↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
776/1028

厳島の約定――海の道、朝鮮へ通ず

季節が八月へ移ろうころ。


厳島に、そのための場が整えられた。


夏の瀬戸内は明るい。


海面には強い陽が反射し、島の緑も濃い。


だが、毛利元就にとってこの暑さは少々堪えるものになっていた。


年齢を考えれば無理もない。


今回は元就自身がすべてを取り仕切る場でもない。


毛利のこれからを担う者たちがいる。


吉川元春。


小早川隆景。


毛利輝元。


そして毛利家臣たち。


そこへ海を渡って那須資忠がやってきた。


少弐冬明もともにいる。


やや離れたところには、それぞれの家臣たちが控えていた。


誰も大軍を連れてきてはいない。


そもそも今日は、軍事同盟を結ぶ日ではなかった。


兵を何人出す。


敵をどこと定める。


どちらがどちらを助ける。


そんな文言は一つもない。


決めるのは、海の使い方だった。


厳島。


この場所は、そこにいる者たちにとってそれぞれ違う意味を持っていた。


毛利にとっては言うまでもない。


かつて元就が、この海と島を舞台に大きな戦を制した場所である。


だが那須にとっても、厳島はただの毛利領の島ではなかった。


四国を預かり、


来島や能島をはじめとする海の者たちと向き合い、


西国の海をどう治めるかを考え続けてきた。


その那須が、今度は争うためではなく、


――海で争わぬため。


その約束を結ぶために厳島へ来ている。


そして少弐にとっても、この島には妙な縁があった。


自分の兵庫津の館は、


清盛館。


平清盛。


かつて瀬戸内の海を見つめ、兵庫から西へ海路をつないだ人物。


その名を借りた館を兵庫津に構えた少弐が、今、その航路の西にある厳島で毛利と向かい合っている。


「妙なものだな」


少弐が小さく言った。


那須が横を見る。


「何がです?」


「清盛館を作って、厳島で海の約定を結ぶ」


那須も少し笑った。


「なら、場所としては出来すぎですな」


「そう思う」


やがて双方が席についた。


文言はすでに詰められている。


難しい約定ではない。


だからこそ、互いに守れる。


平時において、互いの商船が港へ入ることを認める。


互いの商船を攻撃しない。


必要な水や食糧などの補給を認める。


港での商取引を認める。


軍事同盟ではない。


戦時に援軍を送る義務もない。


有事の港湾使用についてまで保証するものでもない。


そして村上氏をめぐって問題が生じた場合、四国側については那須資忠が責任を負い、裁定する。


毛利側と問題が生じれば、その窓口を明確にする。


誰が責任者なのか分からないまま、海上で船同士が報復を繰り返すことを避ける。


ただそれだけだった。


だが、その「それだけ」が大きかった。


那須が文面を確認する。


隆景も確認する。


元春が頷く。


輝元も目を通した。


少弐は最後にもう一度、文面を見た。


領地の割譲はない。


臣従もない。


軍役もない。


ただ道を開く。


「異存ありません」


少弐が言った。


那須も頷く。


「こちらも」


毛利側も同意した。


そして約定が交わされた。


その瞬間。


地図の上では何も変わらない。


城が一つ増えたわけではない。


領土が一里広がったわけでもない。


新しい軍勢が生まれたわけでもない。


だが少弐の頭の中では、一本の線が一気に西へ伸びた。


兵庫津。


そこから備前。


安芸。


そして――


周防。


ここまで道が開いた。


少弐は目を閉じる。


さらに西には博多がある。


博多から対馬。


対馬から海を渡る。


朝鮮。


すでに少弐自身が通った道だった。


かつては一度の使節として進んだ道。


港ごとに話をつけ、


相手を探し、


その都度安全を確認しながら進んだ道。


それが今度は違う。


兵庫津から西へ向かう商船が、


毛利領の港へ入り、


補給し、


商いをし、


さらに西へ進める。


周防まで抜ければ、その先は博多へつながる。


博多から対馬へ。


そして朝鮮へ。


一本になった。


少弐は海を見た。


「通ったな」


那須が聞いた。


「何がです?」


「道だ」


少弐は静かに答えた。


「兵庫津から朝鮮まで」


那須も海を見る。


しばらくして、


「ああ」


とだけ答えた。


大げさな歓声はなかった。


勝鬨もない。


当然だった。


今日は戦に勝ったわけではない。


城を落としたわけでもない。


だが少弐にとっては、確かな勝利だった。


兵庫津から周防まで。


周防から博多へ。


博多から対馬へ。


そして朝鮮へ。


人が行ける。


船が行ける。


品が行ける。


手紙が行ける。


情報が帰ってくる。


播磨の紙を運べる。


塩を運べる。


これから作る包丁や農具も運べる。


毛利の品も兵庫津へ来る。


九州の品も東へ来る。


朝鮮の品も同じ道を通って戻ってくる。


海の道とは、船が通れるだけでは道ではない。


途中で水を取れる。


食料を買える。


荷を売れる。


嵐を避けられる。


そして何より、


そこへ入っただけで攻撃されない。


それが保証されて、初めて商いの道になる。


少弐はようやく、それを一本につないだ。


元就は少し離れたところから、その様子を見ていた。


暑さは堪える。


昔ならばもっと長く席に残り、細かなところまで自分で確かめただろう。


だが今は息子たちがいる。


孫もいる。


那須がいる。


そして少弐がいる。


元就は海を眺めた。


かつてこの海で、自分は敵を破った。


今日、この者たちは同じ海に道を作った。


時代が変わるとは、こういうことなのかもしれなかった。


少弐は約定の文書を見た。


これで終わりではない。


兵庫津を整えなければならない。


商人を呼ばなければならない。


船も増やす。


播磨の商品も育てる。


問題はいくらでも残っている。


それでも。


少弐は一度だけ、仕事の続きを考えるのをやめた。


厳島の海を見る。


そして小さく息を吐いた。


一つ、果たした。


長い旅の途中で拾った縁をつなぎ、


四国と毛利の間に残った海の問題を整理し、


兵庫津から周防まで道を開いた。


その先には、


博多。


対馬。


朝鮮。


かつて少弐自身が船で巡った海がある。


今度は自分一人の旅ではない。


商人たちが通る道になった。


八月を迎えようとする厳島。


夏の光に満ちた瀬戸内を前に、


少弐冬明はようやく、


自分が任された仕事を一つ、確かに果たしたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。