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足りぬ目、足りぬ兵――有馬から見えた西への影

少弐は、しばらく有馬を離れなかった。


腰のためでもあった。


だが、それだけではない。


有馬衆を受け入れたことで、兵庫津を中心とした少弐の領分は、それまでとは形そのものが変わっていた。


兵庫津。


西の須磨。


そして六甲を越えた北の有馬。


地図の上なら近い。


しかし実際に歩けば山がある。


街道がある。


村がある。


守らなければならない人間がいる。


有馬の湯へ浸かりながら、少弐はようやく自分が手にしたものの大きさを実感し始めていた。


朝。


少弐は有馬の仮館で筆を取った。


宛先は松浦だった。


まず、兵庫津から有馬へ至る街道の整備。


すべてを立派な道にする必要はない。


雨のたびに崩れる場所。


荷駄が難儀する坂。


橋。


水場。


休憩できる場所。


そうした箇所から順番に手を入れる。


ただし、無制限に銭を使わせるつもりもなかった。


「人が通れば銭が落ちる。銭が落ちれば道を直せる」


少弐は呟きながら書いた。


有馬の国人衆にも人足を出してもらう。


兵庫津側からも銭を出す。


湯宿や商人にも、利益を得る者にはできる範囲で負担してもらう。


兵庫津だけが有馬を養う形にはしない。


有馬が栄えることで、次の道普請の銭が生まれる仕組みにしたかった。


書状を書き終えたころだった。


「殿。岩蔵殿が参っております」


「岩蔵が?」


珍しい。


阿波部岩蔵には兵庫津の警邏を任せている。


わざわざ有馬まで来るからには何かある。


「通せ」


しばらくして、大きな身体が入ってきた。


病床に伏していたころとは、もう別人だった。


まだ空蝉から無理をするなと言われているらしいが、顔色はすっかり戻っている。


「殿」


「どうした」


岩蔵は座るなり言った。


「兵が足りません」


あまりに直截だった。


少弐は一瞬黙り、それから地図を見た。


「……やっぱりそう思うか」


「思うも何も、足りません」


岩蔵は指を伸ばした。


「最初は兵庫津だけだった」


清盛館。


港。


市中。


それなら赤木甚兵衛と岩蔵の手勢でも、どうにかなる。


ところが今は違う。


「須磨まで殿の直轄でしょう」


「ああ」


「有馬も入った」


「ああ」


「六甲の道も守ると言い出した」


「言ったな」


「人が足りるわけねえでしょう」


少弐は何も言い返せなかった。


もっともだった。


岩蔵は続けた。


兵庫津の市中を巡る。


港周辺は赤木が見る。


須磨方面の街道も見る。


六甲へ入る道も見る。


有馬へ抜ける旅人を守る。


古い砦跡へ山賊が入り込まないよう、ときどき山にも人を出す。


さらに有馬そのものにも、いざというとき動ける兵が必要になる。


「俺の仲間をいくら集めたって限りがあります」


「有馬衆にも兵はいる」


「いますよ」


岩蔵は頷いた。


「でも有馬を守るので手いっぱいでしょう」


それも正しい。


少弐は地図を眺めた。


領地が増えた。


商いも増えた。


船も増えた。


蔵も増えた。


道も増えた。


ところが――


それを見る目と、


守る兵は、


同じ速さでは増えていない。


「目も足りないな」


少弐が呟いた。


岩蔵が頷く。


「渡辺殿だけじゃ無理でしょう」


東の詰所に渡辺がいる。


畿内から来る軍勢を見る。


国人の出入りを見る。


武具の不自然な動きを調べる。


だが丹波だけではない。


いまや若狭まで動き始めている。


少弐は机の上に置いていた報告書へ目をやった。


若狭。


秀吉の軍勢が入り、織田方がかなり食い込んでいる。


だが完全に平らげたとは言い難い。


まだ半分、生焼けだった。


城も残る。


織田へ従った者もいれば、情勢を見ている者もいる。


表面上は織田方になびいても、腹の中までは分からない。


丹波はさらに複雑だった。


明智が先に入ったにもかかわらず、国人を一つずつ調略しているため時間がかかっている。


だが――


遅いからといって、止まっているわけではない。


少弐は若狭から丹波へ指を動かした。


そして、その指を西へ滑らせる。


播磨。


兵庫津。


「来ているな」


岩蔵が聞いた。


「何がです?」


「織田だ」


織田の旗が兵庫津の前まで来たわけではない。


軍勢が播磨へ雪崩れ込んできたわけでもない。


