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老将に効いた薬――少弐冬明、毛利元就と相対す

元亀三年(一五七二)五月・安芸


赤木甚兵衛の部下たちと別れた少弐冬明一行は、毛利元就のもとへ向かった。


少弐。


妻のライラ。


渡辺満。


そして空蝉。


毛利の館へ着くと、門兵が一行を止めた。


「何者か」


渡辺が前へ出ようとする。


だが門兵の一人が空蝉を見て、目を見開いた。


「……空蝉先生?」


空蝉が軽く手を上げる。


「久しいな」


「やはり先生でしたか」


門兵の態度が変わった。


そして、その隣にいる少弐を見る。


「では、こちらが――」


「少弐冬明です」


少弐が頭を下げた。


門兵はすでに話を聞いていたらしい。


「お待ちしておりました」


あっさり門が開いた。


少弐が拍子抜けした。


「ずいぶん簡単に入れるな」


空蝉が言う。


「俺がいるからだ」


「先生、信用されてますね」


「お前よりはな」


「まだ何もしてませんよ」


「だからだ」


ライラが笑った。


館へ入る。


毛利元就は奥の一室で待っていた。


すでに相当な老齢である。


若いころのような精悍さとは違う。


身体は細くなった。


動作もゆっくりしている。


だが――目だけは違った。


少弐は一目見て思った。


この老人は、まだ何も見落とすつもりがない。


「久しいな」


元就が最初に声をかけた相手は空蝉だった。


「はい」


「わしより先に死んだかと思ったぞ」


「患者を置いて死ねませんので」


元就が笑う。


「ならば、わしが生きている限りおぬしも死ねんな」


「面倒な患者です」


少弐は黙って二人のやり取りを聞いていた。


旧知なのだ。


形式的な主君と医師ではない。


空蝉は遠慮なく元就の前へ座った。


「手を」


元就が腕を出す。


脈を見る。


顔色。


目。


舌。


食欲。


眠り。


便通。


身体の痛み。


空蝉は一つずつ確認した。


「酒は?」


「ほとんど飲んでおらん」


「ほとんど、というのが気になりますが」


「少しくらいよかろう」


「駄目です」


「昔から変わらんな」


「元就殿も」


診察はしばらく続いた。


少弐はその間、黙って待った。


やがて空蝉が薬についていくつか指示を出す。


「無理をしなければ、まだ大丈夫でしょう」


「まだ、とは何年だ」


「それを言えたら医者ではなく占い師です」


元就が声を上げて笑った。


診察が終わる。


空蝉が少し下がった。


ようやく少弐の番だった。


少弐は姿勢を正した。


「元就公」


口を開こうとする。


すると――。


「頼み事だろう?」


少弐が止まった。


元就がこちらを見ている。


「…………」


「違うか?」


少弐はしばらく元就を見た。


やがて笑ってしまった。


「参りました」


そして素直に頭を下げた。


「元就公には勝てません」


「勝とうとしておったのか」


「少しくらいは」


「十年早い」


「十年後まで待っていただけますか」


「それは空蝉に頼め」


「無茶を言うな」


空蝉が即座に返した。


部屋に笑いが起きた。


少弐は改めて座り直す。


だが、まだ本題には入らなかった。


渡辺へ目配せする。


「その前に」


「まだ何かあるのか」


「薬を持ってまいりました」


元就が空蝉を見る。


「薬?」


空蝉は首を振る。


「俺ではない」


少弐が包みを前へ置いた。


「少弐の薬です」


「ますます怪しいな」


少弐が最初の包みを開く。


備前焼だった。


華美ではない。


土の質感を生かした、落ち着いた器。


元就が手に取る。


指で表面をなぞった。


「備前か」


「はい」


元就はしばらく眺めた。


「いいものだ」


それだけだった。


だが、気に入らなかったわけではない。


むしろ元就らしい評価だった。


少弐はもう一つの細長い箱を出した。


蓋を開く。


中には一本の羽根筆。


元就の目が止まった。


「これは?」


「鷹の羽で作った筆です」


少弐が取り出して渡す。


元就はそっと受け取った。


先ほどの備前焼より扱いが慎重だった。


羽軸を見る。


指先で重さを確かめる。


「鷹か」


「はい」


元就は羽根を眺めた。


しばらく何も言わなかった。


そして、ふっと笑った。


「懐かしいな」


少弐が尋ねる。


「鷹がお好きでしたか」


「昔はな」


元就は羽根筆を指先で回した。


「もう鷹狩りへ出るような身体でもない」


空蝉が横から言う。


「分かっているなら結構です」


「うるさい」


元就は笑う。


そして再び羽根を見る。


「だが、いい鷹がおるなら――」


少し考えた。


「また鷹狩りへ出てみたいものだ」


空蝉の顔を見る。


「駄目か?」


「馬で山野を駆け回らなければ」


「なら、飼うだけでもよい」


元就は羽根筆を机へ置かなかった。


そのまま手にしている。


少弐はそれを見ていた。


思わぬところに当たった。


空蝉は「もう好きなものなどあまりない」と言った。


だから酒でも珍味でもなく、実用品を選んだ。


だが鷹の羽が、元就の昔の記憶に触れたらしい。


少弐は今度こそ本題へ入ろうとした。


「それでは元就公――」


元就が手を上げた。


止められた。


二度目だった。


「少弐」


「はい」


元就は備前焼を見る。


次に羽根筆を見る。


そして少弐を見る。


「確かに、これはいい薬だ」


少弐が少し笑う。


「効きましたか」


「少しな」


元就は頷いた。


「瀬戸内のことだろう」


少弐の表情が変わった。


元就は続ける。


「そのあたりのことは三男に任せておる」


「小早川隆景殿」


「そうだ」


元就の声から、先ほどまでの老人らしい柔らかさが少し消えた。


毛利家の当主として西国を切り取ってきた男の顔になる。


「海のこと、商いのこと、備後から安芸、さらに西へ通す話なら、隆景を抜きには決められん」


少弐は頷いた。


当然だった。


ところが元就は続けた。


「だが――」


羽根筆を机の上へ置く。


「まず、わしが認める」


少弐が元就を見る。


「隆景には、わしから話しておこう」


まだ条件すら聞いていない。


少弐が驚いた。


「よろしいのですか」


元就が笑った。


「よいかどうかを決めるために、これから聞くのだ」


「なるほど」


「わしが認めると言ったのは、おぬしの話を毛利として聞くという意味だ」


少弐も笑った。


やはり簡単にはいかない。


だが門は開いた。


元就は姿勢を少し正した。


老いた身体とは対照的に――その目が輝いていた。


先ほど鷹の話をしていたときとも違う。


何か新しい謀を聞くときの目だった。


「さて」


元就が言った。


「二度も言いかけて止めて悪かったな」


「本当ですよ」


「では今度こそ聞こう」


元就は少弐をまっすぐ見る。


「少弐冬明」


「はい」


「わざわざ船を使わず、備前から馬でここまで来た男が――」


少し笑う。


「わしに何を頼みに来た?」


少弐は一度、深く頭を下げた。


そして顔を上げる。


ようやくここからが本題だった。


兵庫津から播磨。


播磨から児島。


備前。


そして毛利の海へ。


少弐が坂東評定で氏治から命じられた、


「堺から朝鮮まで道を通せ」


という仕事。


その最大の関門を開く交渉が――


毛利元就の前で始まろうとしていた。

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