峠から来た頼み人――山賊、医師を訪ねる
元亀三年(一五七二)四月・備中
児島を発った少弐冬明、ライラ、渡辺満は、備中で空蝉と合流した。
そこから四人で西へ向かう。
目的地は毛利。
だが急いではいない。
少弐がわざわざ船を使わず陸路を選んだのは、港と港の間にある土地を自分の目で見るためだった。
その日の午後。
一行は人家の少ない峠道へ入った。
山の春は平地より遅い。
木々には若葉が出始めていたが、道の脇にはまだ枯れ色が残っている。
最初に気づいたのはライラだった。
「冬明」
「うん」
「いる」
少弐は振り向かなかった。
「何人?」
「分からない。でも、ついてきてる」
渡辺も気づいた。
自然に少弐の近くへ馬を寄せる。
手が刀へ伸びた。
ライラも腰の単筒へ手を添える。
だが少弐は言った。
「待って」
「殿?」
「たぶん違う」
渡辺が眉をひそめた。
「何がです」
少弐は馬をゆっくり進めながら、道の脇を見る。
時折、人影が見える。
隠れている。
だが――妙だった。
距離を詰めてこない。
こちらが峠へ入ったというのに、挟み込もうとする動きもない。
何より。
「武器を構えてない」
少弐が言った。
渡辺も改めて見る。
確かにそうだった。
刀や槍らしきものは持っている。
だが抜いていない。
こちらを襲う者の目でもない。
少弐は馬を止めた。
「出てきたらどうです」
ライラが少弐を見る。
「冬明」
「大丈夫」
少弐は声を張った。
「さっきからついてきてるでしょう」
沈黙。
渡辺はいつでも抜ける姿勢を崩さない。
やがて――。
木立から一人の男が出てきた。
身なりは悪い。
腰には刀。
だが手は刀から離している。
さらに後ろから二人。
三人。
少弐は彼らを見る。
「何か用ですか」
先頭の男はしばらく答えなかった。
その視線が少弐を通り過ぎる。
向いている先は――空蝉だった。
「先生に用か?」
少弐が尋ねた。
空蝉が自分を指差す。
「俺?」
男は頷いた。
そして思い切ったように言った。
「空蝉先生で?」
空蝉の表情が変わった。
「そうだが」
男たちが顔を見合わせる。
「やっぱりそうか」
少弐が尋ねた。
「知ってるんですか」
「噂を聞いた」
備中で人を診ながら西へ向かっている妙な医者がいる。
身分を問わず診る。
薬を持っている。
腕がいい。
そんな話が、街道沿いで広まっていたらしい。
空蝉が少し呆れた。
「合流してまだそんなに経ってないぞ」
「先生、目立つんですよ」
「お前に言われたくない」
男は二人の会話を遮るように頭を下げた。
「頼みがある」
少弐の表情から笑みが消えた。
「何でしょう」
「親方を診てほしい」
渡辺が僅かに目を細めた。
「親方?」
男は観念したように答えた。
「俺たちは、この辺りで旅人から銭や荷を取ってる」
渡辺の手が再び刀へ行く。
「山賊か」
男たちは動かなかった。
「そう呼ばれてる」
「呼ばれている、ではあるまい」
渡辺の声が冷たくなる。
だが男は言い返さなかった。
「好きでやってるわけじゃねえ」
少弐は黙って聞いた。
「畑を持ってるわけでもない。仕える殿様がいるわけでもない。戦があれば駆り出されて、終われば放り出される」
男は吐き捨てるように言った。
「食うためにやってる」
そして空蝉を見る。
「そのせいで、親方が病気になっても寺じゃ診てもらえねえ」
空蝉の目が細くなる。
「寺?」
「近くの寺へ運ぼうとした」
だが断られた。
山賊を境内へ入れるわけにはいかない。
薬も出せない。
村へ降りれば捕らえられる可能性がある。
「三日くらい前から起きられねえんだ」
「症状は?」
空蝉の声が変わった。
すでに医者の声だった。
「熱がある」
「どれくらい」
「分からねえ。ただ身体が熱い」
「水は飲むか」
「少し」
「飯は?」
「ほとんど食わねえ」
「吐くか?」
「一度吐いた」
空蝉は考える。
男は続けた。
「頼む」
そして頭を下げた。
「一度だけ見てくれ」
空蝉はすぐには答えなかった。
少弐が馬から降りた。
そして空蝉の前へ行く。
「先生」
「何だ」
少弐は頭を下げた。
いつもの軽い調子ではなかった。
深く。
きちんと。
「診てやってください」
ライラが少弐を見る。
渡辺も少し驚いた。
少弐が人の代わりに、ここまで真面目に頭を下げるのは珍しい。
「お願いします」
空蝉は少弐を見る。
「お前が頭を下げる話か?」
「俺が頼みたいんです」
少弐は頭を上げない。
「行ってみて、薬代でも何でも費用がかかるなら俺が負担します」
山賊の男が驚いた。
「いや、そこまでは――」
少弐は振り向かなかった。
空蝉だけを見る。
しばらくして、空蝉が尋ねた。
「少弐」
「はい」
「罠だったらどうする」
渡辺の表情が引き締まる。
ライラも山賊たちを見る。
少弐はようやく頭を上げた。
そして周囲を見る。
渡辺満。
ライラ。
空蝉。
自分。
少弐は急に笑った。
「これだけいたら」
「何だ」
「そうそうの人数じゃ、ものともしないでしょう」
渡辺が思わず口を開いた。
「殿、自分を勘定に入れておりますか?」
「入れてるよ」
「腰を痛めているでしょう」
「短筒がある」
ライラが笑った。
空蝉は呆れた顔をする。
「俺は医者だぞ」
「先生が一番怖いですよ」
「どういう意味だ」
少弐は笑った。
だがすぐに山賊たちへ向き直った。
「案内してください」
男が目を見開く。
「来てくれるのか」
少弐は空蝉を見る。
決めるのは医者本人だ。
空蝉は大きく息を吐いた。
「ここまで頭を下げられて断ったら、俺が悪者みたいじゃないか」
「ありがとうございます」
「まだ診ると言っただけだ」
空蝉は薬籠を確かめた。
「治せるとは言ってない」
男たちの顔が明るくなる。
「それでいい!」
「診てもらえるだけでいい!」
空蝉は馬の向きを変えた。
「案内しろ」
山賊たちが先に立つ。
少弐たちも続いた。
渡辺だけはまだ警戒していた。
少弐へ馬を寄せ、小声で言う。
「本当に罠だったらどうなさいます」
少弐も小声で返した。
「そのときは逃げよう」
「先ほどと言っていることが違いますぞ」
「先生を説得するためだよ」
渡辺が絶句する。
前を行くライラが聞いていたらしく、肩を揺らして笑った。
だが少弐は、やがて笑うのをやめた。
山道をさらに奥へ進む。
人家が消えていく。
こんな場所で暮らしている。
寺へ行くこともできない。
医者を呼ぶ銭もない。
病人が出れば、ただ死ぬのを待つ。
少弐は少し前にシレトクが言った言葉を思い出していた。
物が流れれば豊かになる。
豊かになれば、戦をしなくてもいい国になるかもしれない。
ならば――。
こういう者たちはどうなるのだろう。
少弐は山賊たちの背中を見た。
瀬戸内に道を作るという仕事が、急に港と商人だけの話ではなくなったような気がした。
そして一行は街道を外れ――
山賊たちの親玉が伏せているという、山中の隠れ場所へ向かった。




