↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
775/1025

海を争わぬ約定――厳島への約束

北の話も、昔の戦の話も、ひとまずそこで一段落した。


隆景の前には、いつの間にか書き込みだらけになった地図が残っている。


室蘭。


さらに北。


チョルガル。


少弐が指で示すたびに、隆景が線を引き、地名を書き込んだ跡だった。


元春のところでは、陶晴賢との話がまだ続きそうだった。


かつて敵として向かい合った戦を、


「あのとき、そちらからはどう見えていた」


「こちらではこう考えていた」


と語り合っている。


輝元もそれを興味深そうに聞いていた。


やがて茶が運ばれてきた。


皆が座り直す。


少弐も茶碗を手にした。


一口。


そして置いた。


ここからが本題だった。


「元就公」


少弐が言った。


「まず一つ、ご報告があります」


元就が目だけを向ける。


「村上の件です」


元春と隆景も表情を改めた。


「那須が話をつけました」


四国側の村上。


安芸側の村上。


長く海で生きてきた者同士だからこそ、それぞれに縄張りがあり、誇りがあり、古い因縁もある。


四国の動乱が収まったからといって、それだけで人間同士の恨みまで消えるわけではなかった。


だが那須は、村上の自治そのものを奪う道を選ばなかった。


「今までどおり、それぞれの海で生きることは認めます」


少弐は説明した。


「ただし今後、村上同士で問題が起きた場合、四国側については那須が責任を持って裁きます」


隆景が尋ねた。


「つまり、四国側で何かあれば那須殿へ話を持っていけばよい、と?」


「はい」


「少弐殿ではなく?」


「俺ではありません」


少弐ははっきり答えた。


「四国は那須の仕事です」


元就の目がわずかに動いた。


少弐は続ける。


「ですから俺は、四国について毛利家と約束をするつもりはありません」


それを最初に明確にしておきたかった。


少弐が毛利と親しくなったからといって、四国のことまで勝手に決める。


それでは那須を立てた意味がない。


「四国側の責任者は那須です」


少弐は言った。


「必要なら、那須本人を連れてきます」


元春が頷いた。


隆景も異論を挟まない。


そこで少弐は、もう一つの話へ移った。


「そのうえで、お願いがあります」


「何でしょう」


隆景が尋ねる。


「毛利領の港を使わせていただきたい」


部屋が静かになった。


少弐は慌てて言葉を足さなかった。


条件は最初から決めている。


余計なものを入れない。


「ただし」


少弐は続けた。


「平時だけです」


元春が少弐を見る。


「有事は?」


「別です」


即答だった。


戦になったときまで港を使わせろとは言わない。


軍船を入れさせろとも言わない。


兵を置かせろとも言わない。


毛利が誰かと戦えば坂東が助ける。


坂東が戦えば毛利が助ける。


そんな話でもない。


「軍事的な約束をしたいのではありません」


少弐は言った。


「俺が欲しいのは商いの道です」


兵庫津から西へ。


備前を経て安芸へ。


さらに西へ進めば九州。


そして海を渡れば朝鮮。


その道を商船が往来できるようにしたい。


条件は少ない。


互いに港を使う。


互いの商船を攻撃しない。


水や食料などの補給を認める。


必要なら荷を売買する。


「それだけです」


少弐は言った。


「毛利の商人が兵庫津へ来るのも構いません」


隆景が尋ねる。


「坂東の港も?」


「平時なら同じです」


一方だけが得をする約束ではない。


毛利の船が兵庫津へ入る。


坂東側の船が毛利領の港へ入る。


商人同士が物を売る。


必要なら水を積む。


食料を買う。


船を休ませる。


ただ、それだけ。


「同盟ではありません」


少弐はもう一度確認した。


「互いの戦に兵を出す義務もない」


元就は黙っている。


少弐は元就を見た。


返事を待った。


だが元就は答えない。


茶を飲む。


そして息子たちを見る。


少弐には分かった。


これは元就が答える話ではない。


少なくとも、元就自身はそう決めている。


これから毛利を動かしていく者たちに答えさせるつもりなのだ。


最初に口を開いたのは隆景だった。


「兄上」


元春が頷く。


二人とも、すでに腹は決まっていた。


輝元も祖父を見る。


元就は何も言わない。


輝元は今度は叔父たちを見る。


そして少弐へ向き直った。


「いいでしょう」


少弐は黙って聞いた。


隆景が続ける。


「ただ、今日ここで口約束だけというわけにもいきますまい」


「もちろんです」


「ならば改めて文言を整えましょう」


元春が言った。


「那須殿にも来てもらったほうがいい」


少弐は頷いた。


村上の問題を含む以上、そのほうがいい。


隆景が少し考え、


「厳島ではどうでしょう」


と言った。


少弐が顔を上げる。


「厳島?」


「ええ」


毛利にとっても意味のある場所。


瀬戸内に生きる者たちにとっても知られた島。


そして今回の約束は、陸の境界を決めるものではない。


海の往来についての約束である。


「後日、那須殿にも来ていただき」


隆景は言った。


「厳島で正式に約定を交わしましょう」


少弐は笑った。


「異存ありません」


そこで皆の視線が元就へ向いた。


元就はしばらく何も言わなかった。


そして――


頷いた。


それだけだった。


話は決まった。


だが元就は茶碗を手にしながら、息子たちと孫を眺めていた。


元春。


隆景。


輝元。


よくできている。


本当によくできた息子たちだった。


そして可愛い孫である。


だからこそ、元就には見えるものもあった。


人がいい。


悪いことではない。


だが自分ほど、人を疑わない。


少弐が、


――軍事同盟ではない。


――平時の商いだけ。


――港を使わせてほしい。


そう言えば、その言葉をまずそのまま受け取る。


もちろん少弐が嘘をついているとは元就も思っていない。


むしろ、あの男は本当にそれだけを求めているのだろう。


そこがまた妙だった。


欲が薄い。


少なくとも、普通の武将が持つような欲とは違う。


領地を寄越せとは言わない。


臣従しろとも言わない。


四国へ口を出す機会があるのに、


――そこは那須の仕事だ。


と自分から手を引く。


それでいて気づけば、


兵庫津。


四国。


安芸。


九州。


朝鮮。


そこに一本の道ができようとしている。


元就なら、その道が十年後に何を生むかまで考える。


息子たちも考えていないわけではない。


だが――


まだ甘い。


したたかさが足りない。


欲目も薄い。


少弐の提案を受けるなら、


――こちらは何をもう一つ取れる。


そう考えてもよかった。


元就は少しだけ笑った。


仕方ない。


自分と同じ人間を三人作った覚えはない。


元春には元春の良さがある。


隆景には隆景の良さがある。


輝元には、これから覚えることが山ほどある。


それでいい。


よくできた息子たちと、


可愛い孫だ。


老いた元就には、それで十分だった。


「厳島か」


元就がようやく一言だけ発した。


隆景が見る。


「よい場所を選んだな」


それ以上は言わなかった。


少弐も茶碗を取った。


これで道が一つ開く。


まだ約定そのものは結ばれていない。


だが毛利も、


那須も、


少弐も、


同じ席へ着くことを決めた。


兵を通すためではない。


国を奪うためでもない。


商人と船を通すために。


瀬戸内の海に、新しい約束が生まれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。