山を下りる日――赤木甚兵衛と備中の山賊衆
元亀三年(一五七二)四月・備中山中
「こっちです」
少弐冬明たちは、山賊の男たちに案内されて街道を外れた。
道は次第に細くなる。
馬に乗ったまま進めなくなると、一行は馬を引いて山道を登った。
渡辺満は終始周囲を警戒している。
「殿」
「うん?」
「まだ引き返せますぞ」
「ここまで来て?」
「だからです」
少弐は前を歩く山賊たちを見る。
「大丈夫だと思うけどな」
「何を根拠に」
「先生を呼ぶために、あれだけ怯えながら俺たちの前に出てきたんだ。罠ならもっと上手くやるよ」
ライラも周囲を見ていたが、渡辺ほど緊張してはいなかった。
空蝉だけは面倒そうに薬籠を背負っている。
「少弐」
「はい」
「患者が大したことなかったら、すぐ出るぞ」
「分かってます」
「毛利に行く途中なんだからな」
「先生の方が久しぶりの仕事だって喜んでたでしょう」
「それとこれは別だ」
そんな話をしながら進んでいると、山腹の奥に建物が見えてきた。
少弐が足を止める。
「……館?」
想像していた山賊の根城とは違った。
洞穴でも粗末な掘立小屋でもない。
古びてはいるが、明らかにかつて誰かが住んでいた館だった。
土塁の痕跡。
崩れかけた板塀。
小さな物見台。
馬を置く場所もある。
おそらく昔は地侍の館だったのだろう。
今では補修した板の色もばらばらで、ところどころ屋根も傷んでいる。
それでも人が暮らしている。
男だけではない。
女がいる。
子供もいる。
老人もいる。
一行が入ってくると、皆が警戒した目を向けた。
渡辺が小声で言う。
「ずいぶんおりますな」
少弐も頷いた。
「山賊の巣というより……村だな」
案内してきた男が振り返った。
「ここで暮らしてる」
「全員、山賊なのか?」
「そんなわけねえ」
男は少し不機嫌そうだった。
「戦える奴が道へ出る。女や年寄りまで旅人を襲うわけじゃねえ」
少弐は何も言わなかった。
館の奥へ案内される。
途中ですれ違う者たちが、空蝉の薬籠を見ていた。
どうやら医者を連れて帰ってきたことはすぐ伝わったらしい。
やがて男が一つの部屋の前で止まった。
「ここだ」
声が小さくなった。
「俺たちの親方がいる」
空蝉が尋ねる。
「名前は?」
「赤木甚兵衛」
男は襖へ手をかけた。
そして少弐たちを振り返る。
「この山の連中をまとめてる頭だ」
これで少弐にも分かった。
単なる病人ではない。
この一党の親玉そのものだった。
襖が開く。
部屋には、身体の大きな男が寝ていた。
四十代後半ほど。
頬は痩せ、額には汗。
身体には厚い布を掛けているのに寒そうに震えている。
「親方」
子分が近寄った。
甚兵衛が薄く目を開ける。
「……なんだ」
「医者を連れてきた」
「医者?」
甚兵衛は苦しそうに顔を動かした。
空蝉を見る。
「寺から……来たのか」
「違う」
空蝉は甚兵衛の横へ座った。
「通りすがりだ」
「通りすがりの医者が……山賊を診るのか」
空蝉が少弐を指した。
「こいつが頭を下げた」
甚兵衛の視線が少弐へ向いた。
少弐は軽く頭を下げる。
「少弐冬明です」
「知らんな」
「でしょうね」
少弐は笑った。
「とりあえず先生に診てもらってください」
空蝉が甚兵衛の脈を取った。
額へ触れる。
舌を見る。
いくつか質問する。
「いつから熱がある」
「四日……五日か」
「飯は」
「食えん」
「水は」
「飲んでも……気持ち悪い」
空蝉は子分たちへ向き直った。
「ほかに何かあるだろ」
