北国への刃――有馬に届いた若狭攻略の報
九月も終わりに近づいたころ。
少弐はまだ有馬にいた。
表向きは領内巡見の続きであり、有馬衆を新たに組み込んだ以上、土地の仕組みを整える必要もあった。
兵庫津へ通じる道。
六甲の古い砦跡。
街道警邏。
そして有馬に設ける館。
仕事はいくらでもある。
だが少弐自身にとっては、もう一つ大きな目的があった。
腰を休ませることだった。
その日も少弐は湯から上がったあと、有馬に設けた仮の執務所で書状を読んでいた。
清盛館から来たもの。
渡辺からの報告。
播磨国人からの知らせ。
そして畿内各地から集められた風聞。
その中に、一通だけ少弐の手を止めさせるものがあった。
「……若狭?」
少弐はもう一度読む。
織田方が若狭方面へ本格的に動き始めた。
そして、その前面に出ているのが――
「羽柴秀吉」
少弐は地図を引き寄せた。
有馬。
兵庫津。
山城。
丹波。
若狭。
越前。
指で位置を追っていく。
「こっちのほうが先に動くのか」
少弐は小さく呟いた。
織田の動きそのものに驚いたわけではない。
北へ進むことは以前から予想していた。
むしろ気になったのは丹波だった。
丹波には、ずっと以前から明智光秀が入っている。
戦だけではない。
国人たちと接触し、
条件を示し、
味方を増やし、
戦わずして取り込めるところを取り込もうとしている。
少弐のところにも、明智から話が来たことがある。
だからこそ、
――丹波は先に片がつく。
少弐はそう思っていた。
ところが実際には違う。
「遅いな」
少弐は地図の丹波を指で叩いた。
明智が無能なのではない。
むしろ逆だ。
あの男が時間をかけているなら、時間がかかるだけの理由がある。
丹波には国人が多い。
山が多い。
城も多い。
一つの大勢力を倒せば終わる土地ではない。
一人を味方につければ、その隣が警戒する。
別の一人を調略すれば、古い因縁を持つ者が反発する。
話がまとまったと思えば条件が変わる。
「丹波は戦ではなく、人をほどいているのか」
少弐は呟いた。
それに比べれば、若狭は違う。
海沿いに国が細長く伸びる。
重要な港もある。
若狭を押さえれば、日本海側への出口ができる。
さらに越前方面へ圧力をかけることもできる。
そして何より――
「秀吉か」
少弐は少し笑った。
明智とはやり方が違う。
光秀が糸を一本ずつほどいていく男なら、
秀吉は隙間を見つければ、そこへ身体ごと入り込んで道を作る。
そんな印象があった。
少弐は報告をもう一度読んだ。
若狭攻略。
まだ完全に平定されたわけではない。
だが軍勢が動き、土地の者たちも反応し始めている。
明智がずっと以前から丹波へ入っていることを考えれば、
後から始まった若狭のほうが、目に見えて先へ進んでいるようにも見えた。
「面白いな」
地図を眺める。
だが少弐にとっては、他人事ではない。
丹波が動けば播磨が動く。
若狭が動けば日本海が動く。
日本海が動けば、北国の物流にも影響する。
そして今の少弐には兵庫津がある。
瀬戸内から荷を集め、
西は毛利領を経て周防、博多、対馬、朝鮮へつながった。
北には有馬を加えた。
東には渡辺を置き、畿内の軍勢を見張らせている。
だから織田軍がどこへ進むかは、そのまま兵庫津の商いにも関係する。
少弐は新しい紙を出した。
まず渡辺へ書く。
若狭へ向かう軍勢と荷駄の動きを調べよ。
ただし兵庫津を通る商人を邪魔してはならない。
次に、播磨の国人たちへ。
丹波方面から流れてくる兵、浪人、避難民の動きに注意すること。
特に武具を大量に買う者がいれば知らせる。
そこまで書いて、少弐は筆を止めた。
また仕事をしている。
有馬へ来た理由の半分は休養だったはずだ。
「……シレトクがいたらな」
また口から出た。
こういうときだった。
丹波の国人同士のつながり。
誰が誰の城へ頻繁に出入りしている。
どこの市で米が急に値上がりした。
武具を買い集めている者がいる。
馬が消えた。
人足が集められている。
そういう小さな変化を拾わせれば、シレトクは何かを持って帰ってくる。
だが、いないものは仕方がない。
少弐は書状を畳んだ。
外を見る。
有馬の山々は静かだった。
この山の向こうでは、国が動いている。
丹波では明智光秀が、時間をかけて人を崩している。
そのさらに向こうでは羽柴秀吉が若狭へ手を伸ばし始めた。
そして自分は兵庫津に蔵を建て、有馬に館を建てようとしている。
戦をしているわけではない。
だが少弐にも分かっていた。
道を造ることも、
港を造ることも、
銭を貸すことも、
国人を味方につけることも、
結局は同じ地図の上で行われている。
少弐は丹波と若狭を交互に見た。
「さて」
どちらが先に動く。
明智か。
秀吉か。
そして、その動きが播磨へ何を運んでくる。
少弐は立ち上がろうとして――
腰に手を当てた。
「……まず湯だな」
今度ばかりは仕事を置いた。
畿内の情勢は動き始めている。
だが有馬へ来た以上、
少弐自身が動けなくなっては意味がなかった。




