医者と歩く備中路――少弐、民の口から国を見る
元亀三年(一五七二)四月・備中
空蝉が合流した翌朝。
少弐冬明は、すぐ西へ向かおうとはしなかった。
寺の門前に立ち、周囲を眺めている。
田がある。
山がある。
道を人が行き交う。
遠くには小さな集落が見えた。
「せっかくだ」
少弐が言った。
空蝉が嫌な予感のする顔をした。
「何だ」
「備中を見ながら行きましょう」
「昨日から見ているだろう」
「もっとです」
渡辺満が尋ねた。
「何をお調べになります?」
「全部」
少弐は指を折った。
「誰が治めている。何が採れる。何を売っている。どこの市場へ持っていく。道は安全か。関ではいくら取られる。毛利をどう思っている。宇喜多をどう思っている」
「多いな」
空蝉が呆れる。
少弐は笑った。
「先生もいるし」
「待て」
「病人がいたら診ると言いましたよね」
「言ったが」
「じゃあお願いします」
空蝉は少弐を睨んだ。
ライラが笑っている。
こうして毛利への旅は、妙なものになった。
外交使節の一行なのに、急がない。
村があれば立ち寄る。
市場があれば覗く。
寺があれば僧と話す。
そして――病人がいれば空蝉が診た。
最初は農民だった。
寺の僧から、
「近くに、しばらく起き上がれぬ老人がおります」
と聞いた。
空蝉は迷わなかった。
「案内しろ」
少弐たちもついていった。
「お前たちは来なくていい」
「見たいので」
「何をだ」
「備中を」
「病人は見世物ではないぞ」
「先生が何をするかじゃありません。家とか暮らしとか」
空蝉はため息をついた。
老人は熱を出していた。
空蝉は脈を診る。
舌を見る。
腹に触れる。
何を食べたか。
いつから具合が悪いか。
便はどうか。
水は飲めているか。
家族に一つずつ尋ねていく。
イネスから西洋医学の話を聞き、逆にイネスへ東洋の医術を教えている空蝉は、薬だけに頼らない。
「水を飲ませろ」
「はい」
「一度にたくさんではない。少しずつだ」
薬籠を開く。
必要な分だけ薬を調える。
診療が終わるころには、家の者が何度も頭を下げていた。
「銭は――」
「いらん」
空蝉が言った。
少弐が横から口を挟む。
「代わりに一つ聞いていいですか」
空蝉が振り返った。
「お前な」
老人の息子は笑った。
「何でしょう」
少弐は尋ねた。
「この辺の米は、どこへ売るんです?」
それを皮切りに話が始まった。
どこに市が立つ。
どこの商人が買いに来る。
川を使うこともある。
どの道は馬が通れる。
どの道は雨が降ると使えない。
どこの関で銭を取られる。
話は次々に出てきた。
少弐は聞く。
渡辺が覚える。
ライラは人々の様子を見る。
空蝉だけが呆れていた。
「診療を情報集めに使うな」
「聞いてるだけですよ」
「お前が聞くと皆しゃべるんだ」
「いいことじゃないですか」
次の村では子供を診た。
その次では足を痛めた農夫。
寺では腹を壊していた僧。
空蝉が医者だと知られると、行く先々で人が寄ってくるようになった。
「先生」
「何だ」
「人気ですね」
「お前のせいで先へ進めん」
そう言いながら空蝉は一人も追い返さなかった。
やがて武士まで来た。
小さな城を預かる国人の家臣だった。
「医師がおられると聞きまして」
主人が長く肩を痛めているという。
空蝉はその館へ招かれた。
少弐たちも同行する。
今度は農家とは違う。
門がある。
武具がある。
馬がいる。
家臣がいる。
少弐の目が自然に動いた。
渡辺が小声で言った。
「殿」
「分かってる」
「見すぎです」
「癖なんだ」
国人は四十ほどの男だった。
空蝉が肩を診る。
「いつからだ」
