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清盛の海――少弐、兵庫津に館を定める

元亀三年――一五七二年。


伊丹を発った少弐冬明は、下間頼廉の同行を得て兵庫津へ入った。


ライラ、エカシロ、松浦鎮興、渡辺満も一緒だった。


氏治から兵庫津を与えられた以上、まず自分の目で街を見る。


少弐はそう決めていた。


一行は馬を降り、兵庫津を歩いた。


港には瀬戸内を往来する船が集まり、浜では人足たちが荷を運んでいる。


魚。


米。


塩。


酒。


木材。


布。


鉄。


市場へ行けば商人たちの声が飛び交い、船宿には各地から来た船頭が出入りしている。


エカシロは何度も辺りを見回していた。


北方で見てきたコタンとは、何もかも規模が違う。


「少弐」


「なんだ」


「ここは、どういうところだ?」


少弐は少し考えた。


「港町だ」


「それは見れば分かる」


「そういう意味ではないか」


エカシロが頷く。


「なぜ、ここをお前がもらった?」


少弐は歩きながら答えた。


「西へ行くためだ」


そして海を指す。


「ここから瀬戸内を通れば、四国へ行ける。さらに西へ行けば九州だ。博多から対馬へ渡れば、その先は朝鮮になる」


エカシロは海を見る。


「室蘭みたいなものか」


少弐は少し驚いた。


「……似ているな」


北方へ向かうために室蘭を拠点とした。


今度は西へ向かうために兵庫津を拠点とする。


方向こそ逆だが、少弐がやろうとしていることは同じだった。


下間頼廉が口を挟んだ。


「ただし、この港は新しいものではないぞ」


エカシロが頼廉を見る。


「昔からある?」


「ずっと昔からだ」


少弐も頷いた。


「平清盛という人がいた」


「キヨモリ?」


「四百年くらい前の人だ」


エカシロは驚く。


「そんな昔か」


「この辺りを大事にした人だ。大輪田泊を整えて、海の向こうの宋という国と商いをしようとした」


少弐は港の方を見た。


清盛が見た海と、いま自分が見ている海。


時代は違う。


船も違う。


その向こうにある国も違う。


だが海そのものは変わらない。


「ここから海の向こうへ道を通そうとした」


少弐が言う。


「俺たちより、ずっと前にな」


エカシロはしばらく考えていた。


そして、ふと口にした。


「なら、いいところだ」


「何が?」


「館を作るところ」


少弐が振り向いた。


エカシロは当たり前のことを話すように続けた。


「北でもそうだろう」


コタンには、それぞれ長く住んできた者たちの記憶がある。


先祖から受け継いだ場所。


漁をする場所。


山へ入る道。


祭る場所。


そこへ後から来た者が、すべてを自分のものとして作り直す必要はない。


昔からその土地にあるものを尊重し、その続きをする。


エカシロは兵庫津を見回した。


「ここには、キヨモリがいた」


「ああ」


「キヨモリが海へ道を作ろうとした」


「ああ」


「なら、お前も同じことをする」


少弐は黙った。


エカシロは続ける。


「昔からのコタンを大事にして、その意志を継げばいい」


そして少し笑った。


«「そうすれば、キヨモリもお前の味方をする」»


少弐の足が止まった。


頼廉も振り返る。


松浦は少弐の顔を見て、嫌な予感がした。


少弐がこういう顔をするときは、だいたい何かを決める。


「……いいな」


少弐が呟いた。


「殿?」


松浦が尋ねる。


少弐は港を見た。


「ここにしよう」


渡辺が周囲を見回す。


「城地を?」


「違う」


少弐は首を振った。


「館だ」


「館?」


「ここに館を建てる」


下間頼廉が少し驚いた。


「氏治公からは城を持つことまで許されているのだろう?」


「許されています」


「ならば、もう少し守りやすい場所を探してもよいのではないか」


兵庫津の背後には山がある。


少し場所を選べば、もっと堅固な城を築くこともできる。


渡辺も軍人としては頼廉に同意した。


「殿。せめて堀と石垣は必要では?」


少弐は即答した。


「いらない」


渡辺が目を丸くする。


「堀も?」


「いらん」


「石垣も?」


「いらん」


「では敵が来たらどうするので?」


少弐は笑った。


«「敵がここまで来る前に決める」»


渡辺が黙った。


少弐は港を指した。


「俺の仕事は籠城ではない」


瀬戸内の船。


市場。


街道。


その向こうに播磨がある。


さらに先には備前、安芸、九州がある。


「戦になるなら、ここを囲まれる前に外交で止める」


少弐は続ける。


「止められなければ、海で止める」


坂東フリガッタがある。


「海でも止まらなければ、野戦で決める」


渡辺満を見る。


「そのためにお前がいる」


「なるほど」


渡辺は苦笑した。


「最後まで負けた場合は?」


「そのときになってから考える」


「それを籠城というのです」


下間頼廉が笑った。


少弐も笑った。


だが考えを変えるつもりはなかった。


「城を造れば、城を守ることを考え始める」


少弐は静かに言った。


「俺は港を守りたい」


頼廉の表情が少し変わった。


「港か」


「ああ」


少弐はもう一度、兵庫津を眺めた。


「ここには商人が来る。船乗りが来る。外国の使者も来る。四国の者も九州の者も来る」


だから必要なのは、高い石垣ではない。


蔵。


船着場。


商人の会所。


客殿。


役所。


宿舎。


厩。


診療所。


そして何より、市場と港へすぐ出られる道。


「門と塀くらいは造ります」


松浦が安堵する。


「それだけでもお願いいたします」


「だが城にはしない」


少弐ははっきりと言った。


«「俺は籠城する前に、合戦を決するのが仕事だ」»


下間頼廉は少弐を見た。


武将として考えれば、危うい。


だが外交官として考えれば、よく分かる。


少弐は城を最後の防衛線として考えていない。


海そのものを防衛線にするつもりなのだ。


瀬戸内の諸勢力と関係を作る。


交易によって兵庫津を攻める理由を減らす。


それでも敵対する者が現れれば、坂東の船と兵を使い、兵庫津へ届く前に戦う。


頼廉が尋ねた。


「それで、館の名はどうする?」


少弐は少し考えた。


だが答えはすぐに出た。


「清盛館」


エカシロが反応する。


「キヨモリ?」


「ああ」


「いいな」


少弐は笑った。


「お前が言ったんだぞ」


「俺が?」


「昔の者の意志を継げば、その者も味方する、と」


エカシロは頷く。


「ならキヨモリも味方だ」


少弐は海を見る。


四百年前。


平清盛はこの海の向こうに宋を見た。


そして今。


少弐冬明は同じ海の向こうに、四国、九州、対馬、朝鮮を見ている。


自分の名を冠した城を築くつもりはなかった。


先人が開こうとした道の続きを、自分が開けばいい。


「清盛公」


少弐は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「少し、続きを借ります」


その日。


少弐冬明は兵庫津に本拠を置くことを決めた。


城ではない。


堀も巨大な石垣も持たない。


港と市場へ向かって開かれた館。


その名を――


清盛館。


北方で古いコタンを尊重することを学んだ男が、四百年前に海へ目を向けた武将の意志を拾い上げた瞬間だった。

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