光秀という男――伊丹の煙
清盛館を建てる場所を定めると、少弐冬明はさっそく兵庫津を離れることになった。
やはり渡辺満の予想した通りだった。
伊丹から知らせが届いたのである。
織田家の使者、明智光秀が来るという。
少弐はすぐに伊丹へ向かうことを決めた。
「ライラ、来てくれ」
「もちろん」
ライラには護衛を頼む。
一方、渡辺満とエカシロには別の仕事を与えた。
「満、エカシロ。播磨を見てきてほしい」
渡辺が尋ねる。
「城を?」
「いや。まず人だ」
播磨には多くの国人がいる。
誰が誰と結んでいるのか。
どの港に船が集まるのか。
どこに市が立つのか。
誰が織田に近く、誰が毛利に近く、誰がどちらにもつきたくないのか。
そして兵庫津から西へ商いを伸ばすなら、誰と最初に話すべきなのか。
「戦を始めるためじゃない。戦をしないために調べてくれ」
「承知」
渡辺は頷いた。
エカシロはもっと簡単だった。
「見てくればいいのか?」
「そうだ」
「分かった」
こうして二人を播磨方面へ送り出し、少弐はライラと伊丹へ戻った。
◇
伊丹に着くと、すでに客はそろっていた。
佐野昌綱。
篠原長房。
そして――明智光秀。
少弐は光秀とはまったく面識がないわけではなかった。
織田と佐野の間で使者として動く男。
佐野からも、
――話のできる男だ。
と聞いている。
部屋へ入った少弐は挨拶を交わした。
そして腰を下ろす前に、持ってきた包みを光秀へ差し出した。
「明智殿、これを」
光秀が少し戸惑う。
「これは?」
「酒です」
「……酒?」
「はい」
光秀は少弐と包みを交互に見た。
初対面に近い相手から、いきなり酒を渡されたのである。
佐野は横で何とも言えない顔をしていた。
篠原は笑いをこらえている。
ライラだけは平然としていた。
少弐が旅先で人に会うたび、酒や食べ物を渡すのを何度も見ている。
北方でも同じだった。
コタンの長にも酒。
アムールでも酒。
そして今度は明智光秀にも酒である。
光秀は一瞬迷ったものの、丁寧に受け取った。
「……ありがたく頂戴いたします」
「お口に合えばよいのですが」
「これは、どうも」
光秀はまだ少し困っていた。
佐野がとうとう口を挟んだ。
「冬明はいつもこうだ。気にするな」
「いつもなのですか」
「いつもだ」
少弐は少し不満そうだった。
「挨拶には何か持っていくものでしょう」
篠原が笑った。
「少弐殿の場合、その何かが大抵酒なのだ」
場が少し和らいだ。
少弐はそこで、今日の話し方を決めた。
畿内情勢については聞かない。
佐野からすでに十分聞いている。
浅井・朝倉は滅びた。
信長は畿内北部へ勢力を伸ばし、丹波と若狭への攻略を急いでいる。
明智自身も佐野との衝突を避けるため、織田軍の動きをある程度知らせている。
それを改めて本人に聞けば、光秀は当然、織田家の使者として答える。
それでは意味がない。
少弐が知りたいのは――
明智光秀という人間だった。
だから少弐は、まったく違う質問をした。
「明智殿」
「はい」
「以前はどちらにおられたのです?」
光秀が少し意外そうな顔をした。
「……以前、と申されますと?」
「織田殿に仕える前です」
佐野が少弐を見る。
篠原も黙った。
政治の話をすると思っていたのだろう。
光秀も少し考えてから答えた。
「さて……どこから話したものか」
少弐は急かさない。
やがて光秀が口を開いた。
「我が家については、土岐氏につながる家である、と聞いております」
少弐は頷く。
光秀自身も、どこまで確かな話なのか分からないという。
伝わっている話。
自分が聞かされて育った話。
それ以上でも、それ以下でもない。
「若いころは、随分と各地を歩きました」
「旅を?」
「はい。武芸を磨きたいという気持ちもありました」
「なるほど」
この話になると、少弐の反応が明らかに良くなった。
自分も旅をする人間だからである。
「どこまで?」
「それは……いろいろと」
光秀が笑った。
「若いころの話ですから、いま思えば随分無茶もしました」
ライラが少弐を見た。
少弐は気づかない。
「その後、越前へ?」
「ええ。縁あって朝倉家に」
光秀の声が少し懐かしむものになった。
越前。
朝倉。
そこで過ごした日々。
そしてさらに縁が重なり、足利将軍家に仕えるようになった。
「人の縁とは不思議なものです」
光秀は言った。
