欠けた右腕――両川を迎える清盛館
元就へ約束の大鷹を渡した翌日、少弐は再び元就のもとへ呼ばれた。
今度は昔の戦話だけではなかった。
毛利と播磨、そしてこれからの瀬戸内についての話である。
もっとも、元就の態度は最初の会談よりずっと気楽なものになっていた。
「お前は清盛館へ来いと言ったな」
「はい」
少弐は頷いた。
「小さい館ですが、茶くらいなら淹れられます」
「それよ」
元就が笑った。
「輝元に元春、隆景まで三人まとめて播磨へ出すのは、さすがに無理だ」
少弐も笑った。
「それはそうでしょう」
「お前が来いと言ったのではないか」
「本当に全員来られたら、こちらが困ります」
「何だそれは」
「泊める部屋を増やさなければなりません」
元就が声を上げて笑った。
少弐も笑う。
やがて元就はキセルを置いた。
「ならば元春と隆景を行かせよう」
少弐の表情が変わった。
吉川元春。
小早川隆景。
毛利両川。
毛利の軍事と外交を支える二人を、清盛館へ使者として送るというのである。
「よろしいのですか」
「お前が播磨で何をしているのか、あやつらにも見せてやればよい」
元就はキセルをふかした。
「それに隆景は、お前の商いの話を気にしておる」
「元春殿は?」
「刀と鷹のほうだろうな」
「なるほど」
「だが二人とも、見るところは見る」
元就は少弐を見た。
「せいぜい化けの皮を剥がされぬようにな」
「元就殿には一度見られております」
「わしが見抜いていないと思っておるのか」
「まだ追い返されていませんから」
元就は笑った。
「だから面白い」
こうして話は決まった。
少弐はライラとともに兵庫津へ戻った。
清盛館へ着くなり、渡辺を呼ぶ。
「毛利から使者が来る」
渡辺の顔が引き締まった。
「どなたが?」
「吉川元春殿と小早川隆景殿」
「……両川が?」
「ああ」
渡辺はしばらく言葉を失った。
普通の使者ではない。
毛利両川そのものが来る。
「殿」
「何だ」
「小さい館ですが」
「知っている」
「本当にここへ?」
「だから準備する」
ライラが横で笑った。
その日から清盛館は急に慌ただしくなった。
座敷を整える。
寝所を確認する。
料理を決める。
酒を選ぶ。
警護を考える。
そして何より、二人に何を見せ、何を話すのか。
少弐は渡辺を座敷へ呼び、播磨の国人について一つずつ聞いた。
地図が広げられる。
「黒田は?」
「こちらの話にかなり興味を示しています」
「ほかは?」
渡辺は記録を並べた。
誰と誰が縁戚なのか。
どの国人が反目しているのか。
どの城へ誰が頻繁に出入りしているのか。
どの寺が仲介役になるのか。
どの市に何が集まっているのか。
どこで鉄が増えているのか。
どこで馬が売買されているのか。
少弐はそれを聞きながら、地図へ印をつけていった。
「海の者たちは?」
「こちらも悪くありません」
船主。
廻船商人。
漁師。
港の問屋。
沿岸の国人。
彼らも少弐の話へ乗ろうとしていた。
「山の者は?」
「同じです」
山間の国人。
木材を扱う者。
炭焼き。
鍛冶。
馬を扱う者。
こちらも徐々に清盛館との関係を持ち始めている。
海の者も。
山の者も。
少弐が言う、
――家臣になる必要はない。
――商いをしよう。
――播磨に生きる友として付き合おう。
その奇妙な話に乗り始めていた。
そして何より、すでに荷が動いている。
少弐は地図を指した。
「備前までは?」
「かなり自由に動かせます」
「東は?」
渡辺は兵庫津から東へ指を滑らせた。
「堺までつながりました」
少弐は頷いた。
これは大きな成果だった。
播磨の産物を兵庫津へ集める。
そこから海路で東へ送る。
堺まで持っていけば、さらに畿内各地へ売れる。
逆に堺へ集まる品を播磨へ運ぶこともできる。
便利になった。
以前とは比べものにならない。
だが渡辺は続けた。
「ただし、問題があります」
「堺だな」
少弐はすぐに答えた。
渡辺が頷く。
「はい」
堺まで道がつながった。
それ自体は成功である。
だが商いの中心は、あくまで堺だった。
大きな商人がいる。
蔵がある。
船がある。
信用がある。
遠国との取引網がある。
播磨から品を運んでも、結局は堺の商人を通して売ることになる。
逆に遠国から来た品を買うにも、堺の商人が間に入る。
「便利にはなった」
少弐が言った。
「ですが」
渡辺が続ける。
「利益のほとんどを堺に食われています」
少弐は地図を眺めた。
播磨から堺へ一本の線がつながっている。
見た目だけなら見事だった。
しかし銭の流れを書き込めば、まるで違う図になる。
播磨で木を切る。
播磨で炭を焼く。
播磨で鉄を作る。
播磨で荷を集める。
播磨の者が船へ積む。
それでも最後に大きな利益を取るのは堺だった。
「これでは道ができただけだな」
「はい」
「播磨が豊かになったとは言えん」
少弐は腕を組んだ。
堺を排除したいわけではない。
むしろ堺は必要だった。
あれほど便利な市場はない。
問題は依存しすぎていることだ。
「堺を使うのはいい」
少弐は言った。
「堺に使われるのは駄目だ」
渡辺が頷いた。
「兵庫津にも値を決められる商人が必要ですね」
「それだけではない」
少弐は西を指した。
備前。
さらにその先には安芸がある。
