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兵庫津の奥座敷――少弐、有馬に館を置く

有馬衆の案内を受け、少弐は六甲の山道を越えた。


兵庫津から見れば、それほど遥かな土地ではない。


だが実際に歩いてみれば、地図で見る距離とはまるで違った。


道は細い。


坂は急である。


荷を背負った人なら通れるが、大きな荷車には厳しい場所もある。


雨が降ればぬかるみ、斜面から土が流れ込む。


少弐は何度も足を止めた。


「ここは直せる」


「こちらは?」


「無理に広げるより、迂回したほうが早いな」


有馬衆と渡辺たちが記録していく。


少弐はただ有馬へ向かっているのではなかった。


すでに街道普請の下見を始めていた。


やがて山間に有馬の町が見えてきた。


「……なるほど」


少弐が最初に抱いた感想は、それだった。


悪い土地ではない。


むしろ面白い。


湯がある。


湯宿がある。


寺社がある。


古くから人が訪れてきた土地だけあって、それなりの町並みも残っている。


だが――


寂れていた。


「惜しいな」


少弐が呟く。


動乱が長すぎた。


畿内と四国を巻き込んだ争いの中で、有馬をまとめていた秩序は崩れた。


街道を通る者が減った。


有力者がいなくなったことで大きな普請も行われない。


湯そのものは今も湧いている。


土地の者も懸命に守っている。


それでも往時の賑わいはない。


有馬衆の一人が、山を指した。


「六甲の周りには、昔の砦もございます」


「使えるのか?」


「いえ」


男は首を振った。


「長く使っておりませぬ」


古びている。


柵は朽ち、建物もほとんど残っていない。


さらに有馬をまとめる者がいなくなった後、わざと壊した場所もあるという。


「なぜ壊した?」


少弐が尋ねる。


「山賊に使われますので」


「ああ……」


少弐は納得した。


使わない砦ほど危険なものはない。


山道を見下ろせる。


人が籠もれる。


雨露をしのげる。


そこへ山賊が入れば、旅人を襲う根城になる。


だから自分たちで使えない砦は、敵にも使えないように壊した。


「場所だけは分かるか?」


「すべてではありませんが」


「あとで見たい」


そう答えながら、少弐はふと思った。


――こんなとき、シレトクがいればな。


北方で少弐の右腕となった男。


地形を見る。


人を見る。


何気ない会話から土地の事情を拾う。


誰と誰が仲がいい。


誰と誰が仲が悪い。


どこに人が集まる。


何が売れる。


どこに蔵を置けばいい。


どこを守ればいい。


少弐が細かく命じなくても、必要なものを拾って持ってきた。


播磨でその能力を改めて知ったからこそ、いなくなると余計に分かる。


「シレトクなら、もう山を歩き回っているだろうな」


「何か?」


ライラが聞いた。


「いや」


少弐は首を振った。


「右腕がいないと不便だと思っただけだ」


それでも仕事は進めなければならない。


少弐は有馬の町を歩いた。


湯宿を見る。


道を見る。


空いている土地を見る。


寺社の位置を見る。


そして有馬衆と話し合った末、一つの方針を決めた。


「館を置こう」


有馬衆が顔を上げた。


「城ですか?」


「違う」


少弐は即座に否定した。


大きな城はいらない。


有馬を軍事拠点にしたいわけではない。


少弐自身や家臣が滞在できる館。


政務ができる。


客人を泊められる。


護衛が詰められる。


そして何より、


湯を利用できる。


「兵庫津の奥座敷にする」


聞き慣れない表現に、有馬衆が顔を見合わせた。


少弐は説明した。


「俺が使う」


清盛館で仕事をする。


疲れれば有馬へ来る。


ここでも書状を読み、指示を出せるようにする。


つまり休養と政務を両立できる場所にする。


「俺が使えば、家臣も来る」


少弐は続けた。