男たちは顔を見合わせた。
「脚を怪我してる」
「先に言え」
空蝉の声が低くなった。
掛け物をどける。
太腿に布が巻かれていた。
「いつの傷だ」
「二週間くらい前だ」
「何で?」
甚兵衛が答える。
「刀」
「誰が手当てした」
子分が手を上げた。
「俺たちで」
空蝉が包帯を解いていく。
途中で表情が変わった。
傷の周囲が赤く腫れている。
熱を持っている。
甚兵衛が顔を歪めた。
「触るな……」
「これか」
空蝉が腫れを確認する。
少弐が尋ねる。
「先生?」
空蝉は答えた。
「膿が溜まってる」
「治る?」
「まだ分からん」
「薬は?」
「薬だけじゃ駄目だ」
空蝉は甚兵衛を見る。
「切って出す」
甚兵衛は荒い息をしながら笑った。
「好きにしろ」
「痛いぞ」
「今よりましなら何でもいい」
空蝉は子分たちへ指示を出した。
湯。
清潔な布。
明かり。
人払い。
「少弐たちは外へ出ろ」
「手伝わなくていい?」
「邪魔だ」
追い出された。
少弐、ライラ、渡辺は縁側で待った。
しばらくすると、中から甚兵衛の呻き声が聞こえた。
子分たちは落ち着かない。
一人が何度も部屋を覗こうとして、別の者に止められている。
ライラがそれを見て言った。
「慕われてるね」
少弐も感じていた。
親方が病気になった。
寺からは診療を断られた。
それでも諦めず、空蝉の噂を聞いて、見知らぬ武装した旅人たちを尾行してまで頼みに来た。
少なくとも子分たちにとって、赤木甚兵衛は見捨てていい親玉ではない。
やがて空蝉が出てきた。
「終わった」
子分たちが一斉に立ち上がる。
「親方は!?」
「膿は出した」
「助かるのか?」
「今夜を見ないと分からん」
歓声は上がらなかった。
ただ、皆が少しだけ安堵した。
その夜、少弐たちは館に泊まった。
翌朝。
甚兵衛の熱はまだ高かった。
だが本人が空蝉へ言った。
「昨日より……脚が楽だ」
「当たり前だ」
空蝉は傷を診る。
「まだ治ったわけじゃない」
少弐は尋ねた。
「どれくらいかかる?」
「しばらくここにいた方がいい」
「何日?」
「十日くらい見たい」
渡辺が少弐を見る。
毛利へ向かう途中である。
だが少弐は即答した。
「じゃあ十日います」
「殿」
「元就殿は逃げないよ」
こうして奇妙な滞在が始まった。
空蝉は毎日甚兵衛を診た。
傷を洗い、膿が再び溜まらないよう確認する。
薬を飲ませる。
食事を少しずつ戻す。
三日目には熱が下がった。
五日目には起き上がれるようになった。
七日目。
甚兵衛は杖を使って立った。
「三歩だけだ」
空蝉が言う。
「分かってる」
一歩。
二歩。
三歩。
甚兵衛が立っている。
子分たちが声を上げた。
「親方!」
「うるせえ」
甚兵衛は笑った。
十日目。
甚兵衛はまだ脚を引きずっていた。
痛みも残っている。
それでも杖を使えば館の中を普通に歩けるところまで戻った。
少弐たちは出立の支度を始めた。
甚兵衛は門まで見送りに来た。
「世話になった」
「俺じゃなくて先生に言ってください」
「先生にはもう言った」
空蝉が横から言う。
「まだ治療は終わってないぞ」
「分かってる」
「毎日傷を洗え」
「分かった」
「馬には乗るな」
甚兵衛が嫌そうな顔をした。
「それも分かった」
少弐はその様子を見ながら考えていた。
そして言った。
「甚兵衛殿」
「なんだ」
「一つ提案があります」
「金なら――」
「違います」
少弐は館の者たちを見る。
「しばらく、この辺りの道を守る仕事をしませんか」
