湯煙の答え――考えることをやめる
道後に来て、数日が過ぎた。
少弐は毎日、湯につかっていた。
よく寝てもいる。
食事も取っている。
外へ出るときも、以前のように朝から晩まで人に会っているわけではない。
だから本人は、きちんと休んでいるつもりだった。
しかしライラには、どうにもそうは見えなかった。
身体は道後にいる。
頭だけが、ずっと兵庫津と安芸を往復している。
湯から戻った少弐が、
「元春殿なら――」
などと呟いていることもあった。
紙があれば何か書いている。
何も持っていなくても、窓の外を眺めながら考えている。
「……休んでない」
ライラはそう判断した。
これまでは少弐と湯の時間をずらしていた。
那須が二人の休養のために取ってくれた場所なので、時間をずらせば、それぞれ気兼ねなく湯を使える。
だが、その日は違った。
ライラは少弐に、
「今日は少し遅く入るから」
と言っておいた。
そして少弐が入ったころを見計らい、わざと自分も湯へ向かった。
日本へ来たばかりのころとは違う。
もう日本式の湯の作法など完全に覚えている。
身体を洗い、湯へ入る。
何年か前なら、
――最初に何をするの?
――これはどこへ置くの?
と少弐に尋ねていたものだ。
今では何も迷わない。
それなのに。
「…………」
少弐は気づかない。
湯船の縁に背を預け、湯気の向こうを見ながら完全に考え込んでいた。
ライラはしばらく待った。
それでも気づかない。
「少弐」
「……隆景殿は――」
「少弐」
「うん?」
ようやくこちらを見る。
「いつからいた?」
「今」
ライラは少弐の向かい側で湯につかった。
「何を考えてたの?」
「小早川隆景殿」
やっぱり。
ライラは呆れた。
「那須殿に何て言われた?」
「休むのも仕事」
「覚えてるじゃない」
「覚えてはいる」
「やってない」
「湯には入っている」
「頭が働いてる」
少弐は反論できなかった。
やがて、諦めたように話し始めた。
「元春殿は少し分かってきた」
「吉川殿?」
「ああ」
一見すると、毛利元就という人物から武の部分を強く受け継いだように見える。
だが、実際にはそれほど単純ではない。
武を好むからこそ、古い戦にも興味がある。
戦を知ろうとすれば歴史を読む。
人を率いようとすれば人間も見る。
「だから軍記物を何か用意しようと思っている」
「いいんじゃない?」
「問題は隆景殿だ」
少弐は再び難しい顔になった。
「よく分からない」
漢籍だけでもない。
茶だけでもない。
寺社だけでもない。
商いの話にも乗る。
海の話も理解する。
珍しい品を見ても、その物自体に飛びつくというより、どこから来たのか、どういう土地の物なのかを考えているように見えた。
「何を持っていけば、あの人自身に届くのかが分からん」
ライラは黙って聞いていた。
少弐はさらに話す。
「元春殿には入口がある。鷹でも刀でも戦でもいい。だが隆景殿は――」
「知ることが好きなんじゃない?」
少弐が止まった。
「知ること?」
「うん」
ライラは少し考えながら言葉を探した。
「あなたが話している小早川殿って、何か一つが好きな人じゃないんじゃない?」
少弐は黙って聞く。
「ダ・ヴィンチみたいに」
「……なるほど」
「ソクラテスとか、アルキメデスとか」
もちろん同じ人物という意味ではない。
ライラが言いたいのは、その姿勢だった。
一つの物を集めることが目的なのではない。
世界がどうなっているのかを知る。
人間がどう考えるのかを知る。
土地がどうつながるのかを知る。
「たぶん、知そのものが好きなんじゃない?」
ライラは言った。
「だから武だって別じゃないのかも」
「武も知の一部?」
「そう」
どう戦うか。
なぜ勝つのか。
なぜ負けるのか。
どう船を動かすのか。
どう国を治めるのか。
それも全部、知ることの一つ。
少弐はしばらく何も言わなかった。
その見方はしていなかった。
元春を「武」、隆景を「知」と分けた。
だが隆景にとっては、そもそも武と知を分ける必要がないのかもしれない。
「だったら」
ライラが続けた。
「何か珍しい物を探さなくてもいいんじゃない?」
「というと?」
「少弐が見てきたものを話せばいい」
少弐がライラを見る。
「北でいっぱい見たでしょう?」
室蘭。
宗谷。
樺太。
アムール。
見たことのない動物。
海。
雪。
人々の暮らし。
アイヌの伝承。
交易。
知らない言葉。
虎皮がどこから来るのか。
イッカクの牙がどう流れるのか。
そして、少弐自身がそれをどう考えたのか。
「そういう話のほうが、小早川殿は喜ぶんじゃない?」
少弐は何も答えなかった。
ライラは少し心配になった。
「違った?」
「いや」
少弐は小さく笑った。
「たぶん、その通りだ」
ずっと考えていた。
何を贈ればいい。
何を見せればいい。
何なら隆景の興味を引ける。
だが、珍しい品ならすでにいくらでも見せている。
朝鮮人参。
虎皮。
焼物。
異国の品。
それ以上に珍しいものを探そうとしていた。
「俺は考えすぎていたらしい」
少弐が言った。
「でしょう?」
「お前に言われるとはな」
「どういう意味?」
「褒めている」
「本当に?」
「本当に」
少弐は笑った。
「ありがとう、ライラ」
今度はライラが少し黙った。
「……どういたしまして」
少弐は湯船の縁へ背を預け直した。
北で見たものを、そのまま話せばいい。
珍しい贈り物に仕立てなくていい。
自分が驚いたこと。
分からなかったこと。
現地の者に教えられたこと。
そこから考えたこと。
それを飾らず話す。
隆景が本当に「知ること」を好む人間なら、そのほうがきっと面白い。
「よし」
少弐が言った。
ライラがすぐ睨む。
「仕事する?」
「しない」
「本当に?」
「ああ」
少弐は目を閉じた。
「今日はもう考えない」
「明日は?」
「明日もなるべく考えない」
「なるべく?」
「……考えない」
ライラは満足そうに頷いた。
ようやく少弐の肩から力が抜けた。
何日も道後にいた。
だが本当に休み始めたのは、おそらくこの瞬間からだった。
少弐は目を閉じたまま言った。
「昔は俺がお前に、湯の入り方を教えたのにな」
ライラは笑った。
「今は私が休み方を教えてるね」
「そうらしい」
「進歩したでしょう?」
「ああ」
少弐はもう反論しなかった。
湯煙の中で、毛利のことも、播磨のことも、船のこともいったん手放した。
考え続けることだけが仕事ではない。
休むのも仕事。
那須に言われた言葉を、ようやく少弐は受け入れた。
そして残りの道後滞在では、本当に身体を休めることにした。




