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北の海と古き戦――毛利の座敷に開いた道

道後での休養を終え、少弐一行は再び安芸へ向かった。


今度は以前とは顔ぶれが少し違う。


少弐。


その傍らには、護衛ではなく奥方として同行するライラ。


そして那須が四国から付けた護衛――陶晴賢。


さらに二羽の鷹を連れていた。


毛利家へ到着すると、元就だけではなかった。


吉川元春。


小早川隆景。


そして毛利輝元。


三人も顔を揃えていた。


陶にとっては、奇妙な場所だった。


毛利とはすでに一度顔を合わせている。


だから今さら対面そのものを拒むようなことはない。


しかし、自分から積極的に話そうとも思わなかった。


今日は少弐の護衛である。


必要がなければ黙っていればいい。


そう思い、少し後ろへ控えた。


少弐も無理に陶を紹介して話題の中心へ押し出すようなことはしなかった。


まずは約束を果たした。


「元春殿」


少弐が一羽の鷹を見せた。


「以前お約束したものです」


元春の目が変わった。


「おお」


「室蘭の大鷹です」


元春が鷹を見たあと、少弐を見る。


「室蘭?」


そこで隆景も顔を上げた。


「どこの地です?」


少弐は一瞬考えた。


説明しようとしたところで、道後でのライラの言葉を思い出した。


――珍しい物を探さなくてもいい。


――少弐が見てきたものを、そのまま話せばいい。


ならば、そのまま話そう。


「蝦夷地です」


少弐は答えた。


「かなり北になります」


「そこまで行かれたのですか」


隆景が尋ねる。


「最初から行くつもりだったわけではありません」


少弐は苦笑した。


「もともとは朝鮮への使節だったのです」


朝鮮へ行く。


交易について話す。


書物を見る。


それで終わるはずだった。


「ところが氏治公が、オットセイの牙だの鯨の油だのを欲しがりまして」


元春が笑った。


「それで蝦夷まで?」


「最初はその程度でした」


「最初は?」


隆景がすぐ拾った。


少弐は笑った。


「行けば、その先が気になるでしょう」


蝦夷地へ渡った。


さらに北へ行った。


海岸を測った。


現地の者から話を聞いた。


そしてついには樺太へ渡り、そのさらに北へ向かった。


「言葉は通じるのですか」


輝元が尋ねた。


「途中までは何とか」


少弐は答えた。


「ですが北へ行くほど、そうはいかなくなりました」


言葉が通じない。


だから物を見せる。


指を差す。


絵を描く。


知っている言葉をいくつか試す。


通訳できる者を探す。


酒を出す。


一緒に食べる。


少しずつ言葉を拾う。


「そうやって話しました」


「それで交渉まで?」


隆景が聞く。


「あちらも人ですから」


少弐は言った。


「こちらが何を欲しがっているか分かれば、向こうも自分たちの欲しいものを示します」


そこから少弐の話は、北の土地そのものへ移っていった。


「トナカイという、大きな鹿のような獣がおります」


「鹿?」


元春が反応する。


「鹿に似ていますが少し違う」


少弐は手で角の形を示した。


「毛が非常に厚い。触ると驚くほどふかふかしている」


「それほど寒いのですか」


「寒いから、あの毛なのでしょう」


その土地では乳まで飲む。


肉を食べる。


皮を使う。


寒い土地で人が生きるために、動物を余すところなく利用している。


隆景は黙って聞いていた。


だが、明らかに表情が変わっていた。


少弐は続ける。


北の集落。


船。


食べ物。


海獣。


氷。


そして熊。


「熊?」


元春がまた反応した。


「追いました」


「少弐殿が?」


「ええ」


ライラが横から言った。


「死にかけましたけど」


「余計なことを言うな」


「本当でしょう」


元春が声を上げて笑った。


隆景も笑っている。


少弐は仕方なく説明した。


熊を追った。


川沿いに痕跡を見つけた。


現地の戦士たちと追跡した。


そして最後には、


「槍を振り回して、こちらへ気を引いていました」


隆景の笑みが消えた。


代わりに、考える顔になった。


「なぜです?」


「何がです?」


「なぜ熊が川沿いにいると思われたのです?」


少弐が止まった。


そこで初めて気づいた。


隆景の前には紙が置かれていた。


いつの間にか筆まで持っている。


「少しよろしいですか」


隆景は紙へ海岸線らしきものを描き始めた。


「日の本がここ」


少弐が覗き込む。


「だいたい」


「蝦夷地は?」


「もっと北です」


隆景が線を延ばす。


「室蘭はどこです?」


少弐が指す。


「このあたり」


