煙の向こうの梟雄――少弐冬明、宇喜多直家と会う
元亀三年――一五七二年。
兵庫津に清盛館を築く場所を定めたものの、普請にはまだ時間がかかる。
少弐冬明はひとまず港に近い借居へ移り、そこを仮の政務所として使っていた。
もっとも、腰を落ち着ける暇など最初からなかった。
兵庫津へ移って間もなく、伊丹の佐野昌綱から使者が来た。
「備前の宇喜多殿より、会見を求める申し出がございます」
少弐は書状を受け取った。
「俺に?」
「正確には小田家、佐野家との話を望んでおります。ただ佐野様は、まず冬明様に間へ入っていただきたい、と」
「なるほど」
少弐は書状を読み直した。
宇喜多直家。
名前は知っている。
備前で勢力を伸ばしている男。
そして何より――あまり穏やかではない評判も、嫌というほど耳に入っている。
「会います」
返事は早かった。
西へ道を通すなら、備前は避けられない。
むしろ向こうから話をしたいと言ってきたのなら、断る理由はなかった。
ただし、場所はこちらで選んだ。
堺・今井宗及邸。
宇喜多の領内でもない。
佐野の城でもない。
少弐の兵庫津でもない。
商人の家という中立に近い場所で会う。
宗及なら人の出入りにも慣れている。
少弐は松浦鎮興を呼び戻した。
「鎮興、同席してくれ」
「祐筆として?」
「ああ。今日は書き残しておきたい」
「承知いたしました」
渡辺満とエカシロは引き続き播磨の情報を集めている。
ライラには別の役目を頼んだ。
「俺の隣には座らなくていい」
ライラが眉を上げる。
「どうして?」
「屋敷の中にいてくれ」
少弐は少し声を落とした。
「何かあったら来てほしい」
ライラは一瞬、少弐を見た。
「そんなに危ない人?」
「分からない」
「分からないから?」
「ああ」
それでライラも納得した。
「分かった。近くにいる」
◇
宗及邸。
少弐が座敷へ入ると、宇喜多直家はすでに待っていた。
挨拶は丁寧だった。
物腰も穏やかである。
少弐も礼を返した。
松浦は少弐のやや後ろへ座り、記録を取る準備をする。
茶が運ばれてきた。
直家が勧めた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
少弐は茶碗を見た。
――そして手を伸ばさなかった。
代わりに煙管を取り出した。
「失礼」
火をつける。
一服。
煙を吐く。
直家はそれを見たが、何も言わなかった。
少弐も何も言わない。
茶はそのままだった。
直家が本題へ入った。
「織田殿は、浅井、朝倉を平らげられた」
「ええ」
「いまは丹波。そして若狭」
「そう聞いております」
直家は静かに続ける。
「では、その次はどこでしょうな」
少弐は答えなかった。
煙管を吸う。
直家自身が答えた。
「播磨です」
さらに、
「そして備前」
と続けた。
松浦の筆が動く。
「織田殿が北へ進んでいるうちはよい。だが丹波と若狭が片づけば、その兵は余る」
直家は少弐を見る。
「西へ来る」
少弐も、その可能性は考えていた。
信長は現在、佐野の支配する山城・大和との衝突を避けるように北へ勢力を伸ばしている。
だが北へ進み続ければ、いずれ播磨へ出る。
その先には備前がある。
「毛利からも使者が来ております」
直家が言った。
少弐の目がわずかに動いた。
「何と?」
「味方になれ、と」
直家は笑った。
「何度も来ます」
「断っておられる?」
「さて」
直家の答えは曖昧だった。
少弐は煙を吐いた。
この男は簡単に答えを渡さない。
直家は続ける。
「毛利は大きい」
「ええ」
「だからこそ、我らのような者を前へ出したいのでしょう」
少弐は直家を見る。
「捨て駒にされると?」
「所詮は」
直家は淡々と言った。
「織田と毛利が争えば、最初に焼かれるのは備前や播磨です」
これは確かにそうだった。
東から織田。
西から毛利。
その間に播磨と備前がある。
直家はどちらについたとしても、最前線に置かれる。
だから第三の選択肢を探している。
そして直家が口にした。
「小田家、そして佐野家に、後ろ盾となっていただくことはできませぬか」
松浦の筆が一瞬止まった。
少弐は表情を変えなかった。
一服。
煙管の先から細い煙が上がる。
「後ろ盾、ですか」
「ええ」
直家は穏やかに笑っている。
少弐も笑った。
だが頭の中では、まったく別のことを考えていた。
――嘘くさい。
何が嘘なのかまでは分からない。