「家臣が来れば、その供も来る」


飯を食う。


宿を使う。


酒を飲む。


土産を買う。


「その様子を見れば、商人も来る」


兵庫津へ瀬戸内からやって来た商人。


遠く朝鮮から戻ってきた者。


四国から海を渡ってきた者。


播磨の奥から街道を歩いてきた者。


彼らにとって有馬の湯は強力な魅力になる。


堺には巨大な市場がある。


銭もある。


商品もある。


職人もいる。


兵庫津がそれを真似しても勝てない。


だが――


「堺には、これがない」


少弐は湯煙を見る。


海を越え、


街道を歩き、


疲れ切った身体を湯へ沈める。


それ自体が商品になる。


少弐は有馬を見ながら、兵庫津とは違う可能性を感じていた。


兵庫津には蔵を造る。


船を集める。


荷を集める。


銭を動かす。


有馬では、人を休ませる。


「道を直そう」


少弐は言った。


兵庫津から有馬まで。


一度にすべてを立派な街道にする必要はない。


危険な場所から直す。


崩れやすい場所を補修する。


水を逃がす。


橋を直す。


必要な場所には道標を置く。


休める場所も作る。


そして古い砦の跡も調べる。


軍事拠点として復活させる必要はない。


だが街道を見張る小さな詰所として使える場所があれば利用する。


山賊が使うくらいなら、こちらが道を守るために使えばいい。


「有馬まで安心して歩けるようにする」


それが少弐の方針だった。


そして少弐自身は、しばらく有馬に滞在することにした。


理由は仕事だけではなかった。


腰である。


長年の古傷は、完全には消えていない。


馬に乗る。


船に乗る。


山を歩く。


長時間座って書状を読む。


少弐は身体を酷使しすぎていた。


有馬へ着いた日の夕刻。


少弐はようやく湯へ身体を沈めた。


「……ああ」


思わず声が漏れた。


腰の周りから力が抜けていく。


道後とはまた違う。


北方の厳しい寒さの中で入った湯とも違う。


山に囲まれた静かな湯だった。


少弐は岩へ背を預けた。


しばらく何も考えないつもりだった。


だが、目を閉じると浮かんでくる。


兵庫津。


須磨。


有馬。


三田方面。


六甲の道。


古い砦。


詰所。


荷駄。


商人。


「……結局、仕事を考えているな」


自分で笑った。


それでも、ここならいい。


身体を湯に預けながら指示を考える程度なら、腰も休ませられる。


翌日から少弐は、有馬の館予定地に仮の執務場所を置いた。


朝は書状を読む。


昼は有馬衆と道や村について話す。


必要なら近くまで視察する。


夕方になれば仕事を切り上げる。


そして湯へ入る。


清盛館からも書状が届いた。


渡辺から畿内の動き。


赤木甚兵衛から港の様子。


阿波部岩蔵から警邏の報告。


松浦から貸付と船難講の帳面。


少弐は有馬にいながら、兵庫津を動かし続けた。


その姿を見て、有馬の者たちも少しずつ理解した。


少弐は有馬を奪いに来たのではない。


ここを使おうとしている。


そして使うからこそ、道を直す。


人を呼ぶ。


銭を落とす。


少弐が湯へ来る。


家臣が来る。


商人が来る。


旅人が来る。


人が増えれば宿が増える。


食べ物が売れる。


土産が売れる。


馬を扱う者にも仕事ができる。


寂れていた湯の町に、少しずつ未来の形が見え始めた。


兵庫津が海の玄関なら、


有馬はその奥で旅人を迎える座敷になる。


少弐は清盛館だけを育てるつもりはなかった。


海から入ってきた人と富を、


道を通して周囲へ流す。


兵庫津から六甲を越え、有馬へ。


そしていつか、その先へ。


少弐は湯の中で腰を伸ばした。


「まずは治さないとな」


街道のことなのか。


有馬のことなのか。


自分の腰のことなのか。


本人にも、もう分からなかった。

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