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潮は変われど、因縁は残る

毛利元就との会見を終えた少弐には、思いがけない厚意が待っていた。


本来ならば、ここから先は自ら帰路を手配するつもりでいた。


ところが毛利側は、


「兵庫津までならば、こちらで送りをつけましょう」


と言ってくれたのである。


少弐としてもありがたい申し出だった。


瀬戸内は穏やかに見えて、その実、潮の流れは複雑である。


まして少弐は長い北方遠征を終えたばかりだった。室蘭からさらに北へ進み、樺太、大陸沿岸、アムール方面まで巡ってきた身である。


ここで無理に自前の船を動かすより、瀬戸内を知り尽くした者に任せたほうがいい。


そして、その送りを任されたのが因島村上氏だった。


「兵庫津までお送りいたします」


因島村上の者は、そう言って少弐を船へ迎えた。


船が岸を離れる。


少弐は甲板から遠ざかっていく毛利領を眺めていた。


毛利元就との会見で聞いた話も多い。


しかし瀬戸内そのものについては、まだ知らないことのほうが多かった。


やがて島々の間へ入ると、それはますます明らかになった。


北方の海とは、まるで違う。


樺太やアムールで見た海は広かった。


水平線の向こうに何があるか分からない怖さがあり、風や寒さ、時には流氷そのものが敵になる。


対して瀬戸内は狭い。


見渡せば、どこかに必ず島がある。


だから一見すると安心できる海に思えた。


ところが――


「あそこをご覧くだされ」


因島村上の船頭が海面を指差した。


少弐は目を凝らした。


「……何かあるのか?」


「潮です」


「潮?」


「海の色が少し違いましょう」


言われてみれば、確かに海面に筋がある。


船頭は笑った。


「今あちらへ入れば、兵庫へ行くつもりが、余計なところへ連れていかれます」


「なるほど」


少弐は感心した。


「海にも道があるのだな」


「道どころか、坂も崖もございます」


船頭は足元を指した。


「ただし全部、水の下ですがな」


少弐は笑った。


「北では氷を見た。ここでは潮を見るのか」


「海が違えば、見るものも違います」


しばらく少弐は、水夫たちの仕事を眺めていた。


帆の扱い。


舵の切り方。


島へどこまで寄るか。


潮へどの角度で船を入れるか。


どれも瀬戸内で長く生きてきた者ならではの技だった。


やがて船が安定した流れに乗ると、船頭が少弐の近くへ腰を下ろした。


「しかし、少弐殿」


「うん?」


「四国では、もう戦は済んだそうですな」


「済んだ、と言っていいだろう」


那須による伊予掌握。


そして阿波、讃岐、淡路を含めた新しい秩序。


大きな戦そのものは終わっている。


船頭は頷いた。


「陸では、そうなのでしょうな」


少弐はその言い方が気になった。


「海では違うか」


「ええ」


男は遠くの島影へ目を向けた。


「来島も、能島も、今では那須殿の下です」


少弐は黙って聞く。


「我ら因島は毛利殿、小早川殿との縁を保った」


同じ村上。


だが旗は分かれた。


「昔なら」


船頭が続ける。


「潮が悪ければ助けました。余所者の船が勝手な真似をすれば、一緒になって追い払った。同じ海で生まれて、同じ潮を覚えた連中です」


「今は?」


「旗が違いますからな」


短い言葉だった。


だが少弐には、その意味がよく分かった。


「会えば斬り合うのか?」


「いやいや」


船頭は苦笑した。


「そんなことをしていたら商いになりません」


漁師は漁をする。


商人は必要なら相手側とも取引する。


親類もいる。


婚姻で結ばれた家もある。


「祝い事なら顔を合わせることもあります。海で遭難しておれば、見殺しにもできますまい」


「では敵でもない」


「そうです」


「味方でもない」


「そういうことです」


少弐は腕を組んだ。


「面倒だな」