毛利から使者が来ていることか。
織田を恐れていることか。
小田を頼りたいという話か。
あるいは全部本当で、その本当の話を利用して別の目的を達成しようとしているのか。
少弐にもまだ読めなかった。
ただ一つだけ、妙にはっきりした感想があった。
味方でも嫌な男だ。
そして、その直後。
もう一つ浮かんだ。
だが、敵ならもっと嫌だ。
少弐は危うく苦笑しそうになった。
宇喜多直家という男について聞いてきた評判と、目の前の人物が少しずつ重なっていく。
この男を信じて背中を預けるのは怖い。
しかし敵に回し、何をしているのか分からない状態にする方がさらに怖い。
ならば――。
近くに置く。
話す。
何度でも会う。
こちらが直家の本心を読めるまで付き合う。
少弐にはそれしかないと思えた。
それに自分は西へ行かなければならない。
兵庫津。
播磨。
備前。
さらに瀬戸内。
四国。
九州。
対馬。
朝鮮。
備前の宇喜多を無視して、この道だけ通らせてもらうなどという都合のよい話はない。
しかも向こうから近づいてきた。
ならば利用するしかない。
おそらく――直家もまったく同じことを考えている。
少弐は煙管を置いた。
「宇喜多殿」
「はい」
「今日のお話だけで、私から氏治公や佐野殿へ『宇喜多殿を庇護すべきです』とは申し上げられません」
直家は表情を変えなかった。
「当然でしょうな」
「ですが」
少弐は続けた。
「もう一度、お会いしましょう」
直家の目が少し変わった。
「もう一度?」
「一度で決める必要もないでしょう」
少弐は笑った。
「宇喜多殿も、今日会ったばかりの私を信用しているわけではないでしょうし」
ほんの一瞬。
直家の笑みが深くなった。
「これは手厳しい」
「お互い様です」
松浦は黙って二人を見ていた。
奇妙な会談だった。
どちらも相手を信用していない。
なのに、どちらも席を立とうとしない。
むしろ次に会う約束をしている。
直家が再び茶を勧めた。
「では、せめて茶を」
少弐は茶碗を見る。
そしてまた煙管を取った。
「いや。今日はこれで」
一服。
直家が少弐を見る。
「煙草がお好きですな」
「話をするときには」
「なるほど」
直家はそれ以上勧めなかった。
結局、少弐は最後まで茶に口をつけなかった。
◇
直家が宗及邸を出た後。
松浦はしばらく記録を整理していた。
やがて少弐へ尋ねる。
「殿」
「なんだ」
「宇喜多殿を、どうご覧になりました?」
少弐は即答しなかった。
煙管の灰を落とす。
「嫌な男だな」
松浦が顔を上げる。
「では、佐野様には断ると?」
「いや」
「では?」
少弐は少し考えてから言った。
「味方でも嫌だ」
「はあ」
「でも敵ならもっと嫌だ」
松浦は黙った。
少弐は笑った。
「だから付き合う」
「信用されるのですか?」
「しない」
今度は即答だった。
「信用できるようになるまで話す。最後までできなければ、最後まで疑いながら付き合う」
松浦はため息をついた。
「難儀な相手を選ばれましたな」
「向こうから来たんだ」
「殿は西へ行かれるのでしょう?」
「ああ」
少弐は地図を広げた。
兵庫。
播磨。
備前。
指が西へ進む。
「ここを通らないわけにはいかない」
そして備前のところで指を止める。
「なら宇喜多殿の本心を読むしかない」
松浦がふと、卓上に残された茶を見る。
ほとんど冷めていた。
「ところで殿」
「なんだ」
「一口も飲まれませんでしたな」
少弐は煙管をくわえた。
「喉は渇いていなかった」
「煙草は随分と吸っておられましたが」
「今日は吸いたい気分だった」
松浦は少弐をじっと見る。
少弐も松浦を見る。
しばらくして松浦が言った。
「……左様でございますか」
「そうだ」
それ以上、二人とも言わなかった。
だが宗及邸を出て、屋敷の中で待機していたライラと合流した途端、少弐は言った。
「ライラ」
「なに?」
「水が欲しい」
ライラは少弐を見た。
「お茶、出なかったの?」
少弐は少し黙った。
「出た」
「飲まなかったの?」
「……飲まなかった」
ライラは何も聞かなかった。
ただ水を渡した。
少弐は一気に飲んだ。
そしてようやく、大きく息を吐いた。
宇喜多直家。
信用はできない。
だが無視もできない。
そして西へ進む以上、避けることもできない。
少弐冬明と宇喜多直家。
互いに相手の腹を探りながら続く、奇妙な関係の最初の会見だった。