隆景が印を付ける。


「では、チョルガルというのは?」


少弐は驚いた。


以前の話まで覚えている。


「さらにこちらです」


「この間は船で?」


「ええ」


「何日ほど?」


「天候によります」


「食料は?」


「保存食も積みますが、現地でも手に入れました」


「何を食べて生き延びたのです?」


「魚、獣肉、乾物。それから――」


質問が止まらない。


どの季節なら海を進めるのか。


どこから寒さが急に厳しくなるのか。


現地では何を燃料にするのか。


船はどこへ泊めるのか。


言葉が通じなくなった境はどこか。


なぜ熊を川沿いで探したのか。


トナカイを飼う者と狩る者は同じなのか。


少弐は途中でライラを見た。


ライラも少弐を見る。


少しだけ笑った。


――やっぱり。


そんな顔だった。


少弐も分かった。


道後で考え続けても見つからなかった隆景への贈り物。


そんなものは必要なかった。


北で自分が見た世界そのものを持ってくればよかったのだ。


隆景は知りたかった。


ただ、それだけだった。


一方。


少し離れたところに控えていた陶晴賢は、その様子を眺めていた。


少弐の護衛として来た。


だが、どうやら今日は護衛など必要なかったらしい。


陶がそう思っていると、不意に声をかけられた。


「陶殿」


吉川元春だった。


陶が顔を上げる。


「はい」


「一つ聞いてみたかった」


元春の顔には敵意がなかった。


「父上と戦っていたころのことだ」


陶の表情がわずかに固くなる。


だが元春は構わず続けた。


「あのとき、なぜ兵をあちらへ動かした?」


陶はしばらく元春を見た。


「どの戦のことでしょう」


元春が具体的な場所を挙げる。


陶にはすぐ分かった。


「……あれですか」


「父上から話は聞いている」


今度は隆景まで筆を置いた。


「私も聞きたい」


陶を見る。


「父からは布陣とその後の動きは聞いております。しかし、陶殿がなぜ最初にあの配置を選んだのかまでは分かりません」


陶は戸惑った。


責められているのではない。


昔の敵を詰問しているわけでもない。


純粋に聞いている。


――なぜ、あのときそう考えたのか。


陶はゆっくり答え始めた。


「まず、こちらから見えていた毛利方の兵数が――」


元春が頷く。


隆景が聞く。


輝元も黙って耳を傾ける。


途中で元春が、


「そこはこちらからは逆に見えていた」


と当時の毛利側の認識を話す。


陶が驚く。


「そう見えていたのですか」


「だから父上は動かなかった」


「なるほど……」


今度は陶から尋ねる。


「あのとき毛利殿が兵を退いたのは、誘いだったのですか」


隆景が答える。


「父から聞いた話では――」


いつの間にか、


毛利と陶。


勝者と敗者。


そんな境目が薄れていた。


同じ戦を、反対側から見ていた者たちが、


――あのとき何を見ていた。


――なぜそう判断した。


――こちらからはこう見えていた。


と語り合っている。


陶は途中から妙な感覚を覚えていた。


そして気づいた。


この場を作ったのは、少弐だ。


少弐は、


――昔のことは忘れろ。


などとは一度も言っていない。


仲直りしろとも言わない。


陶を毛利へ謝罪させたわけでもない。


ただ連れてきた。


鷹を渡した。


北の話をした。


皆が面白がった。


そして気づけば、自分まで昔の戦を毛利の者たちと語っている。


形は違う。


佐野昌綱には佐野の強さがある。


那須資忠には那須の豪快さがある。


二人とも、一国一方面を任せるに足る男だ。


だが、この少弐冬明という男には、二人にはないものがあった。


人と人の間に、いつの間にか席を一つ作る。


そこへ座らせる。


そして本人たちに話させる。


陶は少弐を見た。


少弐は隆景が描いた地図へ身を乗り出し、


「いや、そこまで近くない。もっと北です」


などと言っている。


ライラが横から、


「あなたの説明が悪い」


と笑っている。


元春は鷹を気にしながら、まだ陶との昔話を続けたそうにしている。


陶は静かに思った。


――なるほど。


佐野や那須とは、まるで違う。


だが、この男なら。


この男ならば、あの二人に足りないところを補える。


剣でもない。


兵でもない。


謀略だけでもない。


人と人の間に道を作る力。


それもまた、坂東が西国へ伸びていくために必要な力なのだろう。


陶晴賢はこの日、


少弐冬明という男を、


単なる外交使節でも商い好きの武士でもなく、


佐野昌綱や那須資忠と並び、互いに足りぬところを補い合える男なのだと、初めて確信した。

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