「東へ行けば堺しかない、では堺の言い値になる」
渡辺も気づいた。
「西にも売れるようにする?」
「ああ」
少弐は安芸を指した。
「だから両川が来ることに意味がある」
播磨から東へ堺。
播磨から西へ備前、そして毛利領。
両方へ売れるなら、商人はより高く買う相手を選べる。
さらに兵庫津そのものへ買い手が来るようになれば、播磨側にも利益が残る。
少弐は地図を眺めた。
「これを隆景殿に見せよう」
渡辺が頷いた。
「海の話なら、小早川殿は興味を持つでしょう」
「元春殿には?」
「播磨の国人でしょうな」
「そうだな」
少弐は頷いた。
そこで、ふと口が止まった。
「…………」
「どうしました?」
「いや」
何かが足りない。
元春。
隆景。
毛利両川。
二人が来る。
ならば当然、それぞれについてもう一段調べる。
何を好む。
何を嫌う。
何を食べる。
どんな酒を好む。
どんな話なら耳を傾ける。
どんな商人と付き合っている。
元春には何を見せるべきか。
隆景には何を見せるべきか。
少弐は自然に口を開いた。
「シレトクに――」
そこで止まった。
いない。
シレトクは今、室蘭へ帰っている。
少弐はしばらく黙った。
「殿?」
渡辺が尋ねる。
「シレトクがいればな」
渡辺の表情がわずかに変わった。
少弐は気づかず続けた。
「元春殿と隆景殿について、もう一段調べさせられる」
好きな食べ物。
酒。
趣味。
付き合いの深い商人。
よく出入りする寺。
どんな贈答を喜ぶ。
家臣たちは主人をどう見ている。
シレトクなら正面から、
――小早川隆景殿は何がお好きですか。
などとは聞かない。
市へ行く。
商人と話す。
飯を食う。
船乗りと酒を飲む。
そうして、いつの間にか必要な話を持って帰ってくる。
少弐はさらに気づいた。
「それに、お前を別の仕事へ回せる」
渡辺が顔を上げた。
「私を?」
「ああ」
今は渡辺が一人で抱えている。
播磨国人の動向。
清盛館へ来る者の選別。
毛利両川への準備。
市の情報。
海上勢力との連絡。
堺商人の動き。
シレトクがいれば、その一部を任せられる。
そして渡辺を、もっと深い仕事へ入れられる。
逆でもいい。
渡辺に人間関係を探らせる。
シレトクに商いを見る者を探らせる。
二人を別々に動かし、最後に情報を合わせる。
少弐は地図を眺めた。
「……そうか」
ようやく分かった。
北方にいたころは、当たり前すぎて気づかなかった。
室蘭でも。
宗谷でも。
樺太でも。
アムールでも。
少弐が、
――あれを調べたい。
と思えば、シレトクが動いた。
言葉を聞く。
人を見る。
土地を見る。
市場を見る。
そして少弐が次に必要とするものを、完全ではなくとも先回りして持ってくる。
播磨へ来てからも同じだった。
商いの利を説き、人を清盛館へ連れてきた。
渡辺とぶつかりながらも、二人が揃っていたからこそ、播磨の人脈は急速に広がった。
いなくなって初めて分かった。
「右腕だったんだな」
少弐が呟いた。
渡辺は聞こえていた。
「シレトクが?」
「ああ」
少弐は素直に認めた。
「ずいぶん頼っていたらしい」
渡辺は少し複雑そうな顔をした。
自分とシレトクの間に亀裂があったことを、少弐も知っている。
だから素直に、
――そうでしょう。
とは言えなかった。
「……仕事はできますからな、あいつは」
結局、それだけ言った。
少弐は渡辺を見る。
そして少し笑った。
「お前もな」
「ついでのように言わないでください」
「違う」
少弐は首を振った。
「お前がいるから、シレトクを自由に動かせた。シレトクがいるから、お前を深いところへ入れられた」
渡辺は黙った。
「二人で一人という意味ではない。それぞれ違うから使い道がある」
少弐は地図へ視線を戻した。
「戻ってきたら、もう少しうまく使わないとな」
渡辺は何も答えなかった。
だが先ほどより、表情は少しだけ柔らかかった。
そのころ清盛館では、ライラが客間を確認していた。
「少弐!」
奥から声が飛んでくる。
「何だ?」
「二人分の部屋、本当にこれでいいの?」
「小さい館だから仕方ない」
「元就殿に『茶くらいなら』なんて言うから」
「茶は出せる」
「そういう問題じゃない」
少弐は笑った。
海の者たちは動き始めている。
山の者たちも動き始めている。
播磨から備前へ荷が流れる。
東へ行けば堺までつながった。
便利にはなった。
だが、まだ利益のほとんどを堺に食われている。
道がつながっただけでは足りない。
その道を誰が使い、誰が値を決め、最後に誰の手へ銭が残るのか。
そこまで変えて初めて、少弐の言う「播磨を栄えさせる」ことになる。
そして今度は、その道を西へ広げる可能性を持つ二人――吉川元春と小早川隆景が、清盛館へやって来る。
すべては順調に見えた。
だからこそ少弐は、そこに一人いないことを強く感じた。
シレトク。
北の海から連れてきた一人の男。
案内人から始まり、
通訳となり、
情報を集め、
商いを説き、
人を連れてくるようになった。
いつの間にか彼は、少弐の考えを実際の動きへ変える右腕になっていた。
人の価値というものは、いるときより、いなくなったときのほうがよく分かる。
少弐はその日、初めてそれを実感した。
毛利両川を迎える日は、もう近かった。




