再び道後――あのころはまだ
那須に半ば追い出されるようにして、少弐は道後へ向かった。
「十日ですからね」
別れ際にも念を押された。
「分かっている」
「仕事は禁止です」
「そこまでは言っていなかっただろう」
「今、追加しました」
「勝手な」
那須は豪快に笑った。
「休むのも仕事ですよ」
結局、少弐は護衛のライラとともに道後へ入った。
湯煙の向こうに温泉場が見えてくる。
少弐には見覚えのある景色だった。
「……そういえば」
馬を進めながら、少弐が呟いた。
「前にも来たな」
ライラが振り向く。
「道後?」
「ああ」
もう何年か前になる。
四国へ渡り、そこから九州へ向かった。
さらに朝鮮。
琉球。
いくつもの港を巡り、帰路に再び伊予へ寄った。
あの長い航海のころだった。
まだライラとも出会って間もない。
マリアともイネスとも、今ほど互いの癖を知らなかった。
少弐は温泉場を眺めながら笑った。
「お前、あのとき大騒ぎしていたな」
「私が?」
「日本の湯にどうやって入るんだ、作法を教えろ、何を持っていけばいいんだ、と」
ライラの眉が動いた。
「だって知らなかったんだから仕方ないでしょう」
「服をどこまで脱ぐのかまで聞いてきた」
「初めてだったんだから!」
少弐は笑った。
記憶が次々と蘇る。
湯へ入る前に身体を洗うこと。
湯船の中で身体を洗わないこと。
手拭いを湯へ入れないこと。
熱ければ無理に肩まで入らなくてもいいこと。
少弐が一つ説明するたびに、
――どうして?
――これは何のため?
――みんな本当にそうするの?
とライラが聞いてきた。
「騒がしかった」
「あなたの説明が足りなかったの」
「十分説明した」
「してない」
「した」
「してない」
二人とも譲らない。
だが少弐は笑っていた。
不思議なものだった。
あのころのライラは、まだ遠い国から来た剣士だった。
腕が立つ。
気が強い。
好奇心が旺盛。
そして日本のことをほとんど知らない。
少弐にとっても、まだ「使節団の護衛」という意識のほうが強かった。
それが今ではどうだ。
室蘭へ行った。
宗谷へ行った。
樺太へ渡った。
アムールまで行った。
熊を追った。
馬にも乗った。
鷹まで扱うようになった。
そして今、少弐が伊予へ行くと言えば、何の疑問もなく護衛として隣にいる。
少弐は横を歩くライラを見た。
「何?」
「いや」
「何よ」
「ずいぶん日本に慣れたと思ってな」
ライラも少し考えた。
そして温泉場を見る。
「そうかも」
「もう湯の入り方を俺に聞かなくてもいいだろう」
「当たり前でしょう」
少し間があった。
「むしろ今は私があなたに言うほう」
「何を?」
ライラは即答した。
「ちゃんと休んで」
少弐が黙った。
「那須殿にも言われたでしょう」
「お前まで那須の味方か」
「だから、あなたの護衛だって」
「それとこれとは――」
「同じ」
言い切られた。
少弐はため息をついた。
何年か前。
この場所では、自分がライラに湯の入り方を教えていた。
今では、そのライラから休み方を教えられている。
「立場が逆になったな」
少弐が言う。
「そう?」
「ああ」
ライラは少し笑った。
「じゃあ今度は私が教える」
「何を」
「十日間、何もしない方法」
「それは難しいな」
「でしょうね」
即答だった。
道後の湯煙が近づいてくる。
少弐はもう一度、昔のことを思い出した。
あのころは、まさかこの剣士とこれほど長く旅をするとは思っていなかった。
日本の湯の入り方を知らず、あれこれ尋ねてきた異国の女が、今では少弐の仕事の仕方まで知っている。
少弐は少しだけ笑った。
「まあ、十日くらいなら」
「十日全部」
「分かっている」
「仕事しない?」
「努力する」
「それ、する人の言い方じゃない」
昔と変わらず、騒がしい。
ただし――
少弐には、その騒がしさが妙に懐かしく、心地よかった。
こうして二人は、何年かぶりに道後の湯へ戻ってきた。
かつては長い航海の途中で立ち寄った温泉。
今度は、
何もしないために訪れた十日間だった。