甚兵衛が眉を上げた。
「俺たちが?」
「旅人を襲うんじゃなく、護衛する」
「山賊に護衛をやらせるのか」
「道には詳しいでしょう」
甚兵衛は笑った。
「まあな」
だが少弐自身が、途中で考え込んだ。
「……いや」
「なんだ」
「やっぱり駄目だ」
「お前が言い出したんだぞ」
少弐は首を振った。
「俺がいる間だけ雇っても意味がない」
甚兵衛の顔から笑いが消えた。
「仕事が終わったら?」
誰も答えない。
「俺は兵庫へ帰る」
少弐は続ける。
「そうしたら、あなたたちはまたここで食わなきゃいけない」
甚兵衛が黙る。
「また山賊をやるでしょう」
「……否定はできんな」
「なら中途半端に雇うのはやめます」
少弐は甚兵衛をまっすぐ見る。
「全員、俺が召し抱えます」
甚兵衛が固まった。
「何?」
「俺に仕える気のある者は、家族ごと兵庫へ来てください」
周囲がざわついた。
「兵庫?」
「俺はいま兵庫津に館を作ろうとしてる」
清盛館。
そこにはこれから人が必要になる。
警固。
荷の護衛。
倉の見張り。
馬を使った輸送。
街道の案内。
「あなたたちならできる」
甚兵衛が言った。
「俺たちは山賊だ」
「ここではね」
少弐は答えた。
「だから土地ごと変えるんです」
甚兵衛が少弐を見る。
「兵庫に行けば、あなたたちの顔を知る者はほとんどいない」
少弐は館を見る。
「備中でどんな悪評があるか知っている者もいない」
「過去を捨てろというのか」
「消せとは言いません」
少弐は静かに言った。
「俺は知っています」
その一言で甚兵衛が黙った。
「知ったうえで召し抱える」
少弐は続けた。
「だから兵庫では、もう山賊じゃない」
「何になる」
「俺の家臣です」
甚兵衛は少弐を見つめた。
「もし俺たちがまた悪さをしたら?」
「俺の責任です」
「そこまで背負うのか」
「召し抱えるなら」
少弐は当然のように答えた。
甚兵衛は長く黙った。
周囲を見る。
自分を助けるため、見知らぬ医師を探してきた子分たち。
妻。
子供。
老人。
この山で暮らし続ければ、結局また旅人を襲う。
寺へ行けば追い返される。
病気になれば医者にも診てもらえない。
だが山を下りれば――。
甚兵衛は少弐へ尋ねた。
「本当に家族も連れていっていいのか」
「もちろん」
「食わせられるのか」
「働いてください」
甚兵衛が笑った。
「そこは養うと言え」
「俺もそんなに裕福じゃありません」
周囲から笑いが起こった。
甚兵衛も笑った。
そして――。
少弐へ手を差し出した。
「分かった」
少弐がその手を握る。
「この脚が治ったら山を下りる」
「はい」
「兵庫へ行く」
「待ってます」
甚兵衛は振り返った。
「お前ら!」
子分たちが甚兵衛を見る。
「俺は山を下りるぞ」
静かになる。
「少弐殿に仕える」
一人が尋ねた。
「親方、本気か?」
「本気だ」
甚兵衛は杖を地面へ突いた。
「俺についてくる奴は来い」
一瞬の沈黙。
やがて、空蝉を探しに来た男が最初に前へ出た。
「俺は行く」
次。
「俺もだ」
また一人。
「俺も行く」
声が増えていく。
少弐はそれを黙って見ていた。
こうして――。
備中の山中で旅人から荷を奪って暮らしていた赤木甚兵衛とその一党は、
親方を先頭に山を下りることを決めた。
目的地は兵庫津。
そこで彼らを待っているのは、もう山賊の仕事ではない。
少弐冬明の家臣として、
これまで奪っていた「道」を、今度は守る役目についた。