船頭が笑った。


「戦より面倒です」


「戦なら敵味方を決めれば済むからか」


「ええ」


男は海を眺めながら言った。


「四国の動乱は済みました。それはありがたいことです。船も商人も動けるようになった」


そして少しだけ声を落とした。


「けれど、因縁だけが残った」


来島には来島の言い分がある。


能島には能島の言い分がある。


因島にもある。


那須にも、毛利にも、小早川にも、それぞれ理屈がある。


「誰が悪いと決めれば済む話でもありません」


「なるほどな」


少弐は島々を眺めた。


北方とは逆だと思った。


宗谷でも、樺太でも、アムールでも、少弐が出会ったのは知らない者たちだった。


だから酒を出した。


食べ物を分けた。


煙草を吸った。


知らない者同士なのだから、一つずつ知っていけばよかった。


瀬戸内は違う。


互いを知りすぎている。


誰が誰の親類か。


昔、誰が誰を助けたか。


どの戦で誰がどちらについたか。


何年前に誰が約束を破ったか。


それらが島と島との間を流れる潮のように絡み合っている。


「知らぬ者同士より、知っている者同士のほうが難しいか」


少弐が呟いた。


「何か?」


「いや、こちらの話だ」


そう答えながら、少弐は懐へ手を入れた。


考え事をすると、すっかりこの仕草が出るようになっていた。


取り出したのはキセルである。


室蘭でも。


宗谷でも。


樺太でも。


アムールでも。


随分と世話になった。


少弐は慣れた手つきで刻み煙草を取り出した。


火皿へ詰める。


そして――


止まった。


風が吹いた。


頭上で帆が大きく鳴る。


少弐は帆を見る。


綱を見る。


足元の乾いた甲板を見る。


そして手の中のキセルを見る。


「…………」


船頭が怪訝そうに尋ねた。


「少弐殿?」


少弐は静かにキセルを見つめた。


「そうだった」


「何がです?」


「船で火は法度だったな」


一瞬の沈黙。


次の瞬間、船頭が吹き出した。


「はっはっはっは!」


近くの水夫まで振り返る。


少弐は少しばかり気まずそうにキセルを眺めた。


「北では、これを出せば話が始まったのでな」


「北の旅が長すぎましたな!」


「自覚はある」


少弐は火をつけることなく、キセルを静かに懐へ戻した。


船頭はまだ笑っている。


「毛利殿から預かった大事な客人を、因島村上の船が火事で海へ放り出したとなれば――」


男は腹を抱えた。


「来島と能島に百年は笑われますぞ!」


少弐もとうとう笑った。


「それだけは御免だ」


「兵庫津まで我慢してくだされ」


「そうしよう」


そのとき船頭が立ち上がった。


顔つきが変わる。


「さて」


前方に狭い瀬が見えていた。


「ここから少々、潮が面倒です」


水夫たちが一斉に動き出した。


帆が調整される。


舵が切られる。


少弐も邪魔にならない場所へ下がった。


先ほどまで笑っていた船頭が、今では鋭い目で海面を見ている。


右から来た潮。


島を回ってきた潮。


二つがぶつかり、白い筋を作っている。


船はその境を縫うように進んだ。


少弐は黙ってそれを眺めていた。


来島。


能島。


因島。


同じ村上を名乗り、同じ瀬戸内の潮に育てられながら、今では異なる旗を掲げている。


戦は終わった。


だが人の心まで、戦の前へ戻るわけではない。


少弐は懐の上からキセルを指で押さえた。


海図に描ける潮ならば、船乗りが読める。


しかし人と人との間を流れる潮は、そう簡単には読めない。


それでも船は進む。


毛利の領国を背にして、島から島へ。


やがて瀬戸内を東へ抜ければ、兵庫津である。


少弐は甲板から前方を眺めた。


長かった北方への旅も、ようやく坂東へ帰る道につながり始めていた。

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