だが気配はある。


若狭へ入った。


丹波へ入っている。


一つずつ国人と話をつけている。


道を押さえる。


城を押さえる。


味方を増やす。


気がつけば、その勢力圏が以前より確実に西へ伸びている。


「若狭はまだ半分生焼けだ」


少弐は言った。


「丹波も終わっていない」


岩蔵は黙って聞く。


「だが、それでも前より近い」


織田がこちらを攻めると決まったわけではない。


むしろ今のところ、山城・大和への直接的な侵入の動きはない。


だからこそ厄介だった。


敵なら備えればいい。


味方なら手を結べばいい。


まだどちらでもない。


その巨大な勢力が、少しずつこちらへ近づいている。


少弐は腕を組んだ。


「兵が足りない」


「だから言ったでしょう」


「目も足りない」


「それも」


「船は増えた」


「へえ」


「蔵も増えた」


「増えましたな」


「仕事も増えた」


「殿が増やしてますからね」


少弐は岩蔵を睨んだ。


岩蔵は平然としている。


「……お前、ずいぶん言うようになったな」


「一度死んだんで」


それを言われると少弐は弱かった。


思わず笑った。


しかし問題そのものは笑えない。


少弐はもう一度地図を見る。


兵庫津は商いの町として育ち始めた。


須磨まで直接押さえた。


有馬衆も加わった。


北には六甲。


東には畿内。


西には播磨。


南には瀬戸内。


守るべきものが増えたからこそ、


いままで曖昧だった弱点がはっきり見え始めていた。


兵が足りない。


そして、


目が足りない。


少弐はふと、また一人の男を思い出した。


シレトク。


播磨にいたころは、いることが当たり前になっていた。


城へ出入りする者を見る。


市へ行く。


商人と話す。


何が売れているか調べる。


武具が増えていれば理由を探る。


誰と誰が会っているか覚える。


必要なら山へも入る。


そして少弐が尋ねる前に、


「少し気になることがあります」


と持ってくる。


いなくなって初めて分かる。


あの男一人が担っていた仕事は、ずいぶん大きかった。


「……シレトクがいればな」


岩蔵が少弐を見る。


少弐は苦笑した。


「最近こればかり言っている気がする」


「なら呼び戻したらどうです」


「暇をやったんだ」


少弐は首を振った。


「帰ってくるまでは休ませる」


そこだけは変えるつもりがなかった。


ならば別の方法を考えるしかない。


少弐は新しい紙を出した。


「岩蔵」


「へえ」


「兵庫津へ戻ったら、使える者を選べ」


「山の連中から?」


「それもだ」


元山賊。


食い詰めた地侍。


元兵。


ただし腕っ節だけでは選ばない。


命令を守る。


旅人から物を奪わない。


銭を受け取って見逃さない。


そういう者を選ぶ。


「警邏を増やす」


「須磨にも?」


「ああ」


「有馬は?」


少弐は少し考えた。


「有馬衆と組ませる」


外から兵を大量に置けば、有馬を取り上げたように見える。


それは避けたい。


土地を知る有馬衆を中心にし、その不足分だけ兵庫津から補う。


そして六甲の山道には、山に強い者を置く。


「それでも足りませんぜ」


岩蔵が言った。


「分かっている」


少弐は答えた。


これは応急処置にすぎない。


本当に兵庫津・須磨・有馬を一つの圏として守るなら、


警邏とは別に、


有事に集められる兵の仕組みそのものを考えなければならない。


さらに情報を集める者も増やす必要がある。


少弐は筆を置いた。


「戻ったら一度、全部組み直す」


赤木。


岩蔵。


渡辺。


松浦。


有馬衆。


須磨の者たち。


そして清盛館。


誰が何を見る。


誰がどこを守る。


戦になったら、どこへ集まる。


そこまで決める。


だが、少弐はまだ有馬を離れなかった。


腰を治すためでもある。


有馬を形にするためでもある。


そしてもう一つ。


少弐は、少し距離を置いて自分の領分を眺める必要があると感じていた。


湯煙の向こう。


六甲のさらに東では、


明智が丹波をほどいている。


その向こうでは、


秀吉が半ば生焼けの若狭へ食らいついている。


織田はまだ播磨へ来ていない。


だが――


その気配だけは、


確かに西へ忍び寄っていた。

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