観音寺から届く疑念――佐野昌綱の憂鬱
伊丹に到着して数日後。
少弐冬明は、エカシロ、松浦鎮興、渡辺満の三人を伴って佐野昌綱を訪ねた。
今後、兵庫津を本拠として西へ進む以上、畿内を預かる佐野との意思統一は欠かせない。
少弐は挨拶を済ませると、さっそく本題へ入った。
「坂東評定で、氏治公より兵庫津をいただきました」
佐野はすでに知らせを受けていたらしく、驚かなかった。
「聞いている。城も持ってよいそうだな」
「はい。築くか、使えるものを探すかは任されました」
「それで?」
「堺から朝鮮まで道を通せ、と」
佐野は一瞬黙った。
そして笑った。
「また大きなことを言われたな」
松浦が横から、
「我らも同じことを申しました」
と言う。
「だが、必要な仕事だ」
佐野は瀬戸内の地図を広げた。
「兵庫を押さえれば淡路にも播磨にも出られる。堺と四国をつなぐにも都合がよい。資忠が困っている瀬戸内の商いも、いくらか整理できよう」
少弐が頷く。
「まず兵庫津を整えます。その後、播磨の国人と話します。できれば戦は避けたい」
「それでいい」
佐野の指が播磨から北東へ動いた。
「問題はこちらだ」
近江。
丹波。
若狭。
そして越前。
「信長は浅井と朝倉を平らげた」
朝倉旧領には柴田勝家が入り、北陸への備えを固めている。
一方、西では羽柴が若狭方面へ動き、明智は丹波攻略を進めている。
少弐は地図を見ながら言った。
「やはり北へ行きますか」
「ああ」
佐野も頷いた。
「明らかにそうだ」
信長の動きには一貫性があった。
山城、大和へ南下しない。
佐野の勢力圏へ直接踏み込まず、近江から丹波・若狭へ進み、そのまま山陰・山陽への道を探している。
「信長は、こちらと勢力圏が重ならぬように動いている」
佐野はそう判断していた。
少弐も同意する。
「ならば今のところ、信長公自身に我らと戦う意思は薄い」
「おそらくな」
しかも織田側は、それを隠していなかった。
使者として佐野との交渉を担当している明智光秀が、織田軍の動きをある程度知らせてくるのである。
松浦が尋ねた。
「軍事上の動向までですか?」
「すべてではない」
佐野は笑った。
「だが『丹波へ兵を入れる』『若狭方面で動きがある』程度は先に知らせてくる」
少弐には意味が分かった。
「こちらに誤解させないためですね」
「そうだ」
突然丹波に大軍が現れれば、佐野側は山城への侵攻準備と受け取るかもしれない。
だから明智は先に知らせる。
これは親切ではない。
外交である。
互いに余計な戦をしないための情報交換だった。
「明智殿はこちらの信頼を得ようとしている」
佐野はそう評価していた。
「話のできる男だ」
ところが――。
佐野はそこで大きくため息をついた。
「問題は信長ではない」
少弐は誰のことか察した。
「義秋公ですか」
「そうだ」
足利義秋。
現在は信長とともに観音寺城へ移っている。
信長が山城へ直接入らない以上、観音寺は畿内情勢を見渡すには都合がよかった。
だが義秋は、そこで満足していなかった。
「上洛、上洛、上洛だ」
佐野はうんざりした顔で言った。
「諸国へ書状を書いている」
将軍家を京へ戻せ。
自分を奉じて上洛せよ。
幕府を再興せよ。
各地の大名や寺社、旧幕臣へ、繰り返し書状を送っている。
渡辺満が腕を組んだ。
「信長公は止めぬので?」
「止めているのか、聞き流しているのかは知らん。少なくとも信長自身は動いていない」
エカシロは話を聞きながら、少弐へ小声で尋ねた。
「そのヨシアキという男は、なぜそんなにここへ来たい?」
少弐も小声で答える。
「将軍だからだ」
「来れば将軍なのか?」
「……その説明は長くなる」
エカシロは首を傾げた。
その様子を見た佐野が少し笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
「しかも最近は、妙なことまで言い出した」
「妙なこと?」
「俺が義秋公を殺そうとしているそうだ」
少弐が眉を上げた。
松浦も筆を止めた。
「佐野殿が?」
「ああ」
佐野は呆れたように笑った。
「俺は義輝公の妹君を妻としている」
それ自体は事実だった。
問題は、その先である。
「だから俺が義秋公を暗殺し――」
佐野は自分で言うのも馬鹿馬鹿しいという顔になった。
「我が子を次の将軍に据えようとしている、と」
しばらく部屋が静かになった。
最初に口を開いたのは渡辺だった。
「……本気で?」
「本人は本気らしい」
「それはまた」
渡辺も続きが出てこない。
少弐は額を押さえた。
「どうしてそうなるんです」
「俺が聞きたい」
佐野は吐き捨てるように言った。
「義秋公から見れば、俺は義輝公の妹婿だ。息子には足利の血が流れている。それだけで十分らしい」
松浦が慎重に尋ねる。
「その噂、誰かが吹き込んでいる可能性は?」
「あるだろうな。だが本人が信じたがっている節もある」
義秋にとって、山城と大和を押さえる佐野は最大の障害だった。
信長は自分を奉じている。
なのに京へ連れていかない。
その理由を、自分と佐野との間にある政治的事情ではなく、
――佐野が自分を恐れている。
――自分を亡き者にしようとしている。
――足利義輝の血を引く別の将軍を立てようとしている。
そう考え始めている。
「誇大妄想というものだ」
佐野は苦笑した。
少弐は笑わなかった。
「危険ですね」
「ああ」
ここが問題だった。
信長は佐野と戦いたくない。
佐野も信長と戦いたくない。
明智は両者の衝突を避けようと情報まで流している。
それなのに義秋だけが諸国へ上洛を呼びかけ続けている。
いずれ誰かが、その声に応じる。
あるいは義秋自身が信長へ強く迫る。
そうなれば、信長の意思とは無関係に軍勢が山城へ向かう可能性がある。
少弐は地図を見た。
「つまり……」
指を観音寺から山城へ滑らせる。
「戦を望んでいる者がいないのに、戦になる可能性がある」
「そういうことだ」
佐野は頷いた。
「だから冬明」
「はい」
「兵庫を急げ」
少弐が顔を上げる。
「こちらで何か起きたとき、お前まで山城へ縛られては困る」
佐野は兵庫津を指した。
「お前は西を押さえろ。瀬戸内を通せ。播磨と話せ。できるなら宇喜多までつなげ」
そして少し笑った。
「こちらは俺が義秋公に殺されぬよう気をつけておく」
「逆でしょう」
少弐が思わず言った。
渡辺が笑う。
松浦まで顔を伏せて笑いをこらえた。
佐野も笑った。
だが、少弐には分かっていた。
笑い話で済む時間は、それほど長くない。
信長は北へ。
佐野は山城と大和にとどまる。
両者は互いを避けている。
その間で足利義秋だけが、京都という一点を見続けていた。
そして、その執念がやがて――
誰も望んでいなかった戦を呼び込むことになる。
少弐は立ち上がった。
「では兵庫へ行きます」
佐野が頷く。
「頼む」
松浦が書状をまとめ、渡辺が腰を上げる。
エカシロも立った。
伊丹を出れば、次はいよいよ兵庫津だった。
少弐冬明にとって初めての、自らの城と港。
そして――西国への入口である。