「去年の秋から」
「戦で?」
男は少し笑った。
「馬から落ちました」
「正直でよろしい」
空蝉は肩から腕の動きを確かめた。
骨そのものより、古傷と無理な動かし方が問題らしい。
温め方。
動かし方。
休ませる時期。
空蝉が一つずつ教える。
治療が終わると、国人は礼として酒と食事を出した。
ここでも少弐は聞いた。
「この辺りでは、毛利殿の評判はどうです?」
国人の目が少し変わった。
農民相手とは違う。
少弐もそれ以上踏み込まなかった。
すると国人の方から尋ねた。
「少弐殿は、毛利へ?」
「はい」
「何をしに」
「商いの道を作りに」
国人は怪訝な顔をした。
「同盟ではなく?」
「それも必要なら話します。でも俺の仕事は、兵庫から西へ船を通すことです」
「船を」
「備前には刀も焼物もあるでしょう」
「ああ」
「備中には何があります?」
今度は国人が考えた。
米。
山の産物。
鉄に関わる品。
馬。
川を利用して動く荷。
少弐は黙って聞いた。
「なるほど」
「何がなるほどなのです」
「海がなくても、海につながる品はある」
備中は山が多い。
だが川がある。
道がある。
その先に瀬戸内の港がある。
少弐はようやく、陸路を選んだ意味を実感し始めていた。
港だけ見ていては分からなかった。
船に積まれる荷は、港で生まれるわけではない。
山から来る。
田から来る。
村から来る。
職人の家から来る。
そして人の背や馬、川舟によって港まで運ばれる。
その夜。
寺へ戻る途中、少弐は馬上で言った。
「船だけ見てたら駄目だったな」
ライラが隣で尋ねた。
「何が?」
「交易」
少弐は夕暮れの道を見る。
「港を押さえれば物が集まると思ってた」
「違った?」
「半分は」
道が安全でなければ来ない。
関銭が高すぎても来ない。
国人同士が争っていれば止まる。
川の渡しが使えなければ止まる。
病が流行って村が弱れば、それでも止まる。
渡辺が言った。
「国を治める話になってきましたな」
「俺は国はいらないよ」
「またそれですか」
少弐は笑った。
すると空蝉が後ろから言った。
「だが、道を作るというのはそういうことだ」
少弐が振り返る。
空蝉は珍しく真面目な顔をしていた。
「道だけ地面から切り取ることはできん」
人が住んでいる。
村がある。
病人がいる。
領主がいる。
争いがある。
「人が生きているから道になる」
少弐はしばらく黙っていた。
「先生」
「何だ」
「やっぱり陸路でよかったでしょう」
空蝉は即答した。
「船で行けばもう着いている」
渡辺が吹き出した。
ライラも笑った。
少弐は不満そうだった。
だが空蝉自身も楽しんでいた。
久しぶりに城の中ではなく、自分の足で土地を回っている。
百姓を診る。
僧を診る。
武士を診る。
そして診療が終わるたび、その土地の話が聞ける。
翌朝には、
「西の村にも腕のいい医者が来たと伝わっております」
と寺の僧から言われた。
空蝉は少弐を睨んだ。
「どうする」
少弐は西へ続く道を見た。
急ぐ旅ではない。
毛利元就は逃げない。
「診ていきましょう」
「やっぱりそう言うと思った」
空蝉は薬籠を持ち上げた。
文句を言いながら、その顔は楽しそうだった。
こうして少弐たちは備中を西へ進んだ。
城を落とすでもない。
領主を従わせるでもない。
病人を診て、
飯を食べ、
土地の話を聞き、
また次の村へ向かう。
そして少弐の手元には、普通の使者が持ち帰ることのない情報が少しずつ集まっていった。
誰が国を治めているかではない。
その国で、人と物がどう生きているのか。
少弐はそれを知りながら、毛利の待つ西へ向かっていった。