「越前にいたころは、自分が将軍家に仕えることになるとは思っておりませんでした」
少弐は笑った。
「俺も北の海まで行くとは思っていませんでした」
「北?」
「樺太より先まで」
光秀が目を丸くした。
今度は少弐が自分の旅について少し話した。
室蘭。
樺太。
さらに北の海。
そして大陸側。
光秀は面白そうに聞いている。
政治の話はほとんど出なかった。
やがて話題が伊丹そのものへ移った。
光秀が庭の方を見ながら言った。
「私は、この場所が好きなのです」
「伊丹が?」
「ええ」
少し間があった。
「義輝公の面影を感じる」
佐野の表情がわずかに変わった。
光秀は将軍家に仕えた男である。
とりわけ義輝への思いには、単なる主従を超えたものがあるらしい。
「ここへ来ると、不思議と昔を思い出します」
少弐は黙って聞いた。
義輝が生きていたころ。
将軍家にまだ別の未来があると思われていたころ。
光秀は多くを語らなかった。
だが少弐には、それで十分だった。
この男は単なる信長の家臣ではない。
過去を持っている。
朝倉に仕えた過去。
将軍家に仕えた過去。
そして義輝への記憶。
それらを抱えたまま、いま織田信長の使者として佐野の前に座っている。
少弐はふと思いついた。
懐から煙管を取り出す。
「明智殿」
「はい?」
「吸います?」
光秀が煙管を見る。
「煙草ですか」
「ええ」
北方でも少弐は、人と話すときによく煙草を使った。
酒を飲み、煙草を吸いながら話す。
そうすると不思議と、政治ではない話が出てくる。
光秀は少し嬉しそうだった。
「では、いただきましょう」
少弐が煙管を渡す。
光秀は受け取り、火をつけてもらった。
一服。
「――っ」
次の瞬間。
「ごほっ、ごほっ!」
盛大にむせた。
少弐が驚く。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です……」
光秀は涙目になっている。
篠原がとうとう声を上げて笑った。
佐野も耐えられなかった。
「光秀殿、無理をされるな」
「いや……これは……思ったより……」
ライラまで笑っている。
少弐だけは申し訳なさそうだった。
「強かったですか」
「少々」
それでも光秀は煙管を返さなかった。
しばらくして、もう一度そっと吸う。
今度は慎重に。
少量。
ゆっくり。
煙を吐く。
「……なるほど」
少し嬉しそうだった。
「これは悪くない」
少弐も笑った。
「でしょう?」
「ただし、最初にもう少し説明していただきたかった」
「すみません」
再び笑いが起こった。
気がつけば光秀は、最初に部屋へ入ってきたときとはまるで違う表情になっていた。
織田家の使者ではない。
土岐氏の流れを汲むと聞かされて育ち、武芸を求めて各地を歩き、朝倉に仕え、将軍家に仕え、義輝の記憶を抱えた一人の男として話していた。
佐野はそれを黙って見ていた。
少弐は畿内情勢について、ほとんど何も聞いていない。
信長の次の軍事行動も聞かない。
丹波攻略についても聞かない。
若狭についても聞かない。
それなのに光秀については、来たときより遥かに多くのことを知っている。
篠原が小さな声で佐野に言った。
「妙な男ですな」
佐野も小さく答えた。
「あれが冬明だ」
少弐はそんな二人に気づかず、光秀へ尋ねていた。
「越前では何を食べていたんです?」
「そこまで聞かれますか」
「旅先の食べ物は大事でしょう」
光秀が笑った。
「少弐殿」
「はい」
「あなたと話していると、自分が何のために伊丹へ来たのか忘れそうです」
「それなら、今日は成功です」
「成功?」
「畿内の話なら佐野殿から聞けますから」
一瞬。
光秀が少弐を見る。
そして意味を理解したらしい。
静かに笑った。
「なるほど」
煙管から細い煙が上がる。
「最初から私の話を聞くつもりだったのですな」
少弐も笑った。
「明智殿とは、今日初めてちゃんと話しますから」
光秀は煙管を眺め、それから少弐を見た。
「では次にお会いするときは、私が酒を持ってまいりましょう」
「楽しみにしています」
伊丹の午後。
酒から始まった奇妙な会談は、煙草の煙の中で終わった。
少弐冬明はこの日、織田家から新しい情報をほとんど得なかった。
その代わり――
明智光秀という男を知った。
そして光秀の側にもまた、
兵庫津に妙な外交官が来たという記憶が、確かに残ったのである。




