湯煙の向こう――まだ見えぬ両川
道後へ来て数日。
少弐は、那須との約束どおり湯につかっていた。
少なくとも、形の上では。
湯気の立つ湯船に身体を沈め、背を縁に預ける。
身体は休んでいる。
問題は頭だった。
「……元春殿と隆景殿か」
結局、考えている。
吉川元春。
小早川隆景。
清盛館で実際に二人と話したことで、以前より人物像は見えてきた。
だが、分かったと思えば思うほど、逆に分からなくなっていた。
最初は簡単に考えていた。
吉川元春は武。
小早川隆景は知。
まるで毛利元就という一人の男から、武と知を二人の息子へ分けて濃くしたように見える。
実際、元春は武具や鷹の話によく乗った。
隆景は話を整理するのが早く、商いについても単に珍しい品を見るだけではなく、その品がどこから来て、どこへ流れるのかを見ていた。
だが――
「そんなに単純なわけがないな」
少弐は湯の中で呟いた。
元就自身がそうだった。
戦だけの男ではない。
謀略だけの男でもない。
昔話を始めれば楽しそうに語り、息子や孫の話になれば父や祖父の顔も見せる。
あれほど色々な顔を持つ男の息子が、
――こちらは武。
――こちらは知。
それだけで済むはずがない。
少弐は湯気を眺めた。
「こんなとき、シレトクがいればな……」
また思った。
これで何度目だろう。
シレトクなら、二人を直接問い詰めたりはしない。
元春の供の者と飯を食う。
隆景の家臣と世間話をする。
船頭と話す。
商人から噂を聞く。
そして何日かすると、
――あの方はこういうものが好きらしい。
――こういう話をすると機嫌がいい。
――家臣はこう見ている。
そんな断片を持って帰ってくる。
少弐は目を閉じた。
だが、いない者を頼っても仕方がない。
自分で考える。
元春は武を好む。
これは間違いない。
しかし、だからといって知のない男ではない。
むしろ元就が話していた元春の戦を思い返せば、力任せに突っ込むだけの武将ではなかった。
戦場を見る。
相手を見る。
時機を見る。
そして何より、軍記や古い戦の話そのものを好む気配がある。
「軍記物か」
少弐は目を開けた。
これはいいかもしれない。
刀を贈る。
鷹を贈る。
それだけなら誰でも思いつく。
だが元春が本当に戦を好む男なら、武具だけでなく、
――昔の武人がどう戦ったのか。
そこにも興味を持つのではないか。
少弐自身、各地を巡る中で古戦や伝承をずいぶん集めてきた。
坂上田村麻呂の伝承。
奥州の古戦。
寺に残る武人の話。
坂東にも軍記はある。
京にもある。
「何か探してみるか」
元春には軍記物。
ただし珍しいだけでは駄目だ。
元春本人が読みたくなるものを選びたい。
そこまで考えて、少弐はもう一人を思い出した。
「……隆景殿は」
止まった。
分からない。
漢籍。
文芸。
茶。
寺社。
商い。
船。
どれも興味を持ちそうではある。
だが、
――これだ。
というものが見えない。
元春なら少弐にも入口が分かる。
武から入ればいい。
そこから歴史へ進む。
軍記へ進む。
鷹へ進む。
刀へ進む。
話の道筋が見える。
隆景には、それがない。
「何が好きなんだ、あの人は」
少弐は眉間に皺を寄せた。
湯治に来ている人間の顔ではなかった。
少弐は清盛館での隆景を思い出す。
あの妙な茶器にも笑った。
伊万里焼にも興味を示した。
朝鮮人参も見た。
虎皮にも驚いた。
播磨から西へ商いを伸ばす話にも耳を傾けた。
だが、どれか一つへ飛びついたわけではない。
一つを見ると、その向こうを見る。
物を見ると、その来歴を考える。
商いを聞けば、その先の人と土地を見る。
少弐には、それがかえって掴みにくかった。
「元春殿より難しいな」
ぼそりと言った。
そのとき、少弐はふと笑った。
「……いや」
もしかすると。
分からないことそのものが、入口なのかもしれない。
元春には、
――これが好きでしょう。
と持っていける。
だが隆景には、こちらから決めつけないほうがいい。
何かを見せる。
話す。
そして反応を見る。
少弐がいつも商いでやっていることと同じだった。
「分からないなら、聞けばいいか」
ただし、
――何がお好きですか。
と真正面から尋ねるのも面白くない。
次に会ったとき、いくつか話を持っていく。
朝鮮の話。
琉球の話。
海路の話。
書物の話。
寺の話。
そして、どこで目の色が変わるのかを見る。
そこから始めればいい。
少弐はようやく少し力を抜いた。
「……よし」
その瞬間だった。
湯の外から声がした。
「少弐」
ライラだった。
「何?」
「今、仕事のこと考えてたでしょう」
少弐は黙った。
「考えてない」
「間があった」
「毛利のことを少し」
「仕事じゃない」
「仕事でしょう」
「人のことを考えていただけだ」
「それを仕事っていうの」
少弐は湯船へ深く沈んだ。
那須には、
――休むのも仕事ですよ。
と言われた。
ライラには、
――何もしない方法を教える。
と言われた。
それなのに、湯につかれば毛利両川のことを考えている。
「……シレトクがいたらな」
また呟いた。
今度はライラにも聞こえた。
「そんなに?」
「ああ」
少弐は素直に答えた。
「いなくなってから分かった。あいつ、ずいぶん俺の右腕をやっていたらしい」
そして再び目を閉じる。
元春には軍記物を探そう。
隆景については――まだ分からない。
それでいい。
まだ本質が分からないから、もう一度会う意味がある。
湯煙の向こうに、二人の顔を思い浮かべる。
武の元春。
知の隆景。
そう見える。
だがきっと、その反対側にも何かがある。
少弐が本当に知りたいのは、そちらだった。
結局その日も、
少弐の身体だけは道後で休み、
頭のほうは、ずっと安芸を歩き回っていた。




