単筒。


旗。


笛。


隊列。


号令。


だが、それだけではない。


この二千人は自分たちでも変わっていた。


北方の異なる土地から持ち寄った知恵を互いに学び、来たころよりも北の山野を知る集団になっている。


氏治が聞いた。


「シレトク」


「なんだ」


「こやつら、冬の山で何日動ける」


シレトクは少し考えた。


「飯があれば、ずっと」


「飯がなければ」


「場所による」


氏治は笑った。


それで十分だった。


普通の兵なら、まず補給があるかを尋ねる。


この者たちは、まず土地を見る。


山。


川。


海。


獣。


草。


雪。


そこに何があるかを考える。


氏治はもう一度、二千人を眺めた。


秋には戦士の集まりだった。


今は違う。


互いの言葉を少しずつ覚えた。


互いの知識を覚えた。


指揮官を選んだ。


旗と笛で動くようになった。


そして、自分たちだけで二千人をまとめる仕組みを作った。


「ならば、よい」


氏治は言った。


シレトクが見る。


「四月に西へ送る」


その言葉に、シレトクの表情が変わった。


ようやくである。


彼らが北から海を渡ってきた理由。


少弐を助ける。


そのために集まった。


「船を用意する」


氏治は演習場へ向き直った。


「武具も揃える。火薬も弾も持たせる。西へ着いてすぐ動けるようにしておけ」


「分かった」


「それと――」


氏治は少し間を置いた。


「いつまでも北方衆では格好がつかんな」


シレトクが首を傾げた。


氏治は二千人の姿を見ながら笑った。


正月、少弐へ送った書状にはこう書いた。


――四月、虎を贈る。


その意味を、少弐はまだ知らない。


「出立までに名を与える」


北の戦士たちはまだ知らなかった。


半年近く土浦で過ごした彼らが、


やがて西国で一つの名によって呼ばれることを。


少弐虎衆。


いよいよ、虎が西へ渡る時が近づいていた。